不埒に溺惑

藤川巴/智江千佳子

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STEP 3 「もっと恥ずかしいこと、すんのに?」

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 膝についている八城の手の甲に、上から包むように触れた。八城の手が大きすぎて、私の手ではあたためきれなさそうだ。困って、もう片方の手もそっと伸ばしてみる。

「あはは、明菜ちゃん、手ぇ小さい」
「八城さんが大きいです」
「そ?」
「冷たい、ですね。温かくなればいいんですが」

 両手で手の甲をさすってみれば、上から八城の低い笑い声が聞こえてくる。

「左手も温めてもらっていい?」
「あ、もちろん、です」
「ん、明菜ちゃんこっち向いて」
「はい?」

 ソファに座っている体勢を動かして、なるべく八城と向き合う形になる。ソファに座っていても八城に見下ろされてしまうから、改めて、大柄な人なのだと感心してしまった。

「手ぇ出して」
「あはは。はい」

 向き合った八城が、ハイタッチをするみたいに両方の手のひらを私に見せてくる。同じように手のひらを八城に見せたら、ゆるく笑んで、そっと握られた。指と指の間をするりと通って、やんわりと掴まれる。指先が絡んでしまう様子を見せつけられているように思えて、私の口から漏れ出していた笑い声が、止まった。

 八城の手は、すこしも冷たくない。

 もう、すでに私と同じ体温になっているのだと気づいて、ようやくこれが、八城の誘惑に乗せられた行動だったのだと知る。

「これ、」
「んー?」
「手、もうあったかいです」
「そ?」
「あつい」
「明菜がかわいいからだわ」
「は、い?」
「興奮してんの」

 何の恥ずかしげもなくつぶやかれて、今度こそ息を殺された。とんでもないことを、言われている気がする。

 じっと私を見下ろす瞳に獰猛な色が浮かんでいるように見える。本能的に逃げ出したくなって、逸らさないようにと力を入れていた視線があっけなく八城の瞳から逃げてしまった。

 誘惑をしなければならないのは私だ。

「俯かない」
「あ、」

 無意識に俯いていた。気づいたのは八城に注意をされた後で、その時にはもう、八城の顔が私の瞳を下から覗き込んでいる。

 狼狽えて身体を引けば、両手が繋がれたまま、八城にやんわりと体重をかけられた。ぽすりと背中にソファの生地が当たる。押し倒されたのだと理解して、急激に胸が苦しくなった。暴れまわって、どうにかなりそうだ。

 こんなにも胸がどきどきして、翻弄されてたまらなくなっているのは、私だけなのだろうか。

「ぼやっとしてると、キスされるだろ?」

 たぶん、私だけだ。

 八城の声は低い。焦った様子もなく、まっすぐに誑かしてくる。耳元に丁寧に囁いて、私の名前を呼んだ。

「あきな」
「や、しろさ」
「――どうされたいの」
「どう、」
「このままじゃ、食われるよ」

 心臓が飛び出てしまいそうだ。とんでもない色気にあてられて、逃げ出したくなる。

 八城の問いかけはおかしなものだ。まるで、私がそうされたくないと思っているのが透けて見えているような言い方をする。

 私がここに居る理由はたった一つだ。どんなに胸の脈拍がおかしくて緊張で吐き出してしまいそうでも、この人に、抱かれたいと思ったから、ここにいる。

 勇気を振り絞って、八城の瞳を見上げた。楽しそうな目をしている。すこし、危険な色を孕んでいると思う。この人に、交渉を仕掛けたのは、私だ。

「……して、くれない、ですか」

 私の喉元から溢れ出たのは、蚊の鳴くような声だった。もしかしたら聞こえていないかもしれないけれど、だとしてももう一度口に出す勇気がない。たったこれだけの言葉で限界を迎えてしまうような蚤の心臓に呆れつつ、八城の目がどろどろに熱くなった気がした。

「あれ、もしかして誘惑されてる?」

 ぐつぐつに溶かしたカラメルみたいだ。どこまでも甘くて、すこし苦い。とろける魅惑的な瞳に囚われて、ただ、じっと見つめていた。

「うん」

 ただ一言だけ、ほとんど空気を吐くような音を出せば、私の指に絡んだ八城の指先に力がこもった。それだけでひどく落ち着かない。

「……かなりぐらっときた」

 耳元に顔を寄せて、熱い吐息で囁いてくる。

 誘惑をされてくれているのだろうか。これが演技なら、私はもう、どうすることもできない。どうしようもなく、たまらなく八城が好きだ。プライベートな姿を知ってしまう度に好きが降り積もって、もう、計測することもできないくらいの容量になってしまっている。

 このままではいけない。はやく、どうにかしなければならないと思う。この関係が始まってしまってから何度目かの決意を胸に秘めて、どうにか唇を動かした。できるかぎり、誘惑する女性の声になってくれていたらいい。

 八城の両手にしがみつくように指先に力を込めて、まっすぐに見上げる。

「じゃあ、してください」
「……うちの明菜ちゃんはそんなに積極的だったっけ?」
「頑張ってるんです」
「俺に食われたくて?」
「……そ、う、です」

 どうにか、できる限りの声でつぶやいたのに、八城はゆるく微笑むばかりだ。まったく効いてくれない。

 この体格差では、ここから八城を押し倒すこともできないし、私からキスしてみるなんて、夢のまた夢だ。全く歯が立たない。どうしようもなくなって唇を噛めば、片手だけ、八城の拘束が剥がれた。

「唇噛むの、禁止」

 予告なくフェイスラインに添えられた手に、胸が甘く痺れる。伸ばされた親指の腹が優しく下唇に触れる感覚がして、すぐに唇が薄く開いてしまった。

「いい子」
「やしろさ、」
「じゃあ、明菜のおねだりに負けて、今日はすこしやってみようか」
「やって、みる?」
「明菜のこと、食うのだよ」
「くう、」
「食われたいんだろ? 俺に」

 八城春海は、答える隙を与える気がない。上から顔を寄せてくる気配にぎゅっと目を瞑れば、額に柔らかい感触が降りた。

「やし、」

 声をあげかけたところで、前髪をさらりと流される。今度は、こめかみのあたりに柔らかく触れられた感覚で、ようやくキスを落とされているのだと気づいた。

「や、しろさん」
「ん」
「これ、すごい、はずかし」
「もっと恥ずかしいこと、すんのに?」
「あ、」

 くつくつと笑いながら、頬に唇を寄せてくる。くすぐったい音が鳴って、目が回りかけた。私の動揺など気にも留めずに、八城が私の髪を耳にかけて、耳元に顔を寄せてくる。何か囁かれるのかと思った私は、本当に、恋愛初心者なのだと思う。

「ひぅ、」

 耳殻に湿った感触があった。何かに食べられたような、柔らかいものに甘噛みされたような感覚に、思わず高い声が出た。

 元凶の八城は私の反応に、また気分がよさそうに笑っている。

「ビビった?」
「び、っくり」
「ん、もう一回、いい?」
「っう」

 良いともダメだとも言えない。答える前にもう一度食まれて、縋るように八城につながれている手に力を込めた。未知の感覚に背筋が震えて、頭がぐるぐるとエラーを起こしている。どうしたら良いのかもわからずに、ぎゅっと目を瞑っていた。

「あきな」
「な、に」
「あーきな、こっち見て」
「……な、んです」
「やっと見た」

 私の身体の上に跨っている八城は、いつも見る爽やかな男性社員の姿とはかけ離れている。

「耳、弱いの?」
「よ、わいとか、強いとか、あるんです、か」
「あはは。そう来るか」

 八城はすこしも動揺していないらしい。いまだにつなぎ合わせている片手を私と八城の身体の間に持ってきて、見せつけるように私の指先に口づけてくる。

「や、しろさん」
「ん」

 つめさきから関節の一つひとつを愛でるように口づけて、私の声に応えては視線を向けてくる。何もおかしなことなどしていなさそうな顔で見下ろしてくるから、言葉に詰まった。

「明菜の身体、ぜんぶ柔らかそう」

 くすぐったい音をわざとらしく立てて、手の甲に吸い付いてくる。ぺろりと舐められたら、どうすることもできずにもう一度八城の名前を呼んだ。

「やしろさ、ん」

 手を握りなおして、丁寧にキスを落とされる。熱のこもったまなざしで見下ろされたら、どうしようもなく、頭がぼうっとして、ぐらぐらしてくる。ぼうっと見つめていれば、手首まで熱心に口づけていた八城が、ふっと笑って私の額を撫でた。

 その指先の熱にさえ、身体に電流のような何かを生じさせてしまう力がある気がする。

「すぐふにゃふにゃになるから、心配だわ」

 苦笑のような、とろけた笑みのような表情だった。ふわふわと浮ついた気分で、声をあげる。

「しんぱい?」
「ん。どっかから野郎が現れて、ぺろっと食われそうで」

 想像しているのか、八城がかすかに眉を顰めた。感情表現の豊かな表情におかしくなって、普段なら、口から出てくれないような言葉がこぼれてしまった。

「……八城さんが、はやくもらってくれないんだもん」
「ん~? 俺のせいか」
「そう、です」
「そっか、ごめんね」

 あまり、申し訳なさそうな声には聞こえない。どちらかというと楽しむような音に聞こえて困ってしまった。八城はトドメをさすように、唇の端に優しくキスを落としてくれる。

「……今日は抱かないよ」

 遊びは終わりとでも言わんばかりに、攻める手から力が抜かれる。手櫛で、愛でるように髪を整えられた。八城はうわずった脈拍が落ち着かない私の姿を、上から笑っている。

「まだ駄目ですか」
「もうちょっと?」
「どれくらいで抱いてくれますか」
「そんなに抱かれたいの?」
「うん」

 口に出しながら、どうしてこんなに大胆なことが言えるようになったのか、自分でも不思議な気分になっていた。八城が作り出した空気がそうさせているのなら、たぶん私が八城を誘惑することなんて、一生できないだろう。

 拗ねるような声が出てしまった自覚があって、急に気恥ずかしくなった。視線を逸らせば、優しく頭を撫でられる。その優しさが好きで、もう、どうしようもない。

「心配しなくてもしっかりいただきますよ」
「なるべく早めでお願いします」

 こんなことを、続けていたら、一回の思い出では流しきれなくなってしまう。予感しているのに、今日の私も、結局八城春海を誘惑することはできなかった。
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