不埒に溺惑

藤川巴/智江千佳子

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STEP 7 「次は見境なく襲う」

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「何その反応」
「び、っくりして」
「もう俺の全部見たくせに?」
「そ、そういうことは、言わないでください」
「ん、着替え終わった」
「……ほんとう?」
「超真面目な俺を信じて」
「しんじて、る」

 ちらりと振り返ったら、本当にシャツの早着替えを終えた八城と目が合った。

 殴りつける雨音に支配された車内は、ひっきりなしに音が響き渡っている。四方のガラスは水がしたたり落ちる模様だけが描かれていて、とても周りの様子など確認することもできない。

「うわーすっげえ雨だ」
「本当ですね。せっかく皆さん、楽しそうだったのに……、お子さんたちが落ち込んでいなければいいんですが……」
「あはは。大丈夫。もうほとんど個人で遊んでるくらいだったし。新崎さんとこも、みんなでキャッチボールしたら帰るって言ってたから、問題ないよ」
「それならよかったです」

 外を窺いながらほっとため息をつくと、八城は私の憂いを茶化すように笑った。

「真子ちゃんが明菜のこと気に入って、来週も会いたい~! ハルくん連れてきて~! っておねだりしてきたわ」
「え? まこちゃんがですか。かわいいですね」
「拓真も明菜と遊びたいって」
「え、たくまくんも? うれしいです。たくまくん、ものすごく笑顔が可愛くて、見ているだけでしあわせな気分になっちゃいました」
「あーたしかに。可愛いよな。俺もあれくらい可愛い時期があったはずなんだけど……」

 一通り髪を拭き終えた八城が、茶化しながら暖房を入れてくれる。動作を目で追いながら、ふいに思いついた問いを口に出した。

「八城さんは子どものころ、どんな感じだったんですか?」

 問うておきながら、想像できる気がする。私の瞳を覗き込んだ八城は、特に考えるでもなく小さく笑って答えてくれる。

「俺はオヤジに野球教えられてたから、本当に新崎さんとこの拓真みたいな、あんな感じ」
「すてきなご家族ですね」
「ん、明菜ちゃんは? どんな子だったの?」
「あー、うーん。姉が一人いて」
「あの写真のお姉さん?」
「そうです。……姉がとっても、大好きです」
「そっか。そんな感じする。じゃあ末の妹なんだ」
「はい」

 姉にはよく可愛がってもらった。小さいころから、いつも姉には譲らせてばかりだったように思う。

 今になって考えれば、かなりいろいろなものを犠牲にさせてしまっているのではないかと思うほどだ。

「家族は仲良さそう」
「うーん、どうでしょう。母は、いつも優しかったです」
「うん?」

 家族仲は、もしかすると、八城の想像するようなものではないのかもしれない。

 ふいに新崎と子ども二人が熱心にボールを追いかける姿を思い出して、努めて明るい声を出した。

「父は、何を考えているのか分からない、ちょっぴりこわーい、人で」
「はは、うん」
「ずっとお仕事ばっかりで、あんまり構ってもらえなかったから、いまだに距離感が掴めないというか。本当のことを言うと、すこし、苦手でした」
「そっか」

 八城はとくに、何かを問い詰めたりもせずに、私の顔を見ながら笑っている。その表情を伺い見て、もう一度口を開く。

 私の知る父は、厳格な人だった。家庭では絶対的な力を持っている強い人だった。

「でも、」
「ん?」
「社会人になって、お仕事をするようになって」
「うん」
「お父さんってすごいなあって」

 働くことや稼ぐことがこんなにも大変なことだとは知らなかった。父はずっと昔から、泣き言一つ言わずにひたすら社会に貢献し続けている。

「今は、働く父の姿を尊敬しています」

 父のすべてを肯定することはできなくとも、十分に尊敬できる人だと思いなおすことができたのも、この会社で働くことができたからだ。

「明菜はいい子だな」
「ええ?」
「親父さんも嬉しいだろうね」
「どうでしょうか。女が働きに出て! とか、思われているかも」
「古風なイメージがあるんだな」
「そう、ですね」

 ——間違いなく、父は古風な人だと思う。

 そういうところが、私はかなり苦手で、あまり近づきたくない存在だった。

「じゃあ、河原で野球なんてしないか」
「あはは。私は、そうですね、バレエとか、華道とか」
「うわ、すっげ」
「すごくはないです。両親の勧めでやっていたくらいなので、今は続けていないですよ」
「明菜と花、似合いそう」

 静かに囁きながら、私の髪を耳にかけてくれる。優しい手に誘われて視線を向けば、甘い瞳が私を見下ろしていた。

「……これは、誘惑です?」
「いや? ただの感想です」

 わざとおちゃらけた言い方をする八城に、小さく笑ってしまった。どんなことでも真剣に受け止めてくれるけれど、暗い雰囲気にされることは絶対にない。

 八城との会話は、つねにどこかに一筋の光を感じられる気がする。前向きで、いつも明るい八城の人間性を心底好ましく思う。

「ふふ、だからあの、親子で一緒に遊んでいるところは、なんだか眩しいです。私は結構、お稽古事が多くて、父とも母とも習い事のお話はできなかったので」
「そっか。俺もああいう、普通のしあわせそうな家庭にあこがれるんだよね」

 休日に父親に連れられて、一緒に遊んでもらえる経験とは、人生においてもかけがえのない宝物になるだろう。

 八城にはそういう思い出があるから、もしかしたら、この集まりにも積極的に顔を出しているのかもしれない。

「あはは。八城さん、子どもたちに大人気でしたもんね。絶対にすてきなお父さんになります」
「はは。そう? まあ、結婚願望はそれなりにあるから、嬉しい評価だけど。……子どもはめちゃくちゃ好きだし」
「……わかります。お好きなんだろうなあって、伝わってきました」

 八城は現在三十一歳だと聞いている。結婚願望がある男性なら、遊びで交際をしている時間は無駄になってしまうだろう。

 そんな人に、私のわがままに付き合わせてしまっている。ふいに事実を突き付けられて、胸にちくりと小さな針が突き刺さった。

 私の感情を知る由もない八城が、長い指先で私の頬に触れる。その指先の温かさに吃驚してしまった。私の頬のほうが、冷たいらしい。

「ん、明菜ちゃんも、好きでしょ。真子ちゃんとなんか喋ってるとき、ずっとかわいい顔してた」

 笑いながら、私の頬を撫でて熱を移してくれる。

「すき、です、ね」
「だと思った。子ども好きな女の子が良いな、と思う」
「う、ん?」
「俺の結婚願望の話」
「あ……、なる、ほど」

 言動と行動がばらばらで、うまく集中できない。私の頬を撫で続ける八城の瞳に囚われて、うまく頭が回らなくなった。

「うまい飯作ってくれて、笑顔で迎え入れてくれるような子ならなお良いよね」
「……す、てきですね」

 落ち着かない気分で気のない返事を口走ったら、八城の目が静かに笑った。

「仕事も頑張ってて、いつも一生懸命で、もうすこし手ぇ抜きゃあいいのにってこっちが心配になるくらい真面目で」
「……は、い」
「目が離せなくなる」

 唇が、ゆるりと微笑んで口遊んだ。

「明菜みたいな」

 あっさりと口にされて、ぎゅっと胸が詰まった。とんでもない言葉を口にされた気がするのに、あまりにも予想外すぎて、うまく言葉が出てこない。しばらく、ただ八城のカラメルのようにどろどろと熱い瞳を見つめていた。

 小さく「明菜さん?」と茶化しながら呼ばれて、かろうじて息を吹き返した。

「……こ、れは、ゆうわ、く?」
「どうだと思ってんの」

 低く囁かれて背筋に熱が集まる。

 ただ見つめ続けているだけで、声を出す隙もなく、八城の顔が寄せられた。頬を撫でていた手は、いつの間に私の耳元から首筋のあたりを覆って抵抗を壊してくる。

 頭が回らない。ただ呆然と見つめているうちに、一度口づけて、もう一度触れられる。

「ん、やし、」
「ん」
「お、そと」
「ん」

 八城が口づける音と、雨音だけが響いている。私の制止を聞かない八城が身を乗り出してきたのを感じた。

「だ、め」
「見えねえって」
「んっ、ふ、」

 フロントガラスから隠すように覆いかぶさってきて、息つく間もなく深く口づけられる。すこし前まで、一緒にボールを追っていたはずが、いつの間にか八城の熱に溶かされて、意味も分からずに縋りついている。

「あきな」
「っ、ぅん」
「明菜」

 唇と唇の間で、静かに名前を囁かれる。まるで私の名前が八城だけのものになってしまったみたいだ。

 無意識にシャツに縋りついた指先が解かれて、八城の手につなぎ合わされる。どれくらいの時間抵抗できていたのだろうか。

 次に八城の目に射抜かれたときには、もう、抵抗なんて忘れて、どうしようもなく離れたくなくなってしまっていた。

「唇、温まってきましたか」
「……うん?」
「冷てえから、キスしたら治せるかと思って」

 嘘か本当かも分からないずるい言い訳で、ますます唇の熱がおさまらなくなる。何も言えずに黙って見つめていれば、八城の目が小さく笑った。

 唇を触れ合わせながら優しく名前を呼ばれて、我慢が利かなくなってくる。

「や、しろさん」
「ん」
「もう、ちょっと」
「うん?」
「もうちょっと、キス、した……っ」

 熱に浮かされてつぶやいたら、「したい」と最後まで言い終われなかった唇が、八城に噛みつかれる。肩と顎を掴みなおされて、考えもなく、八城の濡れた髪に手を添える。

 私の熱でぴくりと動いた身体がますますつよく私の肩をシートに押さえつけて、どろどろにキスを深めてくる。

 ——八城と私が結婚することは、絶対にない。

 はじめから、交際するつもりもなければ、婚姻関係になることなんて、想定してもいない。分不相応な願いだと知っている。

「んっ、……ふ、や、しろ、さ……っ」
「ん、」
「やしろさ、ん」
「うん?」

 本当に、はやく終わらせてしまったほうが良い。

「はやく、エッチしたい、です」

 至近距離で囁いて、目を見張っている八城の唇にそっと口づける。懇願のキスを捧げて、もう一度、覆いかぶさってきている八城を見上げれば、きゅっと眉に皺が寄ったように見えた。

 それは、どんな表情なのだろう。

「誘惑されてる気がするな」
「し、てます」
「ここで犯されたいの?」
「おか……、そ、いう」
「明菜ちゃんが恥ずかしがってるお外だけど」
「そういう、意味じゃ」
「すげえ雨降ってるし、まあ見えないだろうけど……、やんだら、丸見えだし」
「……っあ、まって」

 つよい眼差しに射抜かれて、目眩がしてくる。私の肩を押さえつけていた手が、ゆっくりと身体のラインをなぞりながら服の裾まで下りて、あっさりと中に侵入してくる。

 すこし前まで雨に打たれていたはずなのに、八城の手は燃えてしまいそうなくらいに熱い。

 中からお腹をなぞられて、たまらず腕に縋りついた。

「っ、まって」
「ん」
「まって、ごめん、なさい……、ここでは、」
「うん?」
「ここでは、やっぱり、嫌……です」

 ゆるゆるとお腹の皮膚をなぞっていた指先の動きがぴたりと止まった。

 真剣なまなざしに射抜かれて、もう一度「ごめんなさい」と素直に謝れば、するりと指先がブラウスの中から引き抜かれて、その手で優しく抱き寄せられた。

「あ……」

 何も言わずにじっと抱きしめられて、優しい熱がやわらかく離れる。目の前に戻ってきた八城の瞳は、今日も私をまっすぐに見下ろしていた。

「明菜」
「は、い」
「絶対、してほしくないタイミングでは、誘惑しないこと」

 八城は小さくつぶやきながら、私の頬を撫でていた。あわい熱に触れて、緊張していた身体がすこしだけ落ち着く。

「たぶん、明菜が思ってる以上にめちゃくちゃ誘惑されてるんで」
「ゆ、うわく、されてくれて、いま、す……?」
「ん。場所関係なくぐっちゃぐちゃにされたくなきゃ、約束して」
「ぐっちゃ、ぐ、ちゃ」
「次は見境なく襲う」
「そ、んなに、誘惑されているように、見えない、です」

 少なくとも、私なんかよりはよっぽど落ち着いている。八城に聞かせたい。こんなにも私のこころはこなごなに散らばって、ひっきりなしに甘い音が鳴り響き続けている。

「されてなきゃ、いくら見えなくても車でキスしたりしねえだろ」
「……そう、なんですか」
「明菜がエロい顔してるとこ誰にも見られたくねえし」
「え、ろ」
「その顔」
「……動揺している顔です」
「俺には、どうしようもなくキスしたそうな顔に見える」

 きゅっと顎を掴まれて、唇を見下ろされる。その瞳の熱で頭が酩酊してしまう。

『絶対、してほいくないタイミングでは、誘惑しないこと』

 八城の言葉が耳に住み着いて、ぽろりと声が漏れた。

「それは、間違ってない、です」
「……さっきの話」
「キスは、しても、いいです。……雨で、見えない、から」

 八城との関係で、キスをする必要はない。ただ、作業として身体を抱いてもらえればそれでよかった。だからきっと、誘惑されているのは、やはり八城ではなく私のほうだ。

「ずるい、言い方、でした。……キスは、すごく、したい」
「……あー、くそ」

 小さく言葉を吐き捨てた八城にもう一度口づけられて、シートに沈み込む。すこし前まで冷たくなっていたことなんて、思い出せない。ただ熱くて、八城と触れ合う音だけが聞こえている。

 雨が降り続いて、私と八城のキスを隠してくれているのか、ひどく曖昧だ。

「あきな」
「ん、……ぅ」
「余所見すんな」

 曖昧だけれど、確認する隙もない。どろどろの声にたっぷりと毒を含ませて、私の唇に流し込んでくる。

 一瞬窓の外へと向きかけた視線は、すぐに八城に引き戻されて、簡単に囚われる。

「余裕あるんだな」
「あ、……ぅ、う、うん……っ」

 耳元に八城の唇から吐き出される熱い声が触れて、思わず身体が震えた。

「俺だけ見てろ」

 言葉に声を返す間も無く、食らい尽くすように唇を塞がれる。柔らかい舌に触れられるまま、何も考えずに唇を開いている。

 夢中だ。ずっと、八城しかいない。八城しか見えない。

 無遠慮に八城の舌が触れてきたら、唆されるまま自分の舌を絡ませている。八城の熱で、頭の中にあるすべてが、飛び散ってしまった。

「あきな」

 何も考えられず、感じる通りに八城の身体に腕を回したら、触れた背中はどこまでも熱くなっていたような気がした。
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