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黒鳥の湖
30
しおりを挟む小石はこの部屋に入ってはいけないと言う決まりのせいか、扉に縋りつくようにしてそこからオレを手招いた。
「どうした?」
この小石は、今はオレの代わりに蛤貝についているはずだ。
何か問題でも起こったのかと駆け寄ると、キョトンとした顔で小首を傾げる。
「にぃさん?」
「どうした?何かあったんだろ?」
視線を合わせるためにしゃがみ込むと、更に首が斜めになり、黒い切りそろえられた髪がそれにつれてさらりと音を立てた。
「よんだんは、なちぐろにぃさんでしょ?」
「え?」
「なちぐろにぃさんがごようじあるって」
さらにきょとんと、首を反対に傾げる。
「 」
普通、来客控えの人間を呼び出すことなんかない。
その隙に何かあったら一大事だからで……
「誰が呼んで来いって?」
「うすずみにぃさんよ?」
その返事はあまりにも他意がなくて、あまりにも無邪気で、薄墨の言葉に何の疑いも持っていないのは明白だった。
吸い込んだ息が肺の奥にしがみついて吐き出せない。
嫌な予感が汗を吹き出させるのにどうにもできない感覚に、みぞおちからムカムカとした嫌な物がせり上がってくるような気配がした。
あれほど走るなと言い聞かされていたし、自身も徹底していたと言うのにそんな躾がなかったかのように飴色の廊下を駆け抜ける。
長く続く廊下の先に……
細い薄墨の姿を確認した途端、何かが起こったのが分かった。
何故なら、こちらを向いた細い面が喜色満面の笑みを浮かべていたから……
ひく ひく と震える肩に手を添えて、掛ける言葉を探している最中にそれが嗚咽でないことに気が付いた。
「 っ っ ふ、 ふふ」
伸ばした指が震えて、その笑い声に開きかけた口を引き結んだ。
「ふふ 」
「何を……笑ってるの……」
指同様震えた声が面白かったらしく、蹲る蛤貝はまた肩を揺らす。
床に広がった帯紐、
乱れた着物、
そして、赤い筋を残す蛤貝の首筋。
冷たい氷を飲み込んだような気分に、オレは茫然とするしか出来なかった。
時宝が到着したと連絡を受けた時、指先から血の気が失せてもう少しで受話器を取り落とす所だった。
なんとか震えながら受話器を戻すオレの視界の端に、薄く紅を刷いた蛤貝の唇が見える。
「蛤貝……今ならまだ、間に合う……」
新枕の日のための特別な衣装を身に着けた蛤貝は、普段とは違う化粧のせいか神々しくさえ見えるのに、オレを見る目はどこか遠くて侮蔑的だ。
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