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しおりを挟む「ユゼフィーナ様……! お顔色が優れません」
喉の奥から酸性の何かがこみ上げてくる。それを押し込めようと口元を手で覆うと、少し離れた場に立っていたはずのダリウスに体を抱き留められた。視界に厩の天井と彼の赤い髪が映り込んでいる。しかしその色はひどく混濁して見えた。己が倒れかけたのだと気づいたのは、ダリウスが「失礼します」と口早に言って私の体を難なく抱き上げた後だ。
「ダリ……」
「ご体調が優れないことを察せず、失礼いたしました」
「大丈夫、……少し気分が悪くなっただけだから、ダリウス、おろして」
「ですが」
「平気よ。……あまり騒ぎにしないで。フェルが眠っているから」
囁いて彼の上着を握ると、彼は意志の強そうな眉を顰めてゆっくりとまた歩きだした。
「ダリウス、」
「すぐそばのテラスまでお送りします」
「……ありがとう」
何も言わずに、できるだけ振動を伝えぬよう歩くダリウスの顔を見上げ、静かに瞼を閉じる。
――あの言葉が、よい意味を持つ言葉ではないだろうことは、はじめからわかっていたじゃない。
何もこれほど衝撃を受けるようなことではないのだ。それなのに、今もこの胸は不快にざわめき、もつれた糸をどうにか元に戻そうとするときのような絶望的で、せわしなく、苛立たしい気分なのだ。
そう、苛立たしいのだ。私は、フェルナンドの存在を貶めるような言葉に、心底腹を立てている。そのうえ、どうしようもなく無力で、もの悲しい。胸の内に吹き荒れる感情の制御ができず、今にも爆発してしまいそうだ。
フェルナンドは何かが自分のものであったことがないと言った。その意味をまた考えさせられてしまう。
「ユゼフィーナ様、失礼いたします」
物思いに耽っているうちに、ダリウスは私をテラスまで誘導し、そこに置かれた椅子に私の体をそっと座らせた。その行為に礼を言う間もなく、ダリウスは私の前に騎士らしく片膝をついて白いハンカチを差し出してきた。
「よろしければ」
「……どうしてこれを?」
ダリウスのポケットから白いレースのハンカチが飛び出してくることにも些か驚きがあるが、それ以上に、なぜ今、私の目の前に彼がそれを差し出してきたのか、その理由がわからない。思わず首をかしげて返事を待っていると、彼はしばらく真顔のまま考え込んでようやく答えを口にした。
「……必要とされているように、お見受けいたしましたので」
人からハンカチを差し出されるのは、おそらく初めての経験だ。彼の言葉の意味がわからずに目を瞬き、しかし差し出されたままにすることもできずにそれを受け取る。
「……わたくし、涙を流しているのかしら?」
「……いえ」
回答までにわずかな間があった。いつも即断即決の姿勢を貫いているダリウスがこうして言葉を選んだということは、彼の目に今の私は涙を流しているように映っているのだろう。だが、右手で瞼の下に触れ、その皮膚が乾いていることを確認してさらに疑問が深まった。
その疑問を問うようにまじまじとダリウスを見下ろしていると、彼はとうとう観念したのか口を開き直した。
「ユゼフィーナ様が涙を流されたいのなら、ぜひそうなさっていただいて構わないということです。……僭越ながら、私はいつでもユゼフィーナ様の行為を尊重し守る者であるということをお示ししたつもりでした。これはユゼフィーナ様への忠誠の証です」
「……あなたにはいつも恥ずかしいところばかり見られている気がするわ」
「護衛騎士とはそのような存在です」
ダリウスはいつも主人の心の機微に敏感だ。いつもは何を考えているのか全く分からない表情をしているというのに、いざというときにはこうして私を思いやる言葉を発し、真剣に私の瞳を見つめている。
少し前まで胸の内側でとぐろを巻いていた悪意が薄らいでいくように感じられて、小さく笑みを浮かべた。
「ダリウス、いつもありが……」
「――ユフィ!」
受け取ったハンカチを握りしめつつ声を上げるとそれをかき消すような大きな声で名前を呼ばれ、即座に振り返る。その先に立つ常ならぬ夫の姿に、呆気にとられた。彼は私が寝室で見た簡素な白シャツと黒のスラックスだけを身に着け、その髪には寝癖がついている。
普段のフェルナンドは身だしなみにも気を使っているから、どれほど寝乱れようと、寝室の外で会うときはいつも完璧に整えられていた。
私の名を唯一愛称で呼ぶその人は振り返った私と目を合わせ、すぐに私の側に控えるダリウスを見やった。起きてすぐに私が側にいないことに気付いたのだろう。馬と花の世話を私だけに任せてしまったことがそれほど衝撃的だったのだろうか。本当に、随分とまじめな人だ。
「フェル、もう起きたのね?」
まずはフェルナンドの気持ちを落ち着かせようと少し離れたところから大股で歩いてくる彼に向かって声をかける。しかし彼は次の返事をする前に、あっさりと私の目の前にたどり着いた。近くで見てようやく気付いたが、フェルナンドの肩が細かく弾んでいる。軽く息が上がるほど急いで私を探し出したのだろう。
「ユフィ」
「フェ……、どうされましたの?」
真正面でぽつりと私の名前を囁いたフェルナンドは、私の言葉を最後まで聞き届けることなく突然私の体を抱きしめてしまった。すっぽりと彼の体に埋められて、右耳が彼の胸元に擦れる。少し前まで明瞭だった視界が彼のシャツに遮られてしまった。
彼の左胸に押し付けられた耳が、私のものとは違う鼓動を伝えてくる。驚くほど速いリズムだ。予想外の連続で、ただ彼に抱かれながら、うわごとのように彼の名を囁いた。
「……フェル?」
「……しばらく妻と二人にさせてくれ」
フェルナンドは私の言葉に答えるよりも先に、私の背中を抱く腕に力を籠めつつ言い放った。それがダリウスへの命令だと気づいたのは、私が声を上げる前にダリウスが「承知いたしました」と言って遠ざかっていく音が聞こえたからだ。
ダリウスの足音を聞きながら、しばらく沈黙が流れる。そうしてその足音が聞こえなくなってしまったあたりで、頭上からため息が聞こえてきた。
「フェル?」
「あなたはいつも……、あなたの騎士のそばにいるね」
その言葉は私に対して問いかけているようで、どこか独り言のような響きを孕んでいた。相変わらず私の体を抱く腕の力は弱まらず、どのように抵抗してもこの檻の中から容易に出ることはできないだろう。
昨夜も私はフェルナンドの手に押さえつけられてしまえば、たちまち何一つ抵抗ができなくなることをよく学んだのだ。
こうして人前で触れ合うのは実にフェルナンドらしからぬ行いではあるが、そもそも昨夜彼には、自身の思うとおりに行動してほしいと伝えたばかりなのだ。
わずかにこわばっていた体から力を抜いて彼の胸に頬を寄せると、フェルナンドはぴくりと肩を揺らした。
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