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雪虫
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しおりを挟む保冷剤がありがたいと思えるのは、大神にぶっ飛ばされたから。
辛うじて腕で止めたけれど、重い蹴りが止まってくれるわけもなく、しっかり入った蹴りに体は浮いて生垣に突っ込んでしまった。
「しずる?しずる?」
「うん?」
「ケガしてない?」
板を隔てた向こうで、雪虫は泣きそうだ。
そりゃそうか……派手に吹っ飛んだところを見られたんだから。
「怪我は 大丈夫。……雪虫は?怪我の具合どうだ?」
「ケガ?」
「この前 オレがさせたって。謝ってなかったから……ごめん」
ことん とドアの向こうで音がする。
「しずるがくれるものなら、なんでも嬉しい」
「怪我は 駄目だろ」
「それも、嬉しい」
見えないはずなのに、なんとなく笑ってるんだろうなってイメージができて、そっか とだけ返してこの話題は切り上げた。
「大神ひどいからカタキとるよ、びゅんびゅんって!」
「びゅんびゅん?」
雪虫に仇を取ってもらう なんてことになったら、ホント情けなさで死ぬかもしれない。
「しずるが守ってくれるから、だから守るよ」
そうだな、雪虫がいてくれるなら、すべてのことが頑張れそうな気がしてくる。
「ありがとうな」
雪虫の匂いが鼻を擽って……
「 会いたいなぁ」
「うん 」
ドアに取り付けられている鍵を見て、針金でなんとかなるんじゃなかろうかと思い、鍵穴を指先で探る。
入り口を見ただけで合鍵を作る話を聞いたことがあったけれど、そんな特技でもあれば雪虫に会えたのかと馬鹿馬鹿しいことまで思ってしまって。
でもこんな思考に陥ってる段階で、きっと自分を抑え切れてないんだろう。
傷つけるのだけは、勘弁だ。
「 ?」
とんとんとん と軽い足取りなのはセキだ。
ひょこ と階段からご機嫌そうな顔を出して、保冷剤を替えるか聞いてきた。
「いや、まだ大丈夫」
大神の蹴りを咄嗟に受けてしまった左腕に当てた大きめの保冷剤を、ぐにぐにと揉んで中身がまだ凍っているのを確認する。
「じゃあ夕飯できたら呼ぶね」
「あ、オレも手伝うよ」
立ち上がろうとしたオレを身振りで再び座るように促し、
「少しでも傍にいてあげて」
そう言って笑った。
お言葉に甘えて扉の前に座り直すと、ことんと音がした。
「まだいてもいいの?」
「うん」
空気が動いたから、雪虫の匂いが濃くなって。
「ここで布団敷いて寝ようかな」
「そしたら、ずっとこうやってられる?」
「雪虫はベッドで寝なきゃだろ」
ベッドは扉から離れていて、そこに寝てしまうと会話もままならないだろう。落ち込んだ気配に、調子を合わせるべきだったかと肩を落とした。
落ち込ませたいわけじゃなくて、雪虫の体が心配で出た言葉だったのだけれど……
「 」
「 ねぇ 絵本、聞きたいな」
「わかった」
いつもの語り出し、いつも通りの……
そんなことしかできない。
オレは、他にしてやれることがないんだろうか?
瀬能から性周期同調フェロモンの実験の話を聞いて、セキは落ち着かずにソワソワとしていたが。雪虫は、セキから聞いた話によると、黙って頷いていたそうだ。
「本当ならもうちょっと人数が欲しいとこだったんだけど、なかなかね、参加してくれる人って少ないから」
「そうなんだ」
「色々な事柄を調べようとしたらちょっと非人道的な事もあったりするからね。君、ちょっと去勢させてよって言ってさせてはくれないでしょ?」
股に視線をやる瀬能から逃げるように、思わず股間を手で覆った。
「なんでそんな実験がいるんだよ!」
「去勢してもアルファはアルファなのか、アルファフェロモンが多く出ている局部を切り取ると、女性化するのか?オメガ化するのか?それともベータ化するのか?それとも変わらないか? 面白くない⁉︎」
「全然」
「ね?こんな対応されて協力者が少ないんだよ。少しずつ進めるしかないね」
はぁと溜め息を吐いて腕時計を眺めては、約束の時間までまだある と瀬能が呻く。
「随分楽しみにしてますね」
「そりゃ勿論、任意発情型なんて都市伝説級だからね!」
キラキラと目を輝かせる瀬能は子供のようで、口出ししにくい雰囲気だ。
「今は圧倒的に定期発情型が多いのは、どうしてだと思う?」
「えっ え?」
「色々あるけど、生涯出産数が全然違うって言うのが大きいだろうね」
はぁ?と首を傾げる。
きっとこれを、大神が客を連れてくるまで続けるんだろう。
話し始めたら長いのを、うっかり忘れていた。セキのようにタイミングを見計らって席を立つなんて技術はオレにはなくて、仕方なくウンウンと頷いた。
「ほら、好きな人の子供だけ欲しいだろ?でもいつヒートがいつくるかわからないと、不本意なことも多いから」
「あ、あー そう」
「だから定期型が多いんじゃないかな?特にオメガの場合。オメガって不思議で、本来自然排卵のはずなのに性交排卵をしたりもするんだよね。急なヒートが起こるのは複数のアルファに争わせてより強い個体を得るためか、性交排卵を促すためか……実はよくわかってなくて」
「すみません、オレもわかんないです」
話の半分もよくわからない とは言い出しにくい。
「第二性徴期にオメガの初ヒートが多いのは、単純に接する人が増えてアルファフェロモンに晒されるからって話もある。街中ですれ違った中に運命の番 もしくは相性のいいアルファがいて、そのフェロモンに当てられて突然発情、結果傍のアルファがラットに陥り襲われるんじゃないか とか言う話もあったね。人口密度が低かったり、人と接する機会の少ないオメガの初ヒートが遅いってレポートもあるし、どうかな?」
「さぁ どうなんでしょう」
右から左に筒抜けているとは言えず、ヘラヘラとした笑いで誤魔化す。
「オメガの初ヒートはアルファフェロモンに晒される量が鍵なのかなぁ、それは蓄積なのかな?」
相槌を打とうと思うのだけれど、ひくりと口の端が動いただけで終わった。
「あ、当分はお香もお茶もなしね。君は……」
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