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おさとうはちさじ
1.
しおりを挟む本当に、驚いてしまうほど穏やかな日が続いている。
渡総務部長からの業務についても橘専務が早々に手を打ってくれたらしく、定時ぴったりに退勤できる日が続いていた。
専務としても外勤や会合参加の数が緩やかに減少していて、最近は二人でキッチンに立つ機会が増えた。
遼雅さんは時間があればあるだけ私を甘やかそうとしてしまうから、最近はずっと身体があつくて仕方がない。
『ゆず』
掠れた低音で呼ばれると、感情にごまかしが利かなくなってしまうから困っていた。
昨日の夜も丁寧に、爪の先から頭のてっぺんまで熱を灯されて、くたくたのまま抱きしめられて眠ってしまった。
熱を帯びた気怠い身体に触れる、遼雅さんの高い体温が心地良い。
一度知ってしまうと、病みつきになるからだめだと思う。
ため息を打って、パソコンの右端に表示されている時刻を確認する。朝の来客から、橘専務はお客さんと二人で役員室にこもりっぱなしだ。
ちょうどお昼を迎えかけているから、いくらなんでも、そろそろ出てくるだろう。
予想通りにドアの開閉音が響いた。
談笑する男性の声が二つ聞こえてくる。
そっと立ち上がって、コート掛けにかけられた来客の男性のコートを手に取った。
「いやあ、橘くんも結婚かあ。ちゃんと奥さんにはサービスしてやるんだぞ」
「はは、そうですね。肝に銘じます」
「すこし夜の付き合いに行っているだけで叱られたりするもんだからなあ」
「安西社長は奥様に愛されているんですよ」
「ん~、まあどうだか」
満更でもなさそうな白髪の男性に無言でコートを着せて、一つ礼を打つ。目が合ったら「ありがとう」と微笑まれた。お茶目な瞳の人だけれど、かなり大口の取引先だ。
「橘くんこそ、そんなに色男なら、奥さんが黙っていなさそうだ。うん?」
橘専務が結婚について、からかわれている姿を見る機会はあまりないから、内心狼狽えてしまった。
専務の横に立ちながら、企むように笑う男性の目がもう一度私のほうへ向いてくるのを感じた。
何か問われてしまいそうだ。思った通り、気の良さそうな声が問いかけてくる。
「きみもそう思わんか? 橘くんほどの男なら、おちおち家庭で安心していられないだろう?」
「安西社長、勘弁してください」
答えを悩んだ一瞬で、橘専務が困ったような声をあげて制止してしまった。安西と呼ばれた人は、気分を害した様子もなく、けろりと笑って肩を竦めて見せた。
「私のつまは、あまり嫉妬したりしませんよ」
「ほう? そうなのか。おどろいた。よほどの美人か?」
普段、私生活について話すことのない専務が、あっさりと声にあげてしまった。
私に安西社長の目がいかないように話し始めてくれたのだろうか。それにしても、専務の言葉にすこし驚いてしまった。
嫉妬をしない性格であるわけではない。
ただ、遼雅さんの用事がいつも業務であることを理解しているだけだ。
これが単純に、好きでいかがわしいお店に行っていると言われたら、私もかなりへこんでいるところだと思う。いや、それもただの私の感情でしかないのだけれども。
「そうですね。美人というのもそうですが、私にとってはかわいい人です」
「な、」
「うん? どうしたんだい?」
思わず声が上がってしまった。
口を引き結んでも、さすがに聞き取られてしまったらしい。不可思議そうな顔をする初老の男性から目をそらして橘専務のほうを見つめたら、すこしいたずらな瞳と視線が絡まった。
「いえ……」
「はっは、橘くんが急に惚気てしまうから、彼女もおどろいてしまったみたいだ。すまんすまん」
「失礼しました。私はつまの話になるとどうも饒舌になってしまうので、普段は控えているんです。安西社長もここだけの話にしておいてくださいね」
「はっはっは。そうか、愛妻家だったんだなあ。いやあ、若くていいなあ! 君の情熱に免じて、黙っておくとするよ。それじゃあそろそろお暇するかな。奥さんによろしく」
「ええ、ご足労いただき、ありがとうございました。こちらで失礼させていただきます」
専務と一緒に頭を下げて、扉が閉まる音とともに顔をあげた。
「ごめんね、すこしお昼の時間にかかってしまいました。コーヒーカップは自分で片付けますよ」
「……いえ、私の仕事ですから、専務こそ休憩されてください」
「かわいい人」におどろいて、声をあげかけてしまったことを言及されるかと思っていたから、肩透かしを食らったような気分だ。
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