あまやかしても、いいですか?

藤川巴/智江千佳子

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おさとうひとさじ

3.

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欲望に抗って、困った笑みを浮かべる人に視線を向ける。


「申し訳ない。セクハラになるところでした」

「いえ、問題ありません」


というかセクハラのようなことを考えていたのは、私のほうなんだけれどなあ。言えるはずもなく黙り込んだら、橘専務がもう一度口を開いた。


「お詫びに、オレンジジュースでもと思って」

「わざわざお気になさらなくても……」

「いや、佐藤さんにはかなり迷惑かけちゃってるからなあ。プライベートなことまで手配してもらって」


タクシーの配車くらい、橘専務がお願いすれば、この世の女性は誰でも立候補する勢いで集まってくるだろう。

透明感のあるうつくしい笑みで「これくらいのもので申し訳ないんですが」と言われると、引くわけにもいかずに受け取って鞄の中へと押し込んだ。


「ありがとうございます。大切にいただきます」

「あはは。佐藤さんって、本当に可愛い女性ですよね」

「えっ」


そんなことは、はじめて言われた。

橘専務はやさしい人だけれど、むやみやたらと誑し込むようなことを言ってくる人ではない。ぽかんとして見つめたら、失言だと判断したらしい橘専務が自分の手で口元を押さえた。


「ごめん、つい……、いや、これこそセクハラですよね」



嫌な気分になったわけではない。言いたいのになかなか口から出てこなくなってしまった。素直にうれしいですと言えばいいのだろうか。


「わたし」


何を言おうとしていたのか。外線が鳴ったら思考回路は綺麗にはじけ飛んでしまった。

ぴくりと肩を揺らしながら、反射的に受話器を取って耳に当てる。何のことはない。タクシーが玄関前に到着したことを知らせてくれる電話だった。


「……タクシーが到着したそうです」


なんというタイミングだろう。橘専務もさすがにばつの悪そうな顔をしていた。褒めるだけでも気を遣う現代社会の大人たちは大変だと思う。


「ありがとう、ええと、佐藤さんはもう帰れる?」

「はい」


もともと、用事は専務についていること以外には何もなかった。頷いてみれば、しばらく思案した瞳が私を見つめなおしてくれた。

今からでも、セクハラだと思っていないと言ってしまっていいだろうか。悩ましい。


「……嫌でなければ」

「はい?」


ぼうっと考え込んでしまっていた。適当に自分の喉から声が鳴って、目の前を見つめなおす。


「家までタクシーで送りますよ。いや、家付近まで? 俺が先に降りたほうがいいかな」


おれ、と聞いて瞼がぱちくりと動いてしまった。

普段は俺と言うのか。

今まで聞いた何よりも、特別な言葉のように聞こえる。専務はふわふわしたつかみどころのない大人に見えて、全然そんなものではない。いつも隙がない完璧な姿で笑っている。


「やましい気持ちは、ない、つもりです」


そこまで言われてしまえば、断る理由を失ってうなずいた。


「はい、わかります。……セクハラだと感じたことは、一度もありません」

「ああ、よかった。有能な秘書に去られてしまうところでした。じゃあ、準備ができたら一階に来てくれますか?」

「はい、ありがとうございます」


頭を下げて更衣室で荷物を整理した。専務は帰宅の準備に時間はかからないだろうから、急いで身支度を整えて、一階まで下りる。


人影がほとんどないロビーで、ぽつりと長身の男性が立ち尽くしていた。

――そういえば、急いでいたんじゃなかっただろうか。

思いついて近づいてみれば、電話をかけているらしいことに気づいた。


「はい、はい。いや、そういうわけじゃないんですが……。それは、本当に申し訳がないです。はい、ええ」


何かをもめているような感触だ。冷静に返している橘専務とは裏腹に、誰かが大声で話しかけてきているようだ。
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