鳥に追われる

白木

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第三章 神様のいない海

花のナポレオンフィッシュ1

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オゼ


「離せよ、バカ」

「バカとはなにさ、君のために止めているのに」

 さっきから殆どプロレスのような状態だ。

 落ち着くのか不安になるのかわからないリズミカルな音楽が、空から聞こえてきたかと思うと、急に慌て出したローヌにブリッジに引き戻された。

「あれは見ちゃだめだ」

 俺たちの回収人よりずっと線が細いのに、むちゃくちゃ力が強い。

 外に出ようとする俺と、かなりの時間もみ合いになっている。こんなの小学生以来だ。

 だんだん面白くなってきた感すらあった。

「オゼくん、楽しそうね」

「兄ちゃんがんばれ――」

 俺に殺された二人も椅子に座って笑顔で見守っている。

 絶対遊んでいると思っている。

「だからあ、あれは君の感情なんだよ。窓の方へ行って見てごらん。絶対に外に出ないと約束して。君はなんでも掴みたがるから心配だ……」

 ダラダラ話しているローヌを置いて、窓に駆け寄った。

 正方形の白く光る物体が浮かんでいる。中に何か入っているようだが、正方形自体がそんなに大きくないので、良く見えない。

「あ、ガラスの中に兄ちゃんがいる!」

 アレ、俺なのか? と思いながら振り返ると背後に抱っこをねだるポーズをしたマモルがいた。嬉しくて反射的に腕を伸ばしたが……駄目だ。

俺なんかが触れて言い訳がない。思い出す。マモルを殺した時の感覚――。

 それでもマモルの寂しい顔に負けて、といより自分自身に負けて、意を決して抱き上げた。一緒に窓の外を覗く。

 後ろで座ったままのおばさんもこっちに呼ぼうとしたのに、あろうことか何やらローヌと親しげに話をしている。

「兄ちゃん、痛い」

 ついマモルを抱く手に力がこもってしまった。このままじゃローヌまで殺してしまいそうだ。

「ごめん。それにしてもきれいだな。おしゃれな照明みたいだ。一つ欲しいな」

 首を変なふうに傾げて上空を見ると、それこそ天の川のような白い塊を作って正方形のガラスが移動している。

 掴まえて来てマモルに提灯のように持たせてやりたい。涼し気な白っぽい光はおばさんにも似合いそうだから、やっぱり二つは掴まえたい。余裕があれば自分の分も。自分入りライト。文字通り個性的で、恰好良いじゃないか。

「駄目だからね」

 おばさんと話していたローヌに戒められた。

「オゼくんが空いっぱいだね。自由に浮いているのに掴まえるのは可哀想」

 おばさんは楽しそうだ。何だか恥ずかしい。あれは俺の感情だとローヌが言っていたけれど、今の気持ちは果たしてどのあたりを飛んでいるのか。そしてガラスの中の俺はどんな表情をしているんだろう。

アオチやオオミもこれを見ているはずだ。

 オオミなんかはまた怯えているんだろうな。いや、それとも掴まえて壊してやりたいと思っているかも知れない。


 ガラスの立方体の群れが去るまで、ぼんやりと空を眺めていた。

「今、何時だ?」

 ふと、気になって誰にともなく声をかける。

 ローヌが声を出さず、右側の壁を指した。

 だいぶ見慣れた鉄板のような生命を感じない壁に、これも何の味気もない時計が掛かっていた。壁に馴染み過ぎていて気付かなかったくらいだ。

「もう直ぐ十時か……。正確には朝の何時に俺たちは移送されるんだ?」

 今度は明確にローヌに尋ねた。

「太陽が完全に上り切った頃って感じ」

「……なんだよ、その酷く曖昧な時間は」

「仕方ないだろ、神様は時計で動く習慣はないんだ」

 また、そいつの忌々しいルールか。『一人』とか馬鹿みたいな決まりにはこだわるくせに、時間にルーズなやつだ。

 こうしている間がもったいない。床に降ろしたマモルと、おばさんの方へ歩み寄る。

 おばさんも立ち上がった。

「二人ともごめん……」

「大丈夫、オゼくんが鳥を掴まえてくれたら、わたし達も救われる」

 二人を抱き寄せようと思った時、突然奇妙な音楽が途切れた。

 はっとして伸ばしかけていた腕をおろし、警戒して周囲を見渡す。

「行かないと――君を守らないと」

 ローヌがブリッジの出口へ向かって走り出した。どうしたって言

うんだ。

「二人はここで待ってて。今度は死なせたりしないから」

 のんびり屋のローヌがあんなにきびきびしているなんて、ただ事ではない。何か、危険が迫っているに違いない。

 後を追って外に飛び出した途端、叩きつけるような水が上から降ってきた。

 雨? いや違う――これは海水だ。

 頭上から圧を感じ見上げると、俺たちの船二つを足したよりずっと大きな魚が、十メートルほど上空に浮いていた。

「ナポレオンフィッシュじゃないか……」

 しかも鱗が全部、青い花の。

「記憶を喰う魚だ」

 心臓を喰う鳥とか、鳥を喰う鳥とか、みんなどれだけ腹が減ってるんだ。

 確かにあれは魚の形をしている。俺の好きなナポレオンフィッシュにそっくりだ。身体を覆っているのが青い花の所を除けば。

花の名前は解らない。紫陽花のようにも見えるけれど、形が少しだけ違う気がする。

 近くで見たら一つ一つが凄く大きな花なのだろう。密集して、夜の闇にも溶けない、鮮やかな青のグラデーションを揺らしている。

「あの魚が記憶を喰うのか? バクが夢を食うみたいに」

「バクってなに? あれは普段、夜を移動して人の嫌な記憶を喰って泳ぐ。君も会ったことがあるはずだ。目覚めると忘れてしまうだけでね」

 ……全く覚えがない。完全に忘れているということか。

 その時、魚が大きく身体をひねらせて、空からスペアミントの香りが降ってきた。

 思わず肺の奥まで深呼吸をしてしまう。

「オゼさん!」

 遠くからオオミに呼ばれた気がした。

「おい、大丈夫か?」

 アオチの声もする。何時間かしか離れていないのに、ひどく懐かしい。

 隣の船に顔を向けると、二人の姿があった。あいつらずっと外にいたのか? ブリッジの中からだと姿も声も確認できなかった。

 右舷の方からウルウと無言ちゃんも小走りでやって来る。

「お前たちも、許してくれるのか」

 やっとの思いで尋ねた俺に、二人が真剣な表情で答える。

「許すもなにも……悪いのは神様でした」

「お前、ローヌに騙されているんだ。早くこっちに戻って来い」

 こいつらも神様の話を聞いたのか。でも、ローヌに騙されているとは何のことだろう。もう一度スペアミントの空気を吸い込んで言った。

「俺も話は聞いたよ。三人で、神様の作ったルールを潜り抜けよう」

「はい。神様は反抗的な人間に色んな罠をしかけてくるそうです。さっきの百万体のクリスタルもそれです。この、記憶喰い魚も僕たちを惑わすためにやって来て、ゲホッ……」

 声量のないオオミが声を張り上げ続けていたので、思いっきりむせた。

「お前、無理するなよ。あの魚は俺たちの悪い記憶を喰うんじゃないのか? だったら、そんなに危険じゃないだろ。だいたい俺はナポレオンフィッシュが好きだ」

 そう言った俺の顔に何か優しい感触のものが落ちた。

 青い花びらだ。

 呼吸を整えて、空を見上げた。

 花が、咲き始めていた。

 青い魚の身体の内側から、次々と瑞々しい花が盛り上がってきている。そのせいで、表面の古い花びらがどんどん落ちているんだ。

 桜の花が降るさまは何度も見たことがあるが、青いものは初めてだ。意外と小さな花びらだ。これが集まってあの巨大な魚の鱗になっているのか。心にあった重い物が青い花びらに沁み込んで、そのまま海に飛んで行ってくれそうな、そんな気になった。

 アオチとオオミを見ると、目を瞑って花びらを全身に受けている。その後ろの無言ちゃんもだ。ウルウだけは楽しそうに花びらを両手で受けてくるくると回っていた。こいつは生まれたばかりだから、吸い取られるような悪い記憶なんてないのかもな。

 甲板にも花が積もり、青いステージのようだ。

 花を足で掻き分ける音がして振り返ると、おばさんとマモルが立っていた。

「兄ちゃん、お花きれい」

「青のブルンネラだね。見慣れたものより大きいけど」

 おばさんが静かに言った。

「あの、小さい公園に咲いてたやつですか」

 俺の家の近く、ということはおばさんのアパートの近くでもあるのだが、ブランコと鉄棒とシーソーが置いてあるだけの、狭い公園があった。

 確かにそこで見た花だ。今までずっと忘れていた。本当にあの公園があったのかすら怪しい。記憶の中で作り上げた場所ではないか? 自信がない。

「そう、一緒に見たじゃない、忘れてしまった?」

 そんな――今まで忘れていたなんて、そんなの信じられない。

あの頃のことは全部覚えてるはずなのに。おばさんの言葉も、その言葉を発した時の口の動きも、目の色も、全部覚えているはずなのに。

 いや、でも待て。現におばさんとマモルを殺した事を忘れていたじゃないか。そういえば、アオチとオオミは俺が人殺しだと知らない。知らないから、ああやって気楽に戻って来いとか言えるんだ。

 俺のやった事を知ったら、むしろ二人がかりで俺を殺しに来るかも知れない。ああ、どうしよう、混乱する。

 おばさんはもう俺に話しかけるのをやめ、空のナポレオンフィッシュを見ている。

 おばさんには青が似合う。俺の好きな青が。いや、おばさんに似合うから青が好きになったのか? もう良くわからない。

 浮遊感の中、見上げたナポレオンフィッシュと目が合った。

 さっきまでは目なんか無かった。フォルムだけで動いていたのに。怖い。青い花の奥から覗く感情のない横眼で、俺たちの船をじっと見ている。

 他のみんなは気がついていない。

 回収人たちはどこへ行ったんだ。俺たちを守ってくれるんじゃなかったのか。

「みんな、船の中に入るんだ! 急いで!」 

 そう叫んだ時だった。ナポレオンフィッシュがその花で出来た身体を俺たちの方へ向けた。

 そのまま勢いよくこっちに落ちて来る。おばさんとマモルを守らないと――。

 二人の方へ向き直ったのと、おばさんが魚に喰われたのは同時だった。

 大きく口を開いた魚の中に、おばさんは一瞬で消えた。

 ――膝をついていた。花びらの下は冷たい甲板のはずなのに、なにも感じない。

 何で……。また、失ってしまった。俺のせいで。

「兄ちゃん……」

 抱きついてきたマモルだけが温かい。泣いているのか?
再会してからマモルが泣いたのは初めてだ。いや、この子が泣

いた事なんてこれまで一度もない。

「オゼさん!」

 オオミの大きな声が聞こえた。俺の心配をしてくれているんだろ

うか。

 もういっそこいつらにも本当のことを話して楽になりたい。

「オゼさん、今のは違います。あなたが殺したんじゃない。オゼさんのせいじゃない」

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