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番外編
『甘く苦い雨』(幼い菰野と葛原の話)
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「あ。くずにーたま!」
中庭の奥に、大好きな義兄の姿を見つけて、栗色の髪をした幼い少年は駆け出した。その後ろを付き添いらしき女官が慌てて追っている。
「にーたま、くずにーたま!」
ころころと転がりそうなほどの勢いで駆けて来た子を、まだ十にもならないほどの少年が振り返りざまに慌てて受け止める。
「っ、菰野……」
受け止めた衝撃にふらつく青鈍色の髪をした少年は、あまり顔色が良くなかった。
幼い少年は、髪と同じ栗色の瞳で少年を見上げて、満面の笑みを浮かべる。
「にーたま! だーいしゅき!!」
にこにこと、見ている者までが嬉しくなってしまいそうな無邪気な笑顔。
それを、どこか儚げな微笑みで受け止めて、少年が返す。
「……私もだよ」
表情を隠すかのように長く伸ばされた少年の前髪が、言葉とともにさらりと揺れる。
その下から覗く瞳も、髪と同じ青鈍の寂しげな色をしていた。
ぽつり、と雨粒が少年の頬に落ちる。
「あ」
幼い少年には、それが義兄の涙のように見えて、慌てて手を伸ばす。
二人はずいぶん背の高さが違ったが、少年は義弟の仕草に背を丸めて顔を寄せた。
「どうした?」
精一杯伸ばされた小さな手が、雨の雫をごしごしと拭き取る。
まだ手加減の出来ない幼な子の仕草に、少年は僅かな痛みをじっと堪えた。
「雨が降り出したようだな……」
言われて、幼い少年はホッとする。その雫が、義兄の涙で無かったことに。
空の様子を確かめるように少年が胸の前で緩く空へ向けた手のひらへ、ぽつりともう一雫、雨粒が降る。
「この、空から降る雫が、全部水飴だったらよかったのに、な……」
少年は独り言のように小さく囁いて、手の平の小さな雫を口元へと運んだ。
途端、ぐう。と、少年の腹の虫が鳴く。
青鈍色の髪が、ぎくりと揺れて、怖々足元の少年を見た。
栗色の大きな瞳は、不思議そうに義兄を見上げていた。
(にーたま、おなかがすいてるの……?)
どうしてだろう。おやつがまだなのかな? 小さな頭でそんなことを考えながら、幼い少年は自分の懐を探る。
そこには先ほど叔父から貰った砂糖菓子がひとつ、薄い紙に包まれていた。
「にーたま、こえ、どーじょっ」
小さな小さな手が、大事そうに両手で差し出してきた包みに、青鈍色の瞳が揺れる。
自分をまっすぐ見つめて来る栗色の瞳から逃げるように、青鈍色の少年は目を伏せた。
「……それは、菰野のだろう。お前が食べなさい」
その声が僅かに震えている事に、気付いたのは栗色の少年だけだった。
栗色の少年は、手の中の菓子とどこか苦しげな義兄を見比べて、一生懸命考える。
抱っこしてください。とお願いしようとして、先程のふらつく義兄の様子を思い出すと、それも義兄には大変な事かも知れない、と考え直す。
どうしたら良いだろうか。
お腹の空いた義兄に、どうしてもこれを食べてほしくて、小さな頭を精一杯動かす。
いつも優しい義兄には、いつだって、笑っていてほしいのに。
「くずにーたま! ぎゅってちてくらたい!」
突然の申し出に、少年は青鈍色の目を丸くする。
その間に、小さな手は菓子を懐にしまうと義兄に向けてまっすぐ伸びた。
全力で抱擁を待つ義弟の様子に、少年は戸惑いながらも屈み込むようにして小さな背へ腕を回す。
「こうでいいのか……?」
「あい!」
耳元で元気いっぱいに答えられて、青鈍色の少年は小さく肩を揺らす。
まだ大人には程遠い少年の腕に抱かれて、幼な子は小さな手で、義兄の肩を懸命に撫でる。どうか、この人が笑顔になれますように。と願いながら。
小さな手の温かさに、青鈍色の少年はそっと瞳を閉じた。
(抱いてやっているつもりが、まるで、こちらが宥められているようだな……)
しばらくの後、義弟がごそごそと動き出し、青鈍色の少年は腕を離した。
見れば、ごそごそやっていた義弟は懐からもう一度菓子を取り出していた。
「にーたま、こえは、だっこのおりぇーでしゅ!」
まだ舌足らずな義弟の言葉を頭の中で整えれば、それは『礼』だと言う事だった。
「菰野……」
少年にとって、義弟の気持ちはとても嬉しかった。
けれど、義弟に気を遣われ、施しを受ける自身の情けなさに、どうしようもなく胸が軋む。
「ありがとう……」
義弟から差し出された『礼』を無下に断るわけにもゆかず、少年はそれを受け取った。
栗色の幼い少年は、嬉しそうに微笑みを返すと、礼を残して中庭を去る。
その後ろを、雨に濡れた事を心配する女官達に付き添われながら。
雨粒は先ほどよりもパラパラとその数を増やしていた。
中庭にポツンと取り残された少年は、曇天を見上げて思う。
……私は、うまく笑えただろうか……。
滲みそうな視界を堪えるように、少年は力を込めて眉を顰める。
もっと強くなりたい。
空腹にも、孤独にも、耐えられるように。
……菰野にも、父上にも、心配をかけないように。
強く強く願いながら、少年は一人きり、そらから降る涙に包まれていた。
中庭の奥に、大好きな義兄の姿を見つけて、栗色の髪をした幼い少年は駆け出した。その後ろを付き添いらしき女官が慌てて追っている。
「にーたま、くずにーたま!」
ころころと転がりそうなほどの勢いで駆けて来た子を、まだ十にもならないほどの少年が振り返りざまに慌てて受け止める。
「っ、菰野……」
受け止めた衝撃にふらつく青鈍色の髪をした少年は、あまり顔色が良くなかった。
幼い少年は、髪と同じ栗色の瞳で少年を見上げて、満面の笑みを浮かべる。
「にーたま! だーいしゅき!!」
にこにこと、見ている者までが嬉しくなってしまいそうな無邪気な笑顔。
それを、どこか儚げな微笑みで受け止めて、少年が返す。
「……私もだよ」
表情を隠すかのように長く伸ばされた少年の前髪が、言葉とともにさらりと揺れる。
その下から覗く瞳も、髪と同じ青鈍の寂しげな色をしていた。
ぽつり、と雨粒が少年の頬に落ちる。
「あ」
幼い少年には、それが義兄の涙のように見えて、慌てて手を伸ばす。
二人はずいぶん背の高さが違ったが、少年は義弟の仕草に背を丸めて顔を寄せた。
「どうした?」
精一杯伸ばされた小さな手が、雨の雫をごしごしと拭き取る。
まだ手加減の出来ない幼な子の仕草に、少年は僅かな痛みをじっと堪えた。
「雨が降り出したようだな……」
言われて、幼い少年はホッとする。その雫が、義兄の涙で無かったことに。
空の様子を確かめるように少年が胸の前で緩く空へ向けた手のひらへ、ぽつりともう一雫、雨粒が降る。
「この、空から降る雫が、全部水飴だったらよかったのに、な……」
少年は独り言のように小さく囁いて、手の平の小さな雫を口元へと運んだ。
途端、ぐう。と、少年の腹の虫が鳴く。
青鈍色の髪が、ぎくりと揺れて、怖々足元の少年を見た。
栗色の大きな瞳は、不思議そうに義兄を見上げていた。
(にーたま、おなかがすいてるの……?)
どうしてだろう。おやつがまだなのかな? 小さな頭でそんなことを考えながら、幼い少年は自分の懐を探る。
そこには先ほど叔父から貰った砂糖菓子がひとつ、薄い紙に包まれていた。
「にーたま、こえ、どーじょっ」
小さな小さな手が、大事そうに両手で差し出してきた包みに、青鈍色の瞳が揺れる。
自分をまっすぐ見つめて来る栗色の瞳から逃げるように、青鈍色の少年は目を伏せた。
「……それは、菰野のだろう。お前が食べなさい」
その声が僅かに震えている事に、気付いたのは栗色の少年だけだった。
栗色の少年は、手の中の菓子とどこか苦しげな義兄を見比べて、一生懸命考える。
抱っこしてください。とお願いしようとして、先程のふらつく義兄の様子を思い出すと、それも義兄には大変な事かも知れない、と考え直す。
どうしたら良いだろうか。
お腹の空いた義兄に、どうしてもこれを食べてほしくて、小さな頭を精一杯動かす。
いつも優しい義兄には、いつだって、笑っていてほしいのに。
「くずにーたま! ぎゅってちてくらたい!」
突然の申し出に、少年は青鈍色の目を丸くする。
その間に、小さな手は菓子を懐にしまうと義兄に向けてまっすぐ伸びた。
全力で抱擁を待つ義弟の様子に、少年は戸惑いながらも屈み込むようにして小さな背へ腕を回す。
「こうでいいのか……?」
「あい!」
耳元で元気いっぱいに答えられて、青鈍色の少年は小さく肩を揺らす。
まだ大人には程遠い少年の腕に抱かれて、幼な子は小さな手で、義兄の肩を懸命に撫でる。どうか、この人が笑顔になれますように。と願いながら。
小さな手の温かさに、青鈍色の少年はそっと瞳を閉じた。
(抱いてやっているつもりが、まるで、こちらが宥められているようだな……)
しばらくの後、義弟がごそごそと動き出し、青鈍色の少年は腕を離した。
見れば、ごそごそやっていた義弟は懐からもう一度菓子を取り出していた。
「にーたま、こえは、だっこのおりぇーでしゅ!」
まだ舌足らずな義弟の言葉を頭の中で整えれば、それは『礼』だと言う事だった。
「菰野……」
少年にとって、義弟の気持ちはとても嬉しかった。
けれど、義弟に気を遣われ、施しを受ける自身の情けなさに、どうしようもなく胸が軋む。
「ありがとう……」
義弟から差し出された『礼』を無下に断るわけにもゆかず、少年はそれを受け取った。
栗色の幼い少年は、嬉しそうに微笑みを返すと、礼を残して中庭を去る。
その後ろを、雨に濡れた事を心配する女官達に付き添われながら。
雨粒は先ほどよりもパラパラとその数を増やしていた。
中庭にポツンと取り残された少年は、曇天を見上げて思う。
……私は、うまく笑えただろうか……。
滲みそうな視界を堪えるように、少年は力を込めて眉を顰める。
もっと強くなりたい。
空腹にも、孤独にも、耐えられるように。
……菰野にも、父上にも、心配をかけないように。
強く強く願いながら、少年は一人きり、そらから降る涙に包まれていた。
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