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おさとうふたさじ
7.
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後ろで先輩が立ち上がる音を聞きながら、頭を下げて「もう一度送っていただけますか」と告げる。
顔をあげてみれば、眉を顰めた40代の男性がじっとこちらを見つめているらしかった。
「何度目のことか、わかっているだろう」
「はい、申し訳ございません」
何度か先輩が言い負かすたびに業務量が増えてしまったから、おとなしく引き下がることにしている。
幸いにも橘専務の予定に自分の業務を合わせている間は、仕事量が多くてもそんなに支障がなかった。
もちろん、遼雅さんと結婚する前までの話だけれど。
「秘書の仕事がそんなに大変なら、配置を変えてやってもいいが」
「それは、とんでもないです」
「橘専務付きは大変だろう。総務には空きもある。きみの能力を勘案して掛け合ってやってもいい」
よほど私が橘専務付きの秘書をやっていることが許せないらしい。何度か言われたことをもう一度言われてしまった。
専務付きの秘書に変わってまだ一年。
仕事には満足しているし、それなりにやっているつもりなのだけれど、こうまで言われてしまうと返す言葉もない。
「……役員の皆さんの予定調整なら、そもそも会長が明日の午後まで海外出張中ですから、明日にならないと日時を確定できないかと思います。今、会長は空の上ですし、機内でパソコンを使う方ではありませんから」
どう穏便に済ませようかと考えあぐねているうちに、後ろから助け船が出されてしまった。
すぐ隣に歩いてきた心強い先輩が「ですから、明日の調整でよろしいですか」と声をあげて笑っているのが見えた。
渡総務部長を言い負かせるのは、青木先輩くらいだと思う。
どうでしょうか、と畳みかけるように言って、渡部長が眉間の皺をよりくっきりと浮かび上がらせたところまで見て、目をそらした。
こわい。迫力がありすぎる。
半分泣きたい気分だ。
こちらの気分など知らない人に「明日、なるべく早くお願いします」と吐き捨てられて、部屋を出て行った音を聞いた。
ようやくこわばっていた肩の力が抜ける。
「渡さん、本当に佐藤ちゃんのことほしいのねえ」
「ええ? 絶対に違います。あれは、橘専務付きの秘書にわたしが配置されていることに反対しているんです」
「どうだか? 完全に言いがかりでしょ」
証拠がないから何とも言えないところだ。
何度かシステム部に掛け合って、メールの不具合についても確認しているけれど、忙しいからか、うまく取り合われたことがない。
だいたいこのくらいの時間に怒られて、遅くまで残る理由になってしまっていることだけが事実だった。
「……橘専務に相談したら?」
「いえ、大丈夫です」
そんなことをしたら、専務は本気で取り合って、問題を解決しようとするだろう。ただでさえ忙しいことを知っているから、すこしくらい、ゆっくりしてほしい。
「真面目よねえ」
「いえ、仕事をしっかりできていないことが悪いので」
「気にすることないって。さとうちゃんは、自分で思ってる以上に仕事してるわよ~。専務も言ってたじゃない」
「そうですかね」
「専務残して産休なんて、不安でいっぱいだったけど、さとうちゃんを見てこの子なら任せられる! って安心しちゃったくらいだもの」
「青木先輩……、ありがとうございます」
「ふふふ、自信もって!」
肩をやんわりと叩かれて、ようやく気分が落ち着いてきた。
正直なところ、渡総務部長にはあまり会いたくない。会うたびに眉を顰めて注意をされるから、いつも内心泣きかけている。社会人失格だと思いなおして、軽く深呼吸を打ったところで役員室の扉が開いた。
「橘さん、ありがとうございました」
「いいえ。またいつでも来てください」
「はい、また来ます」
出てきた二人が楽しそうに笑っている。
園部さんもどちらかというと感情が表に出にくい人だと思うけれど、専務と一緒の時だけは心から楽しそうに笑っている。
たしかに、二人はお似合いに見えるかもしれない。
園部さんを部屋の出口まで見送った専務がこちらを振り向いて、いつものように美しく微笑んだ。
顔をあげてみれば、眉を顰めた40代の男性がじっとこちらを見つめているらしかった。
「何度目のことか、わかっているだろう」
「はい、申し訳ございません」
何度か先輩が言い負かすたびに業務量が増えてしまったから、おとなしく引き下がることにしている。
幸いにも橘専務の予定に自分の業務を合わせている間は、仕事量が多くてもそんなに支障がなかった。
もちろん、遼雅さんと結婚する前までの話だけれど。
「秘書の仕事がそんなに大変なら、配置を変えてやってもいいが」
「それは、とんでもないです」
「橘専務付きは大変だろう。総務には空きもある。きみの能力を勘案して掛け合ってやってもいい」
よほど私が橘専務付きの秘書をやっていることが許せないらしい。何度か言われたことをもう一度言われてしまった。
専務付きの秘書に変わってまだ一年。
仕事には満足しているし、それなりにやっているつもりなのだけれど、こうまで言われてしまうと返す言葉もない。
「……役員の皆さんの予定調整なら、そもそも会長が明日の午後まで海外出張中ですから、明日にならないと日時を確定できないかと思います。今、会長は空の上ですし、機内でパソコンを使う方ではありませんから」
どう穏便に済ませようかと考えあぐねているうちに、後ろから助け船が出されてしまった。
すぐ隣に歩いてきた心強い先輩が「ですから、明日の調整でよろしいですか」と声をあげて笑っているのが見えた。
渡総務部長を言い負かせるのは、青木先輩くらいだと思う。
どうでしょうか、と畳みかけるように言って、渡部長が眉間の皺をよりくっきりと浮かび上がらせたところまで見て、目をそらした。
こわい。迫力がありすぎる。
半分泣きたい気分だ。
こちらの気分など知らない人に「明日、なるべく早くお願いします」と吐き捨てられて、部屋を出て行った音を聞いた。
ようやくこわばっていた肩の力が抜ける。
「渡さん、本当に佐藤ちゃんのことほしいのねえ」
「ええ? 絶対に違います。あれは、橘専務付きの秘書にわたしが配置されていることに反対しているんです」
「どうだか? 完全に言いがかりでしょ」
証拠がないから何とも言えないところだ。
何度かシステム部に掛け合って、メールの不具合についても確認しているけれど、忙しいからか、うまく取り合われたことがない。
だいたいこのくらいの時間に怒られて、遅くまで残る理由になってしまっていることだけが事実だった。
「……橘専務に相談したら?」
「いえ、大丈夫です」
そんなことをしたら、専務は本気で取り合って、問題を解決しようとするだろう。ただでさえ忙しいことを知っているから、すこしくらい、ゆっくりしてほしい。
「真面目よねえ」
「いえ、仕事をしっかりできていないことが悪いので」
「気にすることないって。さとうちゃんは、自分で思ってる以上に仕事してるわよ~。専務も言ってたじゃない」
「そうですかね」
「専務残して産休なんて、不安でいっぱいだったけど、さとうちゃんを見てこの子なら任せられる! って安心しちゃったくらいだもの」
「青木先輩……、ありがとうございます」
「ふふふ、自信もって!」
肩をやんわりと叩かれて、ようやく気分が落ち着いてきた。
正直なところ、渡総務部長にはあまり会いたくない。会うたびに眉を顰めて注意をされるから、いつも内心泣きかけている。社会人失格だと思いなおして、軽く深呼吸を打ったところで役員室の扉が開いた。
「橘さん、ありがとうございました」
「いいえ。またいつでも来てください」
「はい、また来ます」
出てきた二人が楽しそうに笑っている。
園部さんもどちらかというと感情が表に出にくい人だと思うけれど、専務と一緒の時だけは心から楽しそうに笑っている。
たしかに、二人はお似合いに見えるかもしれない。
園部さんを部屋の出口まで見送った専務がこちらを振り向いて、いつものように美しく微笑んだ。
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