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第四章 鳥像の門
地獄6
しおりを挟む 伊織はテーブルの上にあるタッパーの中身をじっと見つめた。
今日はリルトとの二回目の面会日だ。
つい今しがた隣に座っているリルトが蓋を取ったタッパーの中には小さな丸い容器に入ったゼリーが四つ入っていた。
色味と匂いでそれが苺と蜜柑だとわかる。
ゼリーは小さくて二口程度で食べれる大きさだ。
「これって……」
「ゼリーなら食べられないかと思って。この量なら負担にならないかなと」
今日はラフにセーターとジーンズのリルトが、少し眉を下げて笑う。
会った時に初日とは違う服装をマジマジと見れば、初対面だから気合を入れたと言われて笑ってしまった。
可愛いとうっかり思ってしまったのは内緒だ。
それにしても、どう見ても家庭用のタッパーだし、取り出したのも家庭用の保冷バックだった。
「もしかして、手作り?」
「そう、まだ冷たいからよかったら」
手作りを持ってきてくれるとは思わなかった。
ぽかんとゼリーを見つめてしまう。
「俺なんかにわざわざすみません」
ふいに右手を取られた。
顔を上げたら、リルトの真剣な眼差しが見つめてくる。
「なんかじゃない」
じっと紺碧の瞳に見つめられて、どう答えたらいいかわからなくて伊織は視線をそらした。
そういう言葉は慣れていない。
花も小さい頃は何度か言っていたけれど、いちいち気遣わなくていいと言ったら言わなくなった。
「作れるなんて凄いね」
どうにか話をそらしたくてゼリーの話題を振ると、手を離されてほっとした。
「料理は結構必死で覚えたから」
一人暮らしなのだろうと思う。
アメリカから来たと言っていたから、食文化が違って大変だったのかなと考えた。
もしくは食べるのが大好きか。
「努力家なんだ」
関心すると、リルトが一瞬キョトンとしてからふっと笑った。
思わずといったように。
「そんなんじゃないよ。オメガに会えたとき、やってあげたいことを妄想してたら出来るようになりたくなった」
「妄想って」
「妄想だな」
直球な言葉に噴き出すと、伊織はくすくすと笑った。
(なんか本当この人、可愛く思っちゃうな)
こんな整った大人の男が堂々と妄想を元に頑張ったなんて、おかしくて仕方がない。
「リルの本は知り合いがファンで何冊か読んだんだ」
「そうか、嬉しいな」
パアッと顔を明るくさせたリルトは金髪のせいもあって、さながら尻尾を大きく振っているゴールデンレトリバーに見える。
「恋愛ものとかもあったけど、もしかしてそれも?」
「それは半分はやってみたいことの妄想だな」
「あはは!そうなんだ」
神妙な顔で頷くものだから、とうとう伊織は声を上げて笑ってしまった。
(こんな百戦錬磨みたいな見た目してるのに!しかもそれ言っちゃうところが、ちょっと残念な人だな)
笑う伊織に気分を害したふうもなく、リルトは脇に避けていた保冷バッグから小さなスプーンを取り出した。
用意がいい。
スプーンを渡されるのかと思ったら、それを右手に持ったままリルトは蜜柑のゼリーの容器をひとつ手に取った。
ぷるりとしたそれをスプーンで小さく掬い上げる。
そのまま口元に運ばれてしまった。
「ほら」
「え!自分で」
「駄目、したい」
「小さい子じゃないんだから」
拒否をすると、目に見えてシュンとされてしまった。
「アルファの給餌は求愛行動だよ。駄目?」
くうんと鳴き声が聞こえてきそうだ。
ついでにヘタレた犬耳の幻覚が見える。
うっと伊織は動揺した。
さっきまでゴールデンレトリバーだったのに、一瞬で子犬になるなんて何なんだと。
ちょんとゼリーの乗ったスプーンで唇を小さく突かれると、まあいいかと思ってしまい口を開いてしまった。
途端、リルトの顔に満面の笑みが広がる。
(くっ、ほだされる)
初対面からほだされている自覚はあるけれど、ちょっと悔しい。
口に入れたゼリーはまだ冷たい。
つるりとしたほどよい蜜柑の甘味は、吐き気を誘うことはなかった。
「美味しい」
「よかった、吐き気は?」
「今のところ平気」
結局嬉し気なリルトに給餌されたまま蜜柑と苺をひとつずつ食べてしまった。
恥ずかしいことこのうえないけれど、他人の目がないからいいかと開き直った。
「残りは夜にでも食べて。容器は洗わずに返してくれていいから」
「ありがとう、美味しかった」
「どういたしまして」
食事をしたのに吐き気がないことに伊織は機嫌がよかった。
まだ普通の食事は食べるのが結構大変なのだ。
けれどゼリーは少量だったのもあり、美味しく食べられた。
手作りだと思うと、ほんのり胸が温かくなる。
タッパーに蓋をして保冷バッグに戻してしまうと、じっとリルトは伊織を見つめた。
その視線の先は顔ではなく、首元を見ている。
「前回はまったくしなかったけど、少しだけフェロモンが出てきたな」
「フェロモン?俺出してるの?」
思わぬ言葉に伊織はパチパチとまばたきを繰り返した。
首元を見ていたのはそれでだろうかと、なんとなく首筋に手をやっても自分では何もわからないし、それらしい匂いも感じない。
「本来ならつねに出てるものだよ。今は淡い花のような香りがうっすらしてる」
「してるんだ」
「うん、ほんのごくわずか。多分治療が進んだらちゃんと香るよ。投薬予定だったよね?」
治療方針を思い出しながら、そうだったなと頷く。
「抑制剤ある程度抜けたら、治療用の薬飲むって言ってた。リルもフェロモン出してるの?」
「出してるよ」
出してるのか。
スンスンと鼻を鳴らしてみたけれど、それらしい匂いはまったくしない。
そもそもフェロモンとはどんなものかも知らないけれど。
「俺のも治療が進めば感知できるようになるよ」
「そうなんだ」
そういうものなのかと思っていると、望月が衝立から出てきた。
時間らしい。
そのままリルを見送ったあと自分も病室に帰る途中、手に持った保冷バッグを見下ろした。
まだゼリーが二つ、中に入っている。
「花ちゃん以外にこんなことしてもらうの、はじめてだ」
なんだかソワソワしてしまう。
それは嬉しさなのか申し訳なさなのかは、ちょっとよくわからない。
でも、大事に食べたいと思っている。
「わざわざ作ってくれたんだよな」
伊織はそっと保冷バッグを胸に抱えた。
翌日、面会に花が来てくれた。
ベータの女性なので面会許可が下りたらしい。
「心配させるんじゃないよ」
フンと気の強そうな顔で言い放たれる。
目の前で倒れたから心配させただろうなと申し訳なく思いながら、伊織はベッド横の椅子に座るよう促した。
「ごめん。でも俺のせいじゃないよ、大元は母さんだから」
「どういうことだい」
椅子に座った花が眉を寄せる。
花は爽子にいい感情を持っていない。
怒るかなと思いながらも望月や日下部から聞いた話を説明すると。
「あのクソ女!」
見事な罵り具合だった。
「わあ辛辣」
伊織は怒るより困惑が強かったので、怒る内容だったんだなと花を見て思った。
盛大な舌打ちまでした花は落ち着くように嘆息して、普段から伸びている背筋を正した。
「じゃああんたはオメガだったということなんだね?」
「そうみたい。実感ないけど」
「そうだろうね」
どこか同情するような眼差しだ。
「それで作家のリルト・クランベルがマッチング相手?」
確認する花に、伊織はこっくりと深く頷いた。
「そうなんだよ。俺も驚いた」
「親日家とは思ってたけど、日本に住んでたとはねえ」
「大学出てからずっと日本だって。日本語ペラペラだった」
「おかしな縁もあるもんだね。それでどうだった?」
ベッド横の椅子に座っている花の前で、ベッドの端に腰掛けたままぷらりと伊織は足を小さく揺らした。
思い返すのは、しゅんとする幻覚犬耳の見える顔だ。
「子犬みたい?」
「なんだいそりゃあ」
「ものすごく美形で背もたっかいんだけど、なんか可愛い人だった」
伊織の感想に、花はあからさまに眉を寄せた。
伊織の感想ではリルトの人物像がうまく浮かばないようだ。
「大の男の評価が可愛いかい」
「可愛かったんだもん」
それは事実だから仕方がないと唇を尖らせれば、肩をすくめられてしまった。
「まあ悪くない人物なら、よかったじゃないか」
「確かに」
脳裏に尻尾を振っているような幻覚のリルトを思い出す。
しゅんとしてるのは子犬っぽいけど、それ以外もうっかり可愛く見えてしまったなと思う。
(確かに大人の男を可愛いとか子犬は失礼かな?いやでも可愛かったしな)
それは事実だから仕方がない。
「結婚相手の候補みたいなもんだって言われても、好きな人出来たことないから不思議」
「物理的に人間関係遠ざけられてきたからね」
そうなのだ。
爽子は花以外は大人だろうが子供だろうが、伊織に人が近づくのを許さなかった。
今思えばベータで初老の女だった花が伊織に近づいても、オメガ性に関係ないと思われていたのだろう。
「あんたはあの女のせいでちょっと世間とはズレてるんだ」
「ズレてるの俺」
衝撃の事実だ。
そんなこと思った事もなかった。
「そのうえオメガなら、しっかりしたアルファに守られるのもありだよ」
「守られる……」
今まで庇護してくれたのは花だけなので、いまいちピンとこなかった。
ぼんやりオウム返しをすれば、じろりと睨まれる。
「今まで一人だったからって、これからも一人でいなきゃいけないわけじゃない」
「花ちゃんは一人じゃん」
「おだまり。私は趣味が忙しかっただけだよ」
多趣味で色恋より趣味だとハッキリしていた花は出会った頃から一貫している。
変わらないなと伊織はくすくすと笑った。
そして花に言われた内容を考えてみる。
確かに花以外と関りのない人生だ。
おまけにオメガなんて事実も発覚してしまった。
正直今までと同じ生活は無理だろうなというのは、わかる。
「吐き気も薬のせいだったんだろう?」
「うん、薬抜ければ収まるはずだって」
あからさまに花の眉間に皺が寄った。
「本当にふざけた女だね。ああ、バイトは連絡いれたから気にしなくていいよ。向こうも療養を優先しろだとさ」
それにほっと息を吐いた。
バイト先を紹介してくれたのは花だ。
バイト先の店主たちの言葉に、ありがたいなと安心した。
そんなことを考えていると、そうだこれと言って花が紙袋を渡してきた。
「着替え買ってきたよ」
「ありがと。通帳戻ってきたから退院したら払うね」
紙袋を受け取りぽんとベッド上に置くと、花にふんと鼻を鳴らされた。
「いらないよ。しかし連絡とれないのは不便だね」
「うーん確かに」
今まで実はスマホを持っていなかった。
ネットなんかをさせたくなかったらしい爽子の猛反発にあったのだ。
連絡を取る友人もいなかったから、まあいいかできてしまった。
退院後は決まっていないけれど、母と住むことはもうないだろうと思っている。
なので新しく契約しなければだった。
「退院したらスマホ買わなくちゃ」
「まあ体調よくなったら外出許可出るんじゃないかい」
「そうだね」
スマホはとりあえずは買う予定だ。
今日はリルトとの二回目の面会日だ。
つい今しがた隣に座っているリルトが蓋を取ったタッパーの中には小さな丸い容器に入ったゼリーが四つ入っていた。
色味と匂いでそれが苺と蜜柑だとわかる。
ゼリーは小さくて二口程度で食べれる大きさだ。
「これって……」
「ゼリーなら食べられないかと思って。この量なら負担にならないかなと」
今日はラフにセーターとジーンズのリルトが、少し眉を下げて笑う。
会った時に初日とは違う服装をマジマジと見れば、初対面だから気合を入れたと言われて笑ってしまった。
可愛いとうっかり思ってしまったのは内緒だ。
それにしても、どう見ても家庭用のタッパーだし、取り出したのも家庭用の保冷バックだった。
「もしかして、手作り?」
「そう、まだ冷たいからよかったら」
手作りを持ってきてくれるとは思わなかった。
ぽかんとゼリーを見つめてしまう。
「俺なんかにわざわざすみません」
ふいに右手を取られた。
顔を上げたら、リルトの真剣な眼差しが見つめてくる。
「なんかじゃない」
じっと紺碧の瞳に見つめられて、どう答えたらいいかわからなくて伊織は視線をそらした。
そういう言葉は慣れていない。
花も小さい頃は何度か言っていたけれど、いちいち気遣わなくていいと言ったら言わなくなった。
「作れるなんて凄いね」
どうにか話をそらしたくてゼリーの話題を振ると、手を離されてほっとした。
「料理は結構必死で覚えたから」
一人暮らしなのだろうと思う。
アメリカから来たと言っていたから、食文化が違って大変だったのかなと考えた。
もしくは食べるのが大好きか。
「努力家なんだ」
関心すると、リルトが一瞬キョトンとしてからふっと笑った。
思わずといったように。
「そんなんじゃないよ。オメガに会えたとき、やってあげたいことを妄想してたら出来るようになりたくなった」
「妄想って」
「妄想だな」
直球な言葉に噴き出すと、伊織はくすくすと笑った。
(なんか本当この人、可愛く思っちゃうな)
こんな整った大人の男が堂々と妄想を元に頑張ったなんて、おかしくて仕方がない。
「リルの本は知り合いがファンで何冊か読んだんだ」
「そうか、嬉しいな」
パアッと顔を明るくさせたリルトは金髪のせいもあって、さながら尻尾を大きく振っているゴールデンレトリバーに見える。
「恋愛ものとかもあったけど、もしかしてそれも?」
「それは半分はやってみたいことの妄想だな」
「あはは!そうなんだ」
神妙な顔で頷くものだから、とうとう伊織は声を上げて笑ってしまった。
(こんな百戦錬磨みたいな見た目してるのに!しかもそれ言っちゃうところが、ちょっと残念な人だな)
笑う伊織に気分を害したふうもなく、リルトは脇に避けていた保冷バッグから小さなスプーンを取り出した。
用意がいい。
スプーンを渡されるのかと思ったら、それを右手に持ったままリルトは蜜柑のゼリーの容器をひとつ手に取った。
ぷるりとしたそれをスプーンで小さく掬い上げる。
そのまま口元に運ばれてしまった。
「ほら」
「え!自分で」
「駄目、したい」
「小さい子じゃないんだから」
拒否をすると、目に見えてシュンとされてしまった。
「アルファの給餌は求愛行動だよ。駄目?」
くうんと鳴き声が聞こえてきそうだ。
ついでにヘタレた犬耳の幻覚が見える。
うっと伊織は動揺した。
さっきまでゴールデンレトリバーだったのに、一瞬で子犬になるなんて何なんだと。
ちょんとゼリーの乗ったスプーンで唇を小さく突かれると、まあいいかと思ってしまい口を開いてしまった。
途端、リルトの顔に満面の笑みが広がる。
(くっ、ほだされる)
初対面からほだされている自覚はあるけれど、ちょっと悔しい。
口に入れたゼリーはまだ冷たい。
つるりとしたほどよい蜜柑の甘味は、吐き気を誘うことはなかった。
「美味しい」
「よかった、吐き気は?」
「今のところ平気」
結局嬉し気なリルトに給餌されたまま蜜柑と苺をひとつずつ食べてしまった。
恥ずかしいことこのうえないけれど、他人の目がないからいいかと開き直った。
「残りは夜にでも食べて。容器は洗わずに返してくれていいから」
「ありがとう、美味しかった」
「どういたしまして」
食事をしたのに吐き気がないことに伊織は機嫌がよかった。
まだ普通の食事は食べるのが結構大変なのだ。
けれどゼリーは少量だったのもあり、美味しく食べられた。
手作りだと思うと、ほんのり胸が温かくなる。
タッパーに蓋をして保冷バッグに戻してしまうと、じっとリルトは伊織を見つめた。
その視線の先は顔ではなく、首元を見ている。
「前回はまったくしなかったけど、少しだけフェロモンが出てきたな」
「フェロモン?俺出してるの?」
思わぬ言葉に伊織はパチパチとまばたきを繰り返した。
首元を見ていたのはそれでだろうかと、なんとなく首筋に手をやっても自分では何もわからないし、それらしい匂いも感じない。
「本来ならつねに出てるものだよ。今は淡い花のような香りがうっすらしてる」
「してるんだ」
「うん、ほんのごくわずか。多分治療が進んだらちゃんと香るよ。投薬予定だったよね?」
治療方針を思い出しながら、そうだったなと頷く。
「抑制剤ある程度抜けたら、治療用の薬飲むって言ってた。リルもフェロモン出してるの?」
「出してるよ」
出してるのか。
スンスンと鼻を鳴らしてみたけれど、それらしい匂いはまったくしない。
そもそもフェロモンとはどんなものかも知らないけれど。
「俺のも治療が進めば感知できるようになるよ」
「そうなんだ」
そういうものなのかと思っていると、望月が衝立から出てきた。
時間らしい。
そのままリルを見送ったあと自分も病室に帰る途中、手に持った保冷バッグを見下ろした。
まだゼリーが二つ、中に入っている。
「花ちゃん以外にこんなことしてもらうの、はじめてだ」
なんだかソワソワしてしまう。
それは嬉しさなのか申し訳なさなのかは、ちょっとよくわからない。
でも、大事に食べたいと思っている。
「わざわざ作ってくれたんだよな」
伊織はそっと保冷バッグを胸に抱えた。
翌日、面会に花が来てくれた。
ベータの女性なので面会許可が下りたらしい。
「心配させるんじゃないよ」
フンと気の強そうな顔で言い放たれる。
目の前で倒れたから心配させただろうなと申し訳なく思いながら、伊織はベッド横の椅子に座るよう促した。
「ごめん。でも俺のせいじゃないよ、大元は母さんだから」
「どういうことだい」
椅子に座った花が眉を寄せる。
花は爽子にいい感情を持っていない。
怒るかなと思いながらも望月や日下部から聞いた話を説明すると。
「あのクソ女!」
見事な罵り具合だった。
「わあ辛辣」
伊織は怒るより困惑が強かったので、怒る内容だったんだなと花を見て思った。
盛大な舌打ちまでした花は落ち着くように嘆息して、普段から伸びている背筋を正した。
「じゃああんたはオメガだったということなんだね?」
「そうみたい。実感ないけど」
「そうだろうね」
どこか同情するような眼差しだ。
「それで作家のリルト・クランベルがマッチング相手?」
確認する花に、伊織はこっくりと深く頷いた。
「そうなんだよ。俺も驚いた」
「親日家とは思ってたけど、日本に住んでたとはねえ」
「大学出てからずっと日本だって。日本語ペラペラだった」
「おかしな縁もあるもんだね。それでどうだった?」
ベッド横の椅子に座っている花の前で、ベッドの端に腰掛けたままぷらりと伊織は足を小さく揺らした。
思い返すのは、しゅんとする幻覚犬耳の見える顔だ。
「子犬みたい?」
「なんだいそりゃあ」
「ものすごく美形で背もたっかいんだけど、なんか可愛い人だった」
伊織の感想に、花はあからさまに眉を寄せた。
伊織の感想ではリルトの人物像がうまく浮かばないようだ。
「大の男の評価が可愛いかい」
「可愛かったんだもん」
それは事実だから仕方がないと唇を尖らせれば、肩をすくめられてしまった。
「まあ悪くない人物なら、よかったじゃないか」
「確かに」
脳裏に尻尾を振っているような幻覚のリルトを思い出す。
しゅんとしてるのは子犬っぽいけど、それ以外もうっかり可愛く見えてしまったなと思う。
(確かに大人の男を可愛いとか子犬は失礼かな?いやでも可愛かったしな)
それは事実だから仕方がない。
「結婚相手の候補みたいなもんだって言われても、好きな人出来たことないから不思議」
「物理的に人間関係遠ざけられてきたからね」
そうなのだ。
爽子は花以外は大人だろうが子供だろうが、伊織に人が近づくのを許さなかった。
今思えばベータで初老の女だった花が伊織に近づいても、オメガ性に関係ないと思われていたのだろう。
「あんたはあの女のせいでちょっと世間とはズレてるんだ」
「ズレてるの俺」
衝撃の事実だ。
そんなこと思った事もなかった。
「そのうえオメガなら、しっかりしたアルファに守られるのもありだよ」
「守られる……」
今まで庇護してくれたのは花だけなので、いまいちピンとこなかった。
ぼんやりオウム返しをすれば、じろりと睨まれる。
「今まで一人だったからって、これからも一人でいなきゃいけないわけじゃない」
「花ちゃんは一人じゃん」
「おだまり。私は趣味が忙しかっただけだよ」
多趣味で色恋より趣味だとハッキリしていた花は出会った頃から一貫している。
変わらないなと伊織はくすくすと笑った。
そして花に言われた内容を考えてみる。
確かに花以外と関りのない人生だ。
おまけにオメガなんて事実も発覚してしまった。
正直今までと同じ生活は無理だろうなというのは、わかる。
「吐き気も薬のせいだったんだろう?」
「うん、薬抜ければ収まるはずだって」
あからさまに花の眉間に皺が寄った。
「本当にふざけた女だね。ああ、バイトは連絡いれたから気にしなくていいよ。向こうも療養を優先しろだとさ」
それにほっと息を吐いた。
バイト先を紹介してくれたのは花だ。
バイト先の店主たちの言葉に、ありがたいなと安心した。
そんなことを考えていると、そうだこれと言って花が紙袋を渡してきた。
「着替え買ってきたよ」
「ありがと。通帳戻ってきたから退院したら払うね」
紙袋を受け取りぽんとベッド上に置くと、花にふんと鼻を鳴らされた。
「いらないよ。しかし連絡とれないのは不便だね」
「うーん確かに」
今まで実はスマホを持っていなかった。
ネットなんかをさせたくなかったらしい爽子の猛反発にあったのだ。
連絡を取る友人もいなかったから、まあいいかできてしまった。
退院後は決まっていないけれど、母と住むことはもうないだろうと思っている。
なので新しく契約しなければだった。
「退院したらスマホ買わなくちゃ」
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