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誠実とは陽炎のように
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金がない。
向う見ずで一直線なのは相変わらずのまま、春夏は成長してしまった。
服に金を使い、学校の友達とカラオケを4時間楽しみ、スターバックスで新作が出たフラペチーノを写真に収めた瞬間、我に返った。そのすっきりとした財布の細身な姿に疑問を持った時には既に遅く、中身は英世が1枚しかない悲惨なものとなっていた。小遣いは一昨日貰ったばかりで、先月の前借り分を2000円返済している。前借り分はなんと3回にも達し、返済の目処は立たない。母親も返済してもらう気は無いが、今月分の小遣いを渡された時に今後の前借りは一切ないと釘を刺されている。
額に脂汗が流れた。次月には夏の締めくくりをディズニーで過ごすことを約束している。小遣いは今月で520円、来月分と併せて5520円。親にも学校にも内緒でやっているバイトは知人の引越し手伝い程度で、しょっちゅう入れる訳でもないので、せいぜい10000円程度。
ーー通信料と交通費を引くと、到底足りない。
描いていたビジョンが崩れ、視界が少し回るのを感じた。
どうしてこんなにも反省がないのだろう、と、やっと彼女は自分を恨んだ。泣き喚きたい気分だった。誰か助けて欲しいという目線を周りにやれば、目が合ったスーツの男性からふいと目線をそらされた。やがてじんわりと広がる視界に恥ずかしさを感じ、足早に帰りの電車に乗り込んだ。
香水とダウニーのきつい化学の匂いがする隣の女に吐き気を催しながらスマホを眺める。YouTubeはどれも似たようなサムネイルで、特に興味をそそられなかったが、適当に開いた動画の広告にスワイプしかけた指をとめた。
「簡単に稼げる!女性ならではの即日3万円!」
眉をひそめた。こんなのは馬鹿でもわかる。隣のクラスの派手女が密かにやっていたと言われるパパ活とやらでしょ。
鼻で笑いかけて、それでも3万円の離れ難い誘引に釣られて広告をクリックした。
思ったより綺麗なサイトに、男性とお食事で1万円という内容をスクロールして、掲載してある身なりを整えたスーツの男性に目が止まった。
汚いおっさんならまだしも、これならアリかもしれない。登録のページで身分証の提示を求められたが、幸い、家には大学を卒業して家にもう居ない姉の学生証がある。
1万円だ。人とご飯を食べるだけで1万円。
目が冴えてきた春夏は、驚くべき早足で帰路に着き、家の扉を乱雑に開けて階段を駆け上がり、学生証を探した。問題なくそれは見つかり、素早く写真に収めて送ると、メールが返ってきて無事登録出来たことを確認した。
サイトの中身は、外見ほど綺麗な書き込みだけではなかった。「ご飯。1から」と簡素なものもあれば、「大人の関係3-5」という、いかにもな書き込みまで様々だった。綺麗に加工した写真から、高級車だけを撮したアイコンや、家の裏で撮ったのかと言いたくなるような適当な自画撮りもあった。中には、使用済み下着やタンポンなど、目を疑うような強烈な書き込みまであった。
前髪を整え、軽くメイクをする。アイコンの写真は人に興味を持たせる重要な要素であると、春夏はインスタグラムの経験からそれを学んでいた。まつ毛を上げ終えて写真を軽く加工すれば、誰かに写真を見られても他人の空似とギリギリ言い訳がつく程度のものが出来上がった。
アイコンを登録し終えると、すぐさま何人かの男性から声がかかった。可愛いですね、や、今暇?などといった在り来りな無礼が殆どであった。アリオカという男のメッセージを最後に開く。思ったより文章に溢れていて、面を食らった。
「初めまして。
突然メッセージの方失礼します。
大きな目元に惹かれ、ぜひお会いしたいと思いました。
もし可能でしたら、こちらが日付を合わせますので、会える日時を送って頂けませんでしょうか。
車を所持していますが、いきなり男性の車に乗るのは怖いと思いますので、交通費を先にお支払いする形でも可能です。
食事やその他、途中で買い物をした費用などは全てこちらが負担します。
お待ちしております」
大きな目元を見てくれたという喜びと、下手に出られた事の優越に春夏はにんまりと笑みを浮かべた。
それから少し悩んでは文を書いて直し、書いては直しを繰り返して、送った文章のやり取りは20回にも及んだ。すぐ返される返信は気持ちが良かったし、嫌悪や不快感が一切なかった。
彼女は明後日、午後3時に、と送り、浮ついた気分のまま夏休みの2日目を終えた。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
駅から降りれば、照り返しが顔に刺さった。
姉の置いていった服から拝借した薄手のワンピースは、地面から登る暑さで少し揺れた。
駅前のロータリーは日傘をさす婦人や、手持ちタイプの扇風機の学生らしき姿がちらほらと見受けられたが、酷暑のせいか人は疎らだった。
駅前のカフェで待ち合わせとの事だったので向かうと、逆にそこは人で溢れていた。僅かな涼しさを求めてひしめき合う姿は、餌を求めて群れる鶏のように騒がしかった。
「アリオカさん」
青いスーツの男性の席の前まで行き、呼びかける。スマホを弄っていた男性はパッと顔を上げ、上品に微笑んだ。
「ハルっちさんですか」
ハルっちというのは、小学校の時に付けられたあだ名だ。その名前で人から呼ばれるのは久しぶりだと懐かしい気分になりながら、対面に座った。
アイコンの写真通りの顔立ちで、プロフィール通りの35歳のように見えた。
「コーヒーは飲めると聞いていたので。勝手だけれどもアイスカフェオレを頼んでおきました」
「わ、すごい。そんなことまで覚えてるなんて」
すぐさま口をつける。もし悪戯で、全然違う人間がいたらどうしようと急に不安になって口が乾いていたから、砂漠が水を吸い込むようにカフェオレは氷だけを残してすぐさま消えた。
「もう一杯貰いましょうか」
「ごめんなさい、すごくいじきたなく見えましたよね」
ハハ、と一笑に付し、呼び出しボタンを押す。腕時計は銀色に光る、自分の父が着けているものと一瞬同じかと思ったが、ロレックスの文字に胸を高鳴らせた。
「この後はどうしたいですか?何も無ければ、夕ご飯の前に、少し寄りたい所があるんです」
春夏は頷いた。そういう計画を立てるのは昔から苦手だったから、今日も何も考えていなかった。
2杯のコーヒーと、ケーキを消費し終え、春夏は彼の後をカルガモのようについて行った。
通りを少し歩く。並木の道は明らかに自分の住む世界とは違う。坂が続くこの道は、馬鹿な自分でも知っているようなハイブランドの名前ばかりだった。
スマホをかざして入場を済ませ、長いエレベーターを登る。一緒に乗ってきた男女のカップルは、アンバランスな自分たちを一瞬見たが、すぐに自分たちの世界へと帰って行った。
展望台で少し日が暮れてきた世界を見下ろすと、自分のことなど全て忘れて地上の星屑となるもの達を眺めた。
アリオカはその様子をしばらく眺めていたが、電話でもかかってきたのか、ごめん、といい中座したあと、直ぐに戻ってきた。
春夏は、画面が切り替わる前の一瞬、ガラスに反射したアリオカの待機画像を見た。そこには、一人の女性と、子供と、アリオカ自身の姿があった。
ーーあれ。聞いてないけどな。
春夏はひりつく何かを憶えた。しかし何事も無かったかのように、おかえりをひり出して、展望台のガラスから顔を離した。
「ハルっちさん、この後暇ですよね」
確信じみた答えにぎくりと身体を震わせる。冷房のせいでは無い何かうすら寒いものを感じて、春夏は身構えた。
「これは、今日のご飯代の1万円で」
春夏の手の中に、ピンとした1万円を握らせた。そして、アリオカは更にその上に3万円を足した。
「大人して頂けたら、3万円いかがでしょうか。前払いで」
全身が総毛立つのを感じた。
この男は何を言っている?妻帯持ちであることを隠し、子持ちであることを隠し、更にセックスをするなら3万円?
アリオカの手がじっとりと湿っているように感じ、春夏は突き返すようにして4万円全てをアリオカに返した。が、アリオカは2万円を渡してこう言った。
「分かった。足した1万円は帰りの交通費でいいから。気をつけて帰ってね。また今度」
あっさりと解放されたことに唖然としながら、春夏は去っていくアリオカの背広姿を、ただ呆然と眺めていた。
その後、どうやって帰ったか覚えていない。
ただ、布団にくるまっていたら、自然と涙が出てきたのは覚えていた。
あの日以来、サイトは触っていない。
誰かからの書き込みは、あるかもしれないが。
《終》
向う見ずで一直線なのは相変わらずのまま、春夏は成長してしまった。
服に金を使い、学校の友達とカラオケを4時間楽しみ、スターバックスで新作が出たフラペチーノを写真に収めた瞬間、我に返った。そのすっきりとした財布の細身な姿に疑問を持った時には既に遅く、中身は英世が1枚しかない悲惨なものとなっていた。小遣いは一昨日貰ったばかりで、先月の前借り分を2000円返済している。前借り分はなんと3回にも達し、返済の目処は立たない。母親も返済してもらう気は無いが、今月分の小遣いを渡された時に今後の前借りは一切ないと釘を刺されている。
額に脂汗が流れた。次月には夏の締めくくりをディズニーで過ごすことを約束している。小遣いは今月で520円、来月分と併せて5520円。親にも学校にも内緒でやっているバイトは知人の引越し手伝い程度で、しょっちゅう入れる訳でもないので、せいぜい10000円程度。
ーー通信料と交通費を引くと、到底足りない。
描いていたビジョンが崩れ、視界が少し回るのを感じた。
どうしてこんなにも反省がないのだろう、と、やっと彼女は自分を恨んだ。泣き喚きたい気分だった。誰か助けて欲しいという目線を周りにやれば、目が合ったスーツの男性からふいと目線をそらされた。やがてじんわりと広がる視界に恥ずかしさを感じ、足早に帰りの電車に乗り込んだ。
香水とダウニーのきつい化学の匂いがする隣の女に吐き気を催しながらスマホを眺める。YouTubeはどれも似たようなサムネイルで、特に興味をそそられなかったが、適当に開いた動画の広告にスワイプしかけた指をとめた。
「簡単に稼げる!女性ならではの即日3万円!」
眉をひそめた。こんなのは馬鹿でもわかる。隣のクラスの派手女が密かにやっていたと言われるパパ活とやらでしょ。
鼻で笑いかけて、それでも3万円の離れ難い誘引に釣られて広告をクリックした。
思ったより綺麗なサイトに、男性とお食事で1万円という内容をスクロールして、掲載してある身なりを整えたスーツの男性に目が止まった。
汚いおっさんならまだしも、これならアリかもしれない。登録のページで身分証の提示を求められたが、幸い、家には大学を卒業して家にもう居ない姉の学生証がある。
1万円だ。人とご飯を食べるだけで1万円。
目が冴えてきた春夏は、驚くべき早足で帰路に着き、家の扉を乱雑に開けて階段を駆け上がり、学生証を探した。問題なくそれは見つかり、素早く写真に収めて送ると、メールが返ってきて無事登録出来たことを確認した。
サイトの中身は、外見ほど綺麗な書き込みだけではなかった。「ご飯。1から」と簡素なものもあれば、「大人の関係3-5」という、いかにもな書き込みまで様々だった。綺麗に加工した写真から、高級車だけを撮したアイコンや、家の裏で撮ったのかと言いたくなるような適当な自画撮りもあった。中には、使用済み下着やタンポンなど、目を疑うような強烈な書き込みまであった。
前髪を整え、軽くメイクをする。アイコンの写真は人に興味を持たせる重要な要素であると、春夏はインスタグラムの経験からそれを学んでいた。まつ毛を上げ終えて写真を軽く加工すれば、誰かに写真を見られても他人の空似とギリギリ言い訳がつく程度のものが出来上がった。
アイコンを登録し終えると、すぐさま何人かの男性から声がかかった。可愛いですね、や、今暇?などといった在り来りな無礼が殆どであった。アリオカという男のメッセージを最後に開く。思ったより文章に溢れていて、面を食らった。
「初めまして。
突然メッセージの方失礼します。
大きな目元に惹かれ、ぜひお会いしたいと思いました。
もし可能でしたら、こちらが日付を合わせますので、会える日時を送って頂けませんでしょうか。
車を所持していますが、いきなり男性の車に乗るのは怖いと思いますので、交通費を先にお支払いする形でも可能です。
食事やその他、途中で買い物をした費用などは全てこちらが負担します。
お待ちしております」
大きな目元を見てくれたという喜びと、下手に出られた事の優越に春夏はにんまりと笑みを浮かべた。
それから少し悩んでは文を書いて直し、書いては直しを繰り返して、送った文章のやり取りは20回にも及んだ。すぐ返される返信は気持ちが良かったし、嫌悪や不快感が一切なかった。
彼女は明後日、午後3時に、と送り、浮ついた気分のまま夏休みの2日目を終えた。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
駅から降りれば、照り返しが顔に刺さった。
姉の置いていった服から拝借した薄手のワンピースは、地面から登る暑さで少し揺れた。
駅前のロータリーは日傘をさす婦人や、手持ちタイプの扇風機の学生らしき姿がちらほらと見受けられたが、酷暑のせいか人は疎らだった。
駅前のカフェで待ち合わせとの事だったので向かうと、逆にそこは人で溢れていた。僅かな涼しさを求めてひしめき合う姿は、餌を求めて群れる鶏のように騒がしかった。
「アリオカさん」
青いスーツの男性の席の前まで行き、呼びかける。スマホを弄っていた男性はパッと顔を上げ、上品に微笑んだ。
「ハルっちさんですか」
ハルっちというのは、小学校の時に付けられたあだ名だ。その名前で人から呼ばれるのは久しぶりだと懐かしい気分になりながら、対面に座った。
アイコンの写真通りの顔立ちで、プロフィール通りの35歳のように見えた。
「コーヒーは飲めると聞いていたので。勝手だけれどもアイスカフェオレを頼んでおきました」
「わ、すごい。そんなことまで覚えてるなんて」
すぐさま口をつける。もし悪戯で、全然違う人間がいたらどうしようと急に不安になって口が乾いていたから、砂漠が水を吸い込むようにカフェオレは氷だけを残してすぐさま消えた。
「もう一杯貰いましょうか」
「ごめんなさい、すごくいじきたなく見えましたよね」
ハハ、と一笑に付し、呼び出しボタンを押す。腕時計は銀色に光る、自分の父が着けているものと一瞬同じかと思ったが、ロレックスの文字に胸を高鳴らせた。
「この後はどうしたいですか?何も無ければ、夕ご飯の前に、少し寄りたい所があるんです」
春夏は頷いた。そういう計画を立てるのは昔から苦手だったから、今日も何も考えていなかった。
2杯のコーヒーと、ケーキを消費し終え、春夏は彼の後をカルガモのようについて行った。
通りを少し歩く。並木の道は明らかに自分の住む世界とは違う。坂が続くこの道は、馬鹿な自分でも知っているようなハイブランドの名前ばかりだった。
スマホをかざして入場を済ませ、長いエレベーターを登る。一緒に乗ってきた男女のカップルは、アンバランスな自分たちを一瞬見たが、すぐに自分たちの世界へと帰って行った。
展望台で少し日が暮れてきた世界を見下ろすと、自分のことなど全て忘れて地上の星屑となるもの達を眺めた。
アリオカはその様子をしばらく眺めていたが、電話でもかかってきたのか、ごめん、といい中座したあと、直ぐに戻ってきた。
春夏は、画面が切り替わる前の一瞬、ガラスに反射したアリオカの待機画像を見た。そこには、一人の女性と、子供と、アリオカ自身の姿があった。
ーーあれ。聞いてないけどな。
春夏はひりつく何かを憶えた。しかし何事も無かったかのように、おかえりをひり出して、展望台のガラスから顔を離した。
「ハルっちさん、この後暇ですよね」
確信じみた答えにぎくりと身体を震わせる。冷房のせいでは無い何かうすら寒いものを感じて、春夏は身構えた。
「これは、今日のご飯代の1万円で」
春夏の手の中に、ピンとした1万円を握らせた。そして、アリオカは更にその上に3万円を足した。
「大人して頂けたら、3万円いかがでしょうか。前払いで」
全身が総毛立つのを感じた。
この男は何を言っている?妻帯持ちであることを隠し、子持ちであることを隠し、更にセックスをするなら3万円?
アリオカの手がじっとりと湿っているように感じ、春夏は突き返すようにして4万円全てをアリオカに返した。が、アリオカは2万円を渡してこう言った。
「分かった。足した1万円は帰りの交通費でいいから。気をつけて帰ってね。また今度」
あっさりと解放されたことに唖然としながら、春夏は去っていくアリオカの背広姿を、ただ呆然と眺めていた。
その後、どうやって帰ったか覚えていない。
ただ、布団にくるまっていたら、自然と涙が出てきたのは覚えていた。
あの日以来、サイトは触っていない。
誰かからの書き込みは、あるかもしれないが。
《終》
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