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しおりを挟むフェルナンドは烈火のごときディアドレの怒りにも動じず、むしろその瞳の赤は底冷えしてしまいそうなほど冷酷に温度を失っていた。
彼はディアドレが自身の手を叩き落とされるという異例の事態に呆気に取られていることなど構うことなく言葉を続ける。
「ユゼフィーナは私の妻です。神前で誓いを立てました。兄上もご覧になったはず。兄上こそこれ以上の侮辱は……」
「……はっ! 俺のおさがりを与えられて喜んでいるのか? かわいいな、弟よ」
フェルナンドとディアドレはもともとほとんど顔を合わせることなくこの城に住んでいたのだ。
ディアドレの婚約者として過ごしていた日々の中では気づくこともできなかったが、そもそもこの二人は、水と油のように反発しあう真逆の性格だ。
ディアドレのあからさまに怒りを煽り立てる言葉に、私の腰を抱くフェルナンドの指先がわずかに反応している。
信義に厚いフェルナンドは、間違いなく友人の名誉が傷つけられることをよしとしない。しかし相手は次期国王であり、この国のソードマスターだ。決してぶつかってはならない。
「フェル、もういいわ。行きましょう」
「……フェル? は、ばかばかしいな。この国の明日を考えずともよいやつらはお気楽なもんだ」
ディアドレは決闘となれば間違いなくフェルナンドに勝てると踏んで、こうして下品な言葉を投げかけてくるのだ。
気に入らない相手を剣の力でねじ伏せるのはディアドレの得意分野だ。再びこわばったフェルナンドの指先にそっと己のものを重ね、彼の顔を見上げる。
しばらくそのまま力んだ彼の指先を温めていると、ふと彼の手から力が抜けた。
「……兄上はよほどお忙しくいらっしゃるようですね。あちらの聖女殿がお困りの様子だ。ディアドレ王子、大切なものは慈しんでこそ。……私が妻にどのように接しようが、王子には関係のないことです。……金輪際、ユゼフィーナには声をかけないでいただきたい。たとえ妻の許可があろうと、私には到底許しがたいことなのです。ディアドレ王子、次にその手で妻に触れようものなら私も黙ってはおりません」
「お前、生意気にも俺に……」
「では陛下、今度こそ私のお願いをお忘れなきようよろしくお願いいたします」
ぴしゃりと言いきったフェルナンドは、目を血走らせる彼の兄の言葉を当然のように無視して柔らかに私の背中を押した。
国王への挨拶さえも省いて謁見の間から抜け出したフェルナンドは、顔色一つ変えることなくただまっすぐに目の前を見据えている。だが、少し前にディアドレの手首を叩き落とした彼の右手は、固い拳を作り上げていた。
苛立ちを拳の中に握りつぶすように力んだ手は、もはや血管が浮き出している。
「フェル、」
「私の宮まで参りましょう」
フェルナンドの右手の状態に心を囚われつつ、ひとまず彼の簡潔な言葉にうなずいた。
フェルナンドのエスコートに従って王宮の廊下をひたすら進んでいく。いつもの庭の散策とは違って、フェルナンドの歩調はかなり速い。私が歩くことのできる中で最も速い歩調で廊下を進み続け、ようやく彼の宮にたどり着いた。
幸運にもこの広い王宮内で誰にも会うことなくたどり着けたようだ。
彼の執務室に足を踏み入れ、執務室の扉が衛兵によって閉じられたところで彼の手が私の体から離れる。
互いにその場で向き合い、ようやく私は気になり続けていた彼の手について口を開いた。
「フェル、あなたの右手が」
フェルナンドは今もその右手を、自分自身の爪で手のひらが抉れてしまいそうなほど強く握りしめているのだ。内心焦りつつそれを指摘すると、フェルナンドはいまさらそのことに気が付いたのか、自身の右手を見てすぐに顔を顰めた。
「……ごめん、少し……、冷静さを欠いていたよね」
「いえ……、そんな、突然でしたし。それより、右手を貸していただけませんか? 聖力でフェルの傷を……」
「ユゼフィーナは優しすぎるよ」
フェルナンドは自身の心を落ち着けるように深く吸い込んだ息をゆっくりと吐きだした。瞼をきつく瞑ってから、すぐにその瞳を私に向けてくれる。
彼の視線に応えるようにそっと片手を差し出すと、彼はやはり困ったような表情を浮かべて言った。
「……私も少しくらい乱暴に扱ってもらって問題ないんだ。あなたに関する傷なら痛くもない」
「そんなはずがないわ。痛いものは痛いはずよ。フェル、お願い」
少なくとも私は、胸がきつく絞られているかのように痛い。フェルナンドの体に傷がつくと思うと、無性に胸が痛んでたまらなくなるのだ。
「ユフィ、私はあなたの肩の方が心配だ」
「私の傷は聖力によってすぐ治されてしまうわ。フェル、知っているでしょう? だから平気なの。でもあなたは違うわ。だからほら、お願いよ」
せかすようにもう一度彼の目の前に手を差し出し直す。差し出された私の手のひらをじっと見下ろしたフェルナンドは、とうとう観念するようにその手を私に預けた。
私のものとは違う大きな手のひらには無駄な贅肉がなく、節くれだってごつごつしている。その手はいつもは滑らかな皮膚に覆われているのだが、やはり私の予想のとおり、今は赤い血がにじんでいた。
「やっぱりけがをしているじゃない! 先に声をかけていればよかったわ。ごめんなさい、フェル。痛かったでしょう。見ているだけでもつらい気持ちになるわ」
想像以上に傷が大きい。だがすぐにその手に触れて聖力を吹き込むと、いつもと同じように傷跡が綺麗に治った。それでも心が落ち着かず、検分するように大きな手のひらをじっと見下ろす。そうして三度ほど彼の手のひらのすべてを見終えたところで、ようやく安堵しながら彼の顔を見上げた。
「もう大丈夫のはずだわ。フェル、痛みもよくなった?」
見上げた先に立つ彼は、相変わらずまっすぐに私を見つめていた。その目はまるで、彼ではなく私が怪我人であるかのようにもの悲しく苦しげだ。
「フェル?」
何も言わずただ私を見下ろすフェルナンドに声をかける。そうすると彼は傷一つない右手を私の頬の側へと寄せた。
「ユゼフィーナ、私があなたに触れてもいい?」
「え? ええ、それは、もちろんいいけれど」
ここしばらく、フェルナンドは私に触れる前に許可を取るのをやめていたのだ。それは私が再三『私はフェルナンドのもので、私には何をしてもいい』と告げているためだ。それなのに今、私の許可を取ったフェルナンドはこわごわと私の頬に触れて、輪郭をなぞるように優しくなでた。
「フェル?」
「どうして私には聖力が生まれなかったのかな。……いや、それよりも、どうして私にはいつもあなたの心の傷を癒す力がないんだろう」
フェルナンドの言葉には深い悔恨の色が浮かんでいた。静かにつぶやいた彼は、私の頬を温めるように何度もその指先で皮膚の表面をなぞっている。
――心の傷?
考えたこともない言葉だ。フェルナンドの視線は、どうしようもないほどに苦々しく悲しみに揺れている。
「フェル、私、心の傷なんて……」
「ユフィはいつも、泣きそうな顔をするのに泣かないから」
今にも泣いてしまいそうなフェルナンドが言った。その言葉で、私の頬をなぞる彼の指先の意味を唐突に理解する。
彼は私の見えざる涙を拭おうとしてくれていたのだ。
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