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第二部

38話 主従(2/5)

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「レイ、気分はどうですか?」
ノックとほぼ同時に部屋に入ってきた久居を、まだぼんやりと布団の上で胡座をかいていたレイが見上げる。
「あ、ああ。大丈夫だ、と、思う……」
ぼんやりとした返事に、久居はほんの少し眉を寄せる。
座り込んだままの天使の、額にかかる柔らかな金髪を久居は指先でかき分けながら断る。
「ちょっと失礼します」
久居は、手のひらで検温し、脈をとり、瞳を覗き込んだり、下瞼を下げたりした後、ようやく表情を緩めて「大丈夫そうですね」と言った。
レイは露草色の瞳で、久居とは違う縦に長い瞳孔で、久居をじっと見つめていた。
「……昨夜の事は覚えていますか?」
奥に赤い色を隠した黒い瞳が、レイに問う。
レイは、ギクリと逃げ腰になった。
「いや、その……め、迷惑かけて、すまなかった」
「本当に。ご自分の体調管理くらいは、ご自身でなさってください」
久居は冷ややかに告げつつ立ち上がると、レイの布団を片付け始める。

「いや、俺がやるから……」
レイは慌てて立ち上がるが、
「食事の支度がしてありますので、済ませてきてください。のんびりしていると、昼になってしまいます」と久居が被せて言った。

「俺、そんなに寝てたのか……?」
レイは窓のない部屋で、それでも外に溢れる光のエネルギーを感じて震えた。
「……昨夜は恐慌状態でしたので、精神的な疲労が溜まっていたのでしょう」
軽くショックを受けているレイに、久居は内心、処方量が少し多かっただろうかと反省する。
けれど、それは顔には決して出さなかった。

----------


久居は、昼食を済ませた菰野に食後のお茶を出しながら、主人の顔をもう一度見た。

譲原皇が亡くなってからというもの、どこか陰を残していた菰野の表情は、昨夜から妙にすっきりした、年相応に子供らしい表情に戻っていた。

久居の良く知る、朗らかで優しい菰野の顔だ。

葛原皇の訃報もあり、まだしばらくは目に出来ないだろうと思っていた、そんな姿が今自分の目の前にある。
その事に、頬が緩みそうになるのを全力で堪えていると、不意に菰野が振り返った。

「ん? どうかしたか?」

「いえ、何も」

気付かれるほど見るつもりはなかったのだが、その柔らかい表情からどうしても目が逸らせず、結果、凝視してしまった事を激しく恥じ入る。
久居が平静を装いながらも、密かに深呼吸をしていると、菰野が口を開いた。

「城は今どうなってるんだ?」
おそらく、菰野はずっと聞きたかったのだろう。
昨日はなんだかんだと終始バタバタしていたので、タイミングを逃していたようだ。
「今は、小柚様が宰相と共に治めていらっしゃいます」
久居の言葉に、菰野が振り返るように、城の方角を遠く見つめる。
「そうか……小柚が頑張っているのか。……いや、三年も経てば、もう俺の知る小さな小柚ではないんだろうな」
菰野は、遠い目をしたそれを、少し細めた。
「葛原様の御遺体が無かった事もあり、しばらく混乱があったようですが、今はすっかり落ち着いているそうです。……雪華様は、お里へ帰られたと伺いました」
久居が、その横顔を見つめながら伝える。
どんな些細な表情の変化も見逃さないよう、瞬きせずに。
「そう、か……。あの方はもう、城にはいないんだな……」
菰野の記憶に残る城は、まだまだ鮮明だ。
この山の麓。ここから城までは、そう遠くない。
義兄をいつも追い詰めるばかりだった人は、もうあそこに居ない。
けれど、義兄もまた、あそこには居ないのだ。

父も、母も、あそこで亡くなった。
もしかしたら、そのどちらもが、自然死では無かったのかも知れない……。

「内部へは、三日もあれば連絡を取る事ができます。もし菰野様が城へ戻る事をお考えでしたら……」
「もう城へは戻らない」
久居の声は、菰野のはっきりした否定の言葉で途切れた。
久居は、三つ歳下だった、今は六つ離れてしまった主人の表情に目を奪われる。
菰野は、悲しみに覆われた表情では無かった。
むしろ晴れやかな、門出に際したような、穏やかな中に決意を感じる顔をしている。

「……それでは、この先はいかがなさるおつもりですか?」
久居の静かな問いかけに、菰野は、そうだな……としばし考えてから答える。
「師範を……訪ねてみようかと思うんだが、どうだろう?」
久居がわずかに目を見開く。久居は、菰野がこんなに簡単にその考えに辿り着くとは、正直思っていなかった。

菰野の剣術の師は、現在ここからそう遠くない小さな山村で、ゆったりと隠居生活を送っている。
歩いても片道三時間もはかからない距離で、その気になれば、ここから一日のうちに往復する事ができる。
趣味の小さな道場も残してあり、久居の調べでは山村にはちょうど今、空家があった。
なにより老師は、ひとたび刀を握れば鬼神のようだと城の衛兵たちにまで恐れられていたが、それ以外の場では、菰野や久居を幼少よりまるで孫かのように可愛がってくれていた。
剣の道に身分は関係ないという持論から、何も持たない久居にも、分け隔てなく機会を与えてくれた。つまり、老師は久居の剣の師匠でもあった。

「良いお考えかと存じます」
久居は敬服の意を込めて一礼する。
「確か師範は道場を残されていたと思うんだが、どうだったかな?」
「はい、挨拶の際には道場に泊めていただくことが出来ますし、近隣には空き家もございます」

「ん? もしかして……」
久居のあまりにハッキリした状況説明に、菰野が振り返る。
「師範にお話は通してあります。いつでも頼ると良いとのお言葉をいただきました」
菰野の視線を受けて、久居がにこりと微笑んだ。
「なんだ。結局は久居の掌の上か」
菰野が残念そうに、それでもどこか嬉しそうにこぼすと、久居が「とんでもございません」と穏やかに微笑んだ。
その笑顔は、菰野の知る昨日の久居より、ずっと大人の顔をしている。
菰野は、姿を変えても変わらず自分の隣に立ってくれる黒髪の従者を、上から下まで眺めて言う。
「久居、背が伸びたな」
「はい」
「三年も……苦労をかけたな」
「……いいえ」
久居が、幸せが溢れて零れ落ちそうな顔で微笑む。
「こうしてまた、菰野様のお側を許され、恐悦至極に存じます」


(ボクの知らない顔の久居だ……)
リルは、午前中で終わらなかった分の宿題を机に広げて、机の向こう側で話す二人を眺めていた。

あ。あんまりよそ見してたら、カロッサにまた叱られちゃうかな、と隣を見ると、隣に座っているカロッサは、机にべしゃっと伏していた。
「……カロッサ、何してるの?」
机の上に両腕を伸ばして、空のカップを両手でコロコロと弄ぶカロッサに、リルが声をかける。
「んー……。あの空気にね、入れなくてね」
カロッサの視線の先には、久居が手にしたままの土瓶があった。
「お茶のおかわりほしいの? ボクもらってこようか?」
「えっ、リル君、大丈夫?」
聞かれて、リルが不思議そうにくりっと小首を傾げる。
「何が?」と聞き返されて、カロッサはぶんぶんと首を振った。
「あー。ううん。なんでもないわ。お願いね」
こんな時、空気が読めないというのは強いなとカロッサは思う。
「うん!」
にっこり笑顔でカロッサのカップを受け取ると、ととと、と小走りでリルは久居の元へ駆けて行った。
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