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おさとうひとさじ

1.

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「きゃっ、」


ぼうっとしていた。

今日は少し忙しかったし、ご飯を食べ終えてうつらうつらしてしまっていた。

顔には出づらいみたいだけれど、私は内心どきどきしていることばかり。ぼうっとしながらお皿洗いなんてするから、シンクの落としたお皿が真っ二つだ。

姉から引き出物として貰ったものだったことを思い出して、指先が固まる。


柚葉ゆずはさん?」

「あ、たちばなさん、ごめんなさい」


リビングからひょっこりと顔を出しているその人は、誰がどう見ても綺麗だと言ってしまいそうな顔立ちだ。

彼は私を見とめた瞬間に、すぐ隣までたどり着いてしまう。


「あ、あの」

「大丈夫ですか? けがはない?」

「あ、もちろんです。ちょっとぼうっとしていて」

「ぼうっと? 俺がやればよかった」

「いえいえ! 専務にやらせるわけには……」

「柚葉さんがケガするくらいなら、いくらでもやるよ」

「橘さん、」

「名前」


咎めるような声にうっと詰まってしまった。

相手からは真顔に見えるらしいけれど、内心は目が回りそうだ。橘さんはいい匂いがする。


遼雅りょうがさん」

「はい、よくできました」


さりげなく検品するように、美しい指先に触れられる。一瞬ぴくりと指先が動いたら、遼雅さんが困ったような表情を作ってしまった。その顔に非常に弱い。


「遼雅さん、お仕事は?」

「あれはもういい。柚葉さんのほうが大事」


私と同じく、薬指にシンプルな指輪が光っている。

私の指に嵌っているそれを緩く撫でた人が、顔をあげて「傷ついてなくて安心した」と笑った。たぶん、指輪のことじゃなくて、私の手のことを言っているのだろう。

返す言葉は、常に困っている。


「でも、専務はお仕事お忙しそうで……」

「もうそれはおしまい。柚葉さん、今の俺は、きみの何だっけ?」


とんでもない人と結婚してしまったと思う。何度でも思っている。

顔を寄せてくる人に動揺が駆けまわって、ようやく口を開いた。


「だんなさん、です」

「うん、そう」


満足そうな手が、頬を撫ぜる。こんなにスキンシップの多い人なら、そりゃあドツボに嵌めてしまうだろう。目が回った。


「かわいい奥さんが、傷ついてなくてよかった。これは片付けておくから、ソファで待ってて」

「え、いや……」


聞く気は全くなさそうだ。

リビングに戻って、飾られたフォトフレームを見つめている。今は紙を入れるものよりも、電子フォトフレームが主流になってきているらしい。

もちろん遼雅さんが設置したそれには、結婚式の様子がエンドレスリピートされている。どこからどう見ても円満な家庭だ。

その新婦が、ぎこちない笑みを浮かべていること以外は。


「柚葉さん」

「わ、」


後ろから声がかかる。思ったよりも時間が経ってしまっていたみたいだ。振り返って、ソファに腰かけている人と目が合ってしまった。


『俺と契約結婚、してくれませんか?』


持ち掛けられた時には、ひどく驚いた。狼狽えていたともいえる。遼雅さんには、そういうふうには一切見えなかったみたいだけれど。


「柚葉さん、こっちきて」

「……何する気ですか?」


手を広げて、すでに待ち構えている。

契約結婚を持ち掛けられたはずだ。利害の一致で、婚姻届にサインした記憶もある。


「キスするだけです、ダメでしょうか」


それがどうして、こうなったのか。不可思議すぎる。ぼうぜんと見つめていたら、遼雅さんが小首をかしげてこちらを見つめてくる。

可愛らしい仕草を仕掛けてくる年上の男性。というか会社の専務だ。


「柚葉、おいで」


温厚そうな声に誘われたら、断るすべなどなくなってしまう。

おそるおそる近づいて、すっぽりと抱きかかえられる。結婚の契約に、こういうものも含まれているのだろうか。ちらりと上を向いたら、額にちゅうっと口づけられた。

目がまわる。


「かわいい」


たぶん、契約の範囲内に、含まれているのだろう。覚えなおそうと決意して俯いた。

気にしたら負けだ。

表情筋が仕事をしない24歳OLは心を殺して、心地よい胸に額を擦らせている。一人がさみしかったのは本当だ。


「遼雅さん」

「うん?」

「眠ってしまいそうです」

「あはは、いいよ。ずっと抱きしめていようか?」

「お布団に……」


とにかく、橘遼雅の腕の中が心地よすぎるのがよくない。


「……おやすみ、かわいい奥さん」


本当に、どうしてこんな生活になったのだろうか。


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