10 / 88
おさとうふたさじ
3.
しおりを挟む「もう、終わったんですか?」
「はい、お待たせしました」
「もっと長くてもいいくらいなのに」
「ええ?」
「そうしたら俺は、もっと長くかわいい奥さんを盗み見ていられるのになあ」
とんでもない言葉に心臓が止まりかけて、必死で呼吸を繰り返している。
遼雅さんのあまやかしを真に受けたら、大変なことになる。頬に受けた女の人の手を思い返しながらふるふると顔を横に振った。
「嫌ですか?」
「い、嫌じゃないです」
反射的に言いながら、やわらかく繋がれた指先に心がいっぱいいっぱいになった。
優しい瞳は、ただ私の目をじっと見て、もう一度「かわいい」と囁いていた。もう、朝から忙しい。
ちゃっかり私の分まで荷物を持った遼雅さんが玄関の端に二人分の鞄を置いて、名残惜しそうに手を離した。
遼雅さんと同じように靴を履いて立ち上がれば、すでに準備を終えたらしい人がこちらを見て、軽く両手を広げてきているのが見えてしまった。
眠るときだけで良いと言ったはずなのに、遼雅さんはこうして定期的にあまやかしてくるから、ずるい人だ。
「柚葉さん、抱きしめたいです」
抱きしめてほしいと言ったのは私のはずなのに、遼雅さんはいつだって私のためじゃなくて、自分のためのことのように誘ってくれる。
だから、断ることもできずにあまえてしまうのだ。本当に、こまってしまう。
きゅっと力のはいった腕に抱きしめられて、今すぐ微睡みたくなってしまった。やんわりと頭を撫でる手はやさしくて、病みつきになってしまう。
本当に、とんでもない相手と結婚してしまったものだ。
「もう、大丈夫です」
「うん?」
「遼雅さん」
何度か言っているのに、一向に放してくれる気配がなくて、すこし笑ってしまった。私が笑う音に気づいたのか、腕を緩めて顔を覗き込んでくる。うっとりと瞳を眇められて、胸にあまさが突き刺さった。
「柚葉さん、笑うと可愛すぎるから、こまった」
「ええ?」
「ああ、放したくないな」
「今日は9時から……」
「はい、わかってます」
言いかけたら、くすくすと笑い声が上から響いてきた。最後に頬を撫でられて、あまい瞳と視線がぶつかる。
「行こうか」
「はい。……あ、待ってください」
「うん?」
うっかり忘れかけていた。
繋がれていた手をぱっと離して、薬指に嵌めていた指輪を優しく引き抜く。それを玄関に置かれたプレートの上にそっと置いてから、遼雅さんと向き合い直した。
「え、どうしたんですか」
「……外さなくても、いいんだけどなあ」
「ええ、ばれちゃいま、」
途中まで言いかけて、ちゅ、と唇に熱が触れた。軽快なリズムに吃驚して、目の前の人が楽しそうに笑うのが見えた。
「口紅、ついた?」
「……ついて、な、いです」
「あれ、残念」
見せつけようと思ったのに。
軽く笑って言った遼雅さんが、指輪の抜けた手を再び取って歩き出す。
どういう意味ですか、と問う暇もなく遼雅さんが世間話をはじめてしまった。
「気持ちのいい朝だね」
「あ、はい。そうですね。今日は一日中晴れの予報ですよ」
「あはは、俺は柚葉さんと手を繋げるからうれしくなってただけなんだけど。なおさら良いことを聞いた」
「手は、毎日繋いでますよ?」
「うん、毎日うれしい」
橘夫妻の朝は、ゆったりマイペースだ。
吃驚して黙り込めば、繋ぎ合わせていた指先を軽くなぞられる。ぴくりと肩を上ずらせるだけで笑う人に翻弄されるまま、エレベーターまでの短い道を二人で歩いた。
誰にも会わずに中に入って、遼雅さんの熱い指先が1階を押すところを見つめていた。
マンションから出た瞬間に、私と遼雅さんは秘書と専務に戻ることになる。惜しむように指先を撫でられて、胸がきゅっと詰まってしまった。
橘遼雅に落ちない人は、果たしているのだろうか。
「柚葉さん?」
「あ、おります」
声をかけられて、一緒に1階エントランスへ降りた。出入口で手を離して見上げれば、すこしさみしそうな瞳と視線が絡んでしまう。
1
お気に入りに追加
370
あなたにおすすめの小説
優しい愛に包まれて~イケメンとの同居生活はドキドキの連続です~
けいこ
恋愛
人生に疲れ、自暴自棄になり、私はいろんなことから逃げていた。
してはいけないことをしてしまった自分を恥ながらも、この関係を断ち切れないままでいた。
そんな私に、ひょんなことから同居生活を始めた個性的なイケメン男子達が、それぞれに甘く優しく、大人の女の恋心をくすぐるような言葉をかけてくる…
ピアノが得意で大企業の御曹司、山崎祥太君、24歳。
有名大学に通い医師を目指してる、神田文都君、23歳。
美大生で画家志望の、望月颯君、21歳。
真っ直ぐで素直なみんなとの関わりの中で、ひどく冷め切った心が、ゆっくり溶けていくのがわかった。
家族、同居の女子達ともいろいろあって、大きく揺れ動く気持ちに戸惑いを隠せない。
こんな私でもやり直せるの?
幸せを願っても…いいの?
動き出す私の未来には、いったい何が待ち受けているの?
【完結】もう一度やり直したいんです〜すれ違い契約夫婦は異国で再スタートする〜
四片霞彩
恋愛
「貴女の残りの命を私に下さい。貴女の命を有益に使います」
度重なる上司からのパワーハラスメントに耐え切れなくなった日向小春(ひなたこはる)が橋の上から身投げしようとした時、止めてくれたのは弁護士の若佐楓(わかさかえで)だった。
事情を知った楓に会社を訴えるように勧められるが、裁判費用が無い事を理由に小春は裁判を断り、再び身を投げようとする。
しかし追いかけてきた楓に再度止められると、裁判を無償で引き受ける条件として、契約結婚を提案されたのだった。
楓は所属している事務所の所長から、孫娘との結婚を勧められて困っており、 それを断る為にも、一時的に結婚してくれる相手が必要であった。
その代わり、もし小春が相手役を引き受けてくれるなら、裁判に必要な費用を貰わずに、無償で引き受けるとも。
ただ死ぬくらいなら、最後くらい、誰かの役に立ってから死のうと考えた小春は、楓と契約結婚をする事になったのだった。
その後、楓の結婚は回避するが、小春が会社を訴えた裁判は敗訴し、退職を余儀なくされた。
敗訴した事をきっかけに、裁判を引き受けてくれた楓との仲がすれ違うようになり、やがて国際弁護士になる為、楓は一人でニューヨークに旅立ったのだった。
それから、3年が経ったある日。
日本にいた小春の元に、突然楓から離婚届が送られてくる。
「私は若佐先生の事を何も知らない」
このまま離婚していいのか悩んだ小春は、荷物をまとめると、ニューヨーク行きの飛行機に乗る。
目的を果たした後も、契約結婚を解消しなかった楓の真意を知る為にもーー。
❄︎
※他サイトにも掲載しています。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる