上 下
26 / 50

26

しおりを挟む

「ユゼフィーナ様……! お顔色が優れません」

 喉の奥から酸性の何かがこみ上げてくる。それを押し込めようと口元を手で覆うと、少し離れた場に立っていたはずのダリウスに体を抱き留められた。視界に厩の天井と彼の赤い髪が映り込んでいる。しかしその色はひどく混濁して見えた。己が倒れかけたのだと気づいたのは、ダリウスが「失礼します」と口早に言って私の体を難なく抱き上げた後だ。

「ダリ……」
「ご体調が優れないことを察せず、失礼いたしました」
「大丈夫、……少し気分が悪くなっただけだから、ダリウス、おろして」
「ですが」
「平気よ。……あまり騒ぎにしないで。フェルが眠っているから」

 囁いて彼の上着を握ると、彼は意志の強そうな眉を顰めてゆっくりとまた歩きだした。

「ダリウス、」
「すぐそばのテラスまでお送りします」
「……ありがとう」

 何も言わずに、できるだけ振動を伝えぬよう歩くダリウスの顔を見上げ、静かに瞼を閉じる。

 ――あの言葉が、よい意味を持つ言葉ではないだろうことは、はじめからわかっていたじゃない。

 何もこれほど衝撃を受けるようなことではないのだ。それなのに、今もこの胸は不快にざわめき、もつれた糸をどうにか元に戻そうとするときのような絶望的で、せわしなく、苛立たしい気分なのだ。

 そう、苛立たしいのだ。私は、フェルナンドの存在を貶めるような言葉に、心底腹を立てている。そのうえ、どうしようもなく無力で、もの悲しい。胸の内に吹き荒れる感情の制御ができず、今にも爆発してしまいそうだ。

 フェルナンドは何かが自分のものであったことがないと言った。その意味をまた考えさせられてしまう。

「ユゼフィーナ様、失礼いたします」

 物思いに耽っているうちに、ダリウスは私をテラスまで誘導し、そこに置かれた椅子に私の体をそっと座らせた。その行為に礼を言う間もなく、ダリウスは私の前に騎士らしく片膝をついて白いハンカチを差し出してきた。

「よろしければ」
「……どうしてこれを?」

 ダリウスのポケットから白いレースのハンカチが飛び出してくることにも些か驚きがあるが、それ以上に、なぜ今、私の目の前に彼がそれを差し出してきたのか、その理由がわからない。思わず首をかしげて返事を待っていると、彼はしばらく真顔のまま考え込んでようやく答えを口にした。

「……必要とされているように、お見受けいたしましたので」

 人からハンカチを差し出されるのは、おそらく初めての経験だ。彼の言葉の意味がわからずに目を瞬き、しかし差し出されたままにすることもできずにそれを受け取る。

「……わたくし、涙を流しているのかしら?」
「……いえ」

 回答までにわずかな間があった。いつも即断即決の姿勢を貫いているダリウスがこうして言葉を選んだということは、彼の目に今の私は涙を流しているように映っているのだろう。だが、右手で瞼の下に触れ、その皮膚が乾いていることを確認してさらに疑問が深まった。

 その疑問を問うようにまじまじとダリウスを見下ろしていると、彼はとうとう観念したのか口を開き直した。

「ユゼフィーナ様が涙を流されたいのなら、ぜひそうなさっていただいて構わないということです。……僭越ながら、私はいつでもユゼフィーナ様の行為を尊重し守る者であるということをお示ししたつもりでした。これはユゼフィーナ様への忠誠の証です」
「……あなたにはいつも恥ずかしいところばかり見られている気がするわ」
「護衛騎士とはそのような存在です」

 ダリウスはいつも主人の心の機微に敏感だ。いつもは何を考えているのか全く分からない表情をしているというのに、いざというときにはこうして私を思いやる言葉を発し、真剣に私の瞳を見つめている。

 少し前まで胸の内側でとぐろを巻いていた悪意が薄らいでいくように感じられて、小さく笑みを浮かべた。

「ダリウス、いつもありが……」
「――ユフィ!」

 受け取ったハンカチを握りしめつつ声を上げるとそれをかき消すような大きな声で名前を呼ばれ、即座に振り返る。その先に立つ常ならぬ夫の姿に、呆気にとられた。彼は私が寝室で見た簡素な白シャツと黒のスラックスだけを身に着け、その髪には寝癖がついている。

 普段のフェルナンドは身だしなみにも気を使っているから、どれほど寝乱れようと、寝室の外で会うときはいつも完璧に整えられていた。

 私の名を唯一愛称で呼ぶその人は振り返った私と目を合わせ、すぐに私の側に控えるダリウスを見やった。起きてすぐに私が側にいないことに気付いたのだろう。馬と花の世話を私だけに任せてしまったことがそれほど衝撃的だったのだろうか。本当に、随分とまじめな人だ。

「フェル、もう起きたのね?」

 まずはフェルナンドの気持ちを落ち着かせようと少し離れたところから大股で歩いてくる彼に向かって声をかける。しかし彼は次の返事をする前に、あっさりと私の目の前にたどり着いた。近くで見てようやく気付いたが、フェルナンドの肩が細かく弾んでいる。軽く息が上がるほど急いで私を探し出したのだろう。

「ユフィ」
「フェ……、どうされましたの?」

 真正面でぽつりと私の名前を囁いたフェルナンドは、私の言葉を最後まで聞き届けることなく突然私の体を抱きしめてしまった。すっぽりと彼の体に埋められて、右耳が彼の胸元に擦れる。少し前まで明瞭だった視界が彼のシャツに遮られてしまった。

 彼の左胸に押し付けられた耳が、私のものとは違う鼓動を伝えてくる。驚くほど速いリズムだ。予想外の連続で、ただ彼に抱かれながら、うわごとのように彼の名を囁いた。

「……フェル?」
「……しばらく妻と二人にさせてくれ」

 フェルナンドは私の言葉に答えるよりも先に、私の背中を抱く腕に力を籠めつつ言い放った。それがダリウスへの命令だと気づいたのは、私が声を上げる前にダリウスが「承知いたしました」と言って遠ざかっていく音が聞こえたからだ。

 ダリウスの足音を聞きながら、しばらく沈黙が流れる。そうしてその足音が聞こえなくなってしまったあたりで、頭上からため息が聞こえてきた。

「フェル?」
「あなたはいつも……、あなたの騎士のそばにいるね」

 その言葉は私に対して問いかけているようで、どこか独り言のような響きを孕んでいた。相変わらず私の体を抱く腕の力は弱まらず、どのように抵抗してもこの檻の中から容易に出ることはできないだろう。

 昨夜も私はフェルナンドの手に押さえつけられてしまえば、たちまち何一つ抵抗ができなくなることをよく学んだのだ。

 こうして人前で触れ合うのは実にフェルナンドらしからぬ行いではあるが、そもそも昨夜彼には、自身の思うとおりに行動してほしいと伝えたばかりなのだ。

 わずかにこわばっていた体から力を抜いて彼の胸に頬を寄せると、フェルナンドはぴくりと肩を揺らした。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

腹黒伯爵の甘く淫らな策謀

茂栖 もす
恋愛
私、アスティア・オースティンは夢を見た。 幼い頃過ごした男の子───レイディックと過ごした在りし日の甘い出来事を。 けれど夢から覚めた私の眼前には、見知らぬ男性が居て───そのまま私は、純潔を奪われてしまった。 それからすぐ、私はレイディックと再会する。 美しい青年に成長したレイディックは、もう病弱だった薄幸の少年ではなかった。 『アスティア、大丈夫、僕が全部上書きしてあげる』   そう言って強姦された私に、レイディックは手を伸ばす。甘く優しいその声は、まるで媚薬のようで、私は抗うことができず…………。  ※R−18部分には、♪が付きます。 ※他サイトにも重複投稿しています。

婚約者の王子に殺された~時を巻き戻した双子の兄妹は死亡ルートを回避したい!~

椿蛍
恋愛
大国バルレリアの王位継承争いに巻き込まれ、私とお兄様は殺された―― 私を殺したのは婚約者の王子。 死んだと思っていたけれど。 『自分の命をあげますから、どうか二人を生き返らせてください』 誰かが願った声を私は暗闇の中で聞いた。 時間が巻き戻り、私とお兄様は前回の人生の記憶を持ったまま子供の頃からやり直すことに。 今度は死んでたまるものですか! 絶対に生き延びようと誓う私たち。 双子の兄妹。 兄ヴィルフレードと妹の私レティツィア。 運命を変えるべく選んだ私たちは前回とは違う自分になることを決めた。 お兄様が選んだ方法は女装!? それって、私達『兄妹』じゃなくて『姉妹』になるってことですか? 完璧なお兄様の女装だけど、運命は変わるの? それに成長したら、バレてしまう。 どんなに美人でも、中身は男なんだから!! でも、私達はなにがなんでも死亡ルートだけは回避したい! ※1日2回更新 ※他サイトでも連載しています。

【完結】目覚めたら男爵家令息の騎士に食べられていた件

三谷朱花
恋愛
レイーアが目覚めたら横にクーン男爵家の令息でもある騎士のマットが寝ていた。曰く、クーン男爵家では「初めて契った相手と結婚しなくてはいけない」らしい。 ※アルファポリスのみの公開です。

愛する殿下の為に身を引いたのに…なぜかヤンデレ化した殿下に囚われてしまいました

Karamimi
恋愛
公爵令嬢のレティシアは、愛する婚約者で王太子のリアムとの結婚を約1年後に控え、毎日幸せな生活を送っていた。 そんな幸せ絶頂の中、両親が馬車の事故で命を落としてしまう。大好きな両親を失い、悲しみに暮れるレティシアを心配したリアムによって、王宮で生活する事になる。 相変わらず自分を大切にしてくれるリアムによって、少しずつ元気を取り戻していくレティシア。そんな中、たまたま王宮で貴族たちが話をしているのを聞いてしまう。その内容と言うのが、そもそもリアムはレティシアの父からの結婚の申し出を断る事が出来ず、仕方なくレティシアと婚約したという事。 トンプソン公爵がいなくなった今、本来婚約する予定だったガルシア侯爵家の、ミランダとの婚約を考えていると言う事。でも心優しいリアムは、その事をレティシアに言い出せずに悩んでいると言う、レティシアにとって衝撃的な内容だった。 あまりのショックに、フラフラと歩くレティシアの目に飛び込んできたのは、楽しそうにお茶をする、リアムとミランダの姿だった。ミランダの髪を優しく撫でるリアムを見た瞬間、先ほど貴族が話していた事が本当だったと理解する。 ずっと自分を支えてくれたリアム。大好きなリアムの為、身を引く事を決意。それと同時に、国を出る準備を始めるレティシア。 そして1ヶ月後、大好きなリアムの為、自ら王宮を後にしたレティシアだったが… 追記:ヒーローが物凄く気持ち悪いです。 今更ですが、閲覧の際はご注意ください。

身代わり婚~暴君と呼ばれる辺境伯に拒絶された仮初の花嫁

結城芙由奈 
恋愛
【決してご迷惑はお掛けしません。どうか私をここに置いて頂けませんか?】 妾腹の娘として厄介者扱いを受けていたアリアドネは姉の身代わりとして暴君として名高い辺境伯に嫁がされる。結婚すれば幸せになれるかもしれないと淡い期待を抱いていたのも束の間。望まぬ花嫁を押し付けられたとして夫となるべく辺境伯に初対面で冷たい言葉を投げつけらた。さらに城から追い出されそうになるものの、ある人物に救われて下働きとして置いてもらえる事になるのだった―。

好きな人の好きな人

ぽぽ
恋愛
"私には10年以上思い続ける初恋相手がいる。" 初恋相手に対しての執着と愛の重さは日々増していくばかりで、彼の1番近くにいれるの自分が当たり前だった。 恋人関係がなくても、隣にいれるだけで幸せ……。 そう思っていたのに、初恋相手に恋人兼婚約者がいたなんて聞いてません。

美貌の騎士団長は逃げ出した妻を甘い執愛で絡め取る

束原ミヤコ
恋愛
旧題:夫の邪魔になりたくないと家から逃げたら連れ戻されてひたすら愛されるようになりました ラティス・オルゲンシュタットは、王国の七番目の姫である。 幻獣種の血が流れている幻獣人である、王国騎士団団長シアン・ウェルゼリアに、王を守った褒章として十五で嫁ぎ、三年。 シアンは隣国との戦争に出かけてしまい、嫁いでから話すこともなければ初夜もまだだった。 そんなある日、シアンの恋人という女性があらわれる。 ラティスが邪魔で、シアンは家に戻らない。シアンはずっとその女性の家にいるらしい。 そう告げられて、ラティスは家を出ることにした。 邪魔なのなら、いなくなろうと思った。 そんなラティスを追いかけ捕まえて、シアンは家に連れ戻す。 そして、二度と逃げないようにと、監禁して調教をはじめた。 無知な姫を全力で可愛がる差別種半人外の騎士団長の話。

【完結】冷酷眼鏡とウワサされる副騎士団長様が、一直線に溺愛してきますっ!

楠結衣
恋愛
触ると人の心の声が聞こえてしまう聖女リリアンは、冷酷と噂の副騎士団長のアルバート様に触ってしまう。 (リリアン嬢、かわいい……。耳も小さくて、かわいい。リリアン嬢の耳、舐めたら甘そうだな……いや寧ろ齧りたい……) 遠くで見かけるだけだったアルバート様の思わぬ声にリリアンは激しく動揺してしまう。きっと聞き間違えだったと結論付けた筈が、聖女の試験で必須な魔物についてアルバート様から勉強を教わることに──! (かわいい、好きです、愛してます) (誰にも見せたくない。執務室から出さなくてもいいですよね?) 二人きりの勉強会。アルバート様に触らないように気をつけているのに、リリアンのうっかりで毎回触れられてしまう。甘すぎる声にリリアンのドキドキが止まらない! ところが、ある日、リリアンはアルバート様の声にうっかり反応してしまう。 (まさか。もしかして、心の声が聞こえている?) リリアンの秘密を知ったアルバート様はどうなる? 二人の恋の結末はどうなっちゃうの?! 心の声が聞こえる聖女リリアンと変態あまあまな声がダダ漏れなアルバート様の、甘すぎるハッピーエンドラブストーリー。 ✳︎表紙イラストは、さらさらしるな。様の作品です。 ✳︎小説家になろうにも投稿しています♪

処理中です...