あまやかしても、いいですか?

藤川巴/智江千佳子

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おさとうふたさじ

5.

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朝のスケジュール確認が終われば、基本的に忙しい橘専務はすぐに会議か外勤に出てしまう。

今日も、朝にも見た秋もののコートを羽織って、小さく笑みを浮かべてから「行ってきます」と声をあげて部屋から出て行ってしまった。

どんなに急いでいたとしても、相手を蔑ろにすることのない人だ。そういうところに好感を持っている。

専務から頼まれている業務は朝のうちに終わらせてしまって、他の部署から頼まれている調整作業と内部資料作成に取り掛かっていた。

いくらこなしても無限に仕事がわいてくるから不思議だと思う。

特に他部署を横断してスケジューリングするものや、意見集約をして作成する書類は時間と根気強さが必要になる。

私の残業理由の大まかな作業がこの辺の業務になっているのだけれど、なかなかわかりにくい地味な仕事だ。橘専務の帰りが遅い日には、帰社を待つまでの作業になり得るけれど、そうではないときには一人で残って仕事をすることにもなる。

最近は、遼雅さんよりも遅くに自宅に帰ると、業務量が多すぎるのではと本気で心配をされるから、とにかく必死で定時までに終わらせることに注力していた。

ふ、と流れてきた音に手を止めて、顔をあげる。


「……おかえりなさい」

「戻りました」


橘専務の靴の音は、いつも丁寧に鳴らされていると思う。少し早めの歩調なのに優雅な印象を受けるから不思議だ。

秘書になってから、初めに覚えた足音が橘専務のものだった。


星でも飛んできそうなくらいの爽やかな笑みに、内心常にどぎまぎしてしまっている。

気を取り直して立ち上がって、外から帰ってきたばかりの人に駆け寄った。

コートを受け取ろうと手を出せば、首を傾げた専務が自身の大きな手を私が差し出した両手の上に乗せた。

なおも不可思議そうにこちらを見つめてくる。


「えっ」

「うん?」

「ちょっと、専務!? セクハラ!」


後ろから先輩の声が飛んで、専務の目がまるく見開かれてしまった。自分がしていることがセクハラに当たるのだと驚いているらしい。


「あ、ごめん。え、っと手、出してくれたから」

「あの、コートを、お預かりしようかと」


会長の時にやっていた癖がつい出てしまった。

専務は極力自分のことは自分で片付けようとするから、コートをかけてもらう習慣がなかったことを今更思い出した。

私の行動に合点が行ったらしい人がさらりと手を離して、さも楽しそうに笑っている。


「あはは、ごめんね。てっきりお手か何かかと思ってしまいました」

「いえいえ! とんでもないです。すみません、ちょっとぼうっとしていました」

「かけてもらうほど立派なコートでもないですから、自分でします」


あっさりとコートを脱いで、呆然としている私の前でやわらかに笑った。


「佐藤さん、お気遣いありがとうございます。お気持ちだけ、受け取らせてください」

「いえ……」


私の反応をしっかりと見つめてから、長い脚で役員室に入って行ってしまった。

今日はこれ以降の用事がないはずだから、定時すぎには帰宅できるのかもしれない。珍しいとは思いつつ、専務が吸い込まれていった扉を呆然と見つめていた。


「さ・と・う・ちゃん!」

「はい」


後ろから声がかけられて、上ずりそうになった肩を落ち着かせながら振り返る。

視界の真ん中で、当然青木先輩が仁王立ちしている。にまにまと笑っているその人は、何か私を困らせることを言うつもりらしい。


「専務はダメよ~」

「ダメ? ですか?」

「ふふふ、もう人のモノだもの」


橘専務が突然薬指に指輪を嵌めて出勤しだしたときには、大騒ぎになった。秘書課から一歩出るたびに同期を筆頭に様々な社員に声をかけられるようになった。

『結婚したの?』

『あの橘さんを射止めた女性って?』

『お見合いって聞いたんですけど』


エトセトラエトセトラ。

何一つ答えることもできずに曖昧に言葉を濁せば、気分を害したと思われたらしく、あれ以来特に声をかけられることは多くない。

そもそも私が橘専務付きの後任に据えられた理由も、この真顔らしいから崩れないほうがいいのだろう。
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