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 テオドール・フローレンスはソフィアを邸に連れ戻したその日のうちに2人の息子を屠った。

 しかし、彼にとっては、息子など取り換えの利く飾りに過ぎない。

 彼が最も愛する存在は、やはりソフィア・フローレンスただ一人だ。彼女がテオドールにフローレンスの傑作と呼ばれた理由は、単なる魔力量によるものではない。

「オフィーリア。ついにお前を手に入れることができる」

 ソフィア・フローレンスは、テオドールの最愛の者によく似た女人に育った。

 彼女はテオドールが長らく興味もないブロンドの令嬢とまぐわい続け、ようやく訪れた天使だったのだ。

「はは。まだ起きてくれないのか?」

 顔を赤らめ、深く眠り込む娘の頬を撫でたテオドールは、うっとりと目を細めて寝台を出る。

「フィー、早く目を覚ましてくれ。お前の声が聴きたい」

 優しい恋人のように囁いた男は、最後にオフィーリアの髪に口づけを落として部屋の扉を閉めた。


 部屋は堅牢な塔の最上階に位置する。

 小さな部屋には天蓋の付いた大きな寝台が一つ。オフィーリアと呼ばれた乙女が、真ん中に眠りついていた。

 麗しき乙女の腕には黄金の腕輪が嵌められ、鎖が寝台の柵に括りつけられている。幽閉された姫のような乙女は、気配が途切れたことを確認して静かに瞼を持ち上げた。

 部屋は、小さな天窓が一つだけ乙女の手には決して届かない高さのところに存在し、微かな月光が零れ落ちてきている。それ以外には、乙女を照らす光などどこにもない。

 乙女——ソフィア・フローレンスは、いつまでも子ども騙しのような狸寝入りがあの男に通用しないことを知っていた。この場に連れられて、今日で2回目の夜になる。

 ソフィアは、努めて押さえ込んでいた呼吸を戻し、額に汗を浮かべながら上体を起こした。

 兄二人を屠ったことを耳元で囁いてきた父は、まるでソフィアが嬉々として彼を慕うことを待ちわびているようだった。

 ソフィアが眠っていないことくらい、テオドールは気づいている。彼は、その息子たちと同じく醜悪な性格をしている。ソフィアが耐えかねて起き出し、テオドールを求めるその瞬間を待ちわびている。

 ソフィアが眠るふりを続ければ続けるほどに、テオドールは残虐な行為を繰り返して、ソフィアの気を引こうとする。

 明日、テオドールに殺されるのは誰か。ソフィアは悍ましさに眉を顰めながら、ふらふらと寝台の脇に降り、冷えきった石畳の地面に座り込んだ。

 精神魔法をかけられた感覚はない。

 ソフィアは己の愛する者をいくつか頭に思い浮かべ、まだ、それらの者を慈しむ心が残っているらしいことに安堵している。

 魔法を行使しようとすればするほどに、ソフィアは腕輪に力を奪われる。

 ソフィアはその腕輪が、獣人の手に嵌められているものと同じ働きを持つ物であることを感じ、今日も全く外れそうにないことにため息を吐く。

「まるで囚われのお姫様みたいね」

 嘲るように囁いたソフィアは、自身がただの悪女であるはずが、このような扱いを受けていることに笑いだしてしまいたかった。

 この腕輪は、獣人たちから体力と魔力を奪うために作られたものだろう。

 腕輪を外したルイスの様子を見るに、獣人たちは人族の魔術師たちと同じく、魔力を持つ生命体である可能性が高い。

 ソフィアは自身の仮定が身をもって証明されたことを感じつつ、静かに石畳の上に身体を横たえる。

 父が用意する物の上に寝そべる気などない。

 そもそも父は、ソフィアを娘とは思っていない。

 ソフィアは以前から、父が己を見る目が歪んでいることを感じ取っていた。父は、ソフィアが兄たちの手に虐げられたり、獣人たちに手酷い折檻を受けたりしているところを観察し、ギリギリのところで守り、慈しむことを好んでいた。

 まるで、ソフィアにとっての王子がテオドールになるように仕向けているかのような行動だ。

 ただならぬ感情を読みとったソフィアは、しかし父がソフィアとユリウスの婚約を認めたことにより、自身の嫌悪感は錯覚のものだと思い込もうとしていた。

 それも、ユリウスから帝王による王子殺しを打ち明けられたとき、疑惑が確信に変わる。

 テオドールは、ユリウスが死す運命にあることをよく理解していた。そのうえでソフィアを婚約者とし、その時が来るのを待ち続けていたのだ。

「オフィーリア・フローレンス……」

 その者の名を、ソフィアは忘れたことがない。

 グランとフェガルシアの間に大きな軋轢を残し、悲劇の死を遂げた女性の名だ。テオドールの最愛の妹でもある。

 しかしその最愛の意味を、ソフィアはやはり疑わずにはいられない。

 ソフィアは蒸気にあてられているかと思えるほどに熱い身体を持て余し、石畳に身体を押し付ける。薄手のネグリジェは、恋人を誘う乙女の衣装のようだ。

 吐き気がする。

 ソフィアはちらりと見えたシルクのネグリジェを拒むように視界からそらして、熱い息を吐いた。

 テオドールに、呪いを緩和させる方法を打ち明ければ、間違いなく獣人に被害者が出る。父は嬉々として獣人を殺し、血を差し出してくるだろう。

「させ、ないわ」

 それくらいなら、ここで死したほうがマシだ。

 幸い、父はまだソフィアに精神魔法をかける素振りを見せない。精神魔法をかけられれば、ソフィアはすべてを口にしてしまうだろう。

 ユリウスとの誓いも、ミュリへの思いも、そして、ルイスとの日々も。

 ソフィアの振る舞い次第で、父は即座に魔法をかけようとしてくるはずだ。しかし、まだ戯れのようにソフィアの無駄なあがきに付き合おうとしているところを見るに、テオドールは全くソフィアたちの行動に意を介していない。それならばソフィアもまだ、全力で足掻くことをやめない。

 ——危険があれば必ず呼べ。
 ——俺には貴女が必要だ。フィアしかいらない。

 瞼の裏に浮かぶ真剣な瞳に、ソフィアは思わず瞼をあげてしまった。あれほどまでにも熱く囁いていた男は、今、この部屋にはいない。

「呼んだら、来てくださるんじゃないのかしら」

 ——ルイス。

 胸の奥で静かに囁いたソフィアは、朦朧とする意識の中、自身の身体を抱きしめて息を吐く。

 なぜこれほどまでに寂しく思うのか。

 ソフィアは自身の心に呆れつつ、男の記憶を思い出し続ける。ルイスに危害が加われば、ソフィアは自身がかけた魔法の力でそのことを感じ取ることができたはずだった。

 しかしそれも、意識を失っている間にこの腕輪を取りつけられたことで、すべての魔法が打ち消されている。

 父がルイス・ブラッドについて言及してくる様子がないのは、果たしてルイスがテオドールにとっての些末な者であったからなのか、それとも単にソフィアとルイスの関係性を知らないからなのか。

 ソフィアはテオドールが呪いの発現に関して言葉をかけてこない様子に、ひどく安堵していた。ルイスとソフィアの接点は、呪いの発現から始まっている。

 気付かれていないのなら、ルイスはまだ、この世に存在する。

 彼は間違いなく英雄として、この国を導くだろう。例えソフィアがその日を見ることができなくとも——。


 ルイスが微かに微笑みながら手を伸ばしてくる。その様を夢想したソフィアは、搔きむしりたくなるほどの胸の苦しみに瞼を持ち上げた。

 荒い吐息が部屋に響く。

 どうやらソフィアは父について考えているうちに、結局ルイスを思い浮かべながら転寝をしてしまったらしい。

 身体の調子が酷くなっている。

 直感したソフィアは、股に細い指先を伸ばしかけ、触れる前に取りやめた。どれだけ触れようと、治めることなどできない。

 この場に触れ、ソフィアに優しい温もりをもたらすのは、ただ一人だ。
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