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第1話 狐塚町にはあやかしが住んでいる

01-6.

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 丸みを帯びたその身体を見て、旭は、右手を差し出した。

 その手を不思議そうに見つめる老婆は、小さく、笑い声を零した。

 それは、理解をすることが出来ずに、戸惑っているかのような音をしていた。

「そうかい、そうかい。その子がおらねば、芦屋は消えてしまうのかい?」

 差し出された手を見つめて不思議そうな顔をしている老婆を見て、旭は笑いながら、残念だと口にする。

 その笑い声は、頭に残る不思議な声だった。

(芦屋の油揚げを食せぬ日が来るのは、哀しいよな)

 旭の笑い声と共に鈴の音が響く。

 心を洗う綺麗な音色を耳にした老婆は、信じられないものを見たかのように眼を見開いた。それから、何度も瞬きをする。

(これも時の流れ。しかし、悔やまれる)

 鈴の音が鳴り響く。

 その音を耳にした老婆は、不思議そうに見つめていた旭の右手に手を伸ばす。

 恐る恐るではあったものの、確実に距離は縮まっていく。

「……もしや、お兄さんは……」

 何処からか鳴り響く鈴の音に、心当たりがあるのだろうか。

 差し出された手に触れた老婆は、小さな声を漏らした。

 その声は、今まで忘れていた大切な記憶を思い出したかのような嬉しそうな声とも、信じられないものを見た後のような驚いた声にも取れる。

(見せておくれ。時の流れを)

 そんな老婆の声に気付くこともなく、旭は、重なった手の体温を感じる。

 温かみの感じる事が出来るそれに、笑みを零す。

(芦屋の娘。いつの間に歳を喰ったものよ)

 皺のある少しだけ固い老婆の掌を包み込むように、旭の左手を乗せる。

 それから、旭は、静かに眼を閉じた。

(あれほどに美しい娘であったというのに)

 傍においてもいいと思ったことを思い出す。

 戯れで助けの手を伸ばし、己の姿を見えなくなってからは声をかけることを止めた。それから何十年と月日が流れていたのだろう。

(惜しい存在よ。あれを食せぬ日は、哀しい)

 未だに思うのは、最愛ともいうべき好物である油揚げのことであった。
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