とある画家と少年の譚

Kokonuca.

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金木犀

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「薬は苦手かい?」
「む、昔のことです。あの……少しだけ、近くでお顔を見せてもらえないでしょうか?」
 
 微かに掠れた声の懇願は、しかし聞き入れるのは難しかった。

 できる限り整えたとは言え、みつ子が見てわかるほどの汚れた姿を翠也に晒すことはできない。
 戸の影でうじうじとしている俺に気づいたのか、小さく笑って「つまらないことを言ってしまいましたね」と続ける。

「あっいやっ……違うんだ!」
「悪いものを移しては申し訳ありませんから」

 その寂しげな様子に咄嗟に駆け寄った。

「ちがっ、泥だらけなんだっ」

 俺の頭から爪先まで眺めて、微かな笑いを浮かべる。

「まるで小さな子供のようですね」
「猫を追い払ってて……」

 翠也は俺の髪に絡んだままの花がらを摘まみながらぽつりと返す。
 
「……猫」
「みっともない恰好を見せたね、風呂に行ってくるよ」
「そうですか……」

 熱のせいか、ぼんやりと頷く翠也に背を向けた。

「じゃあ、流してからまた来るから」
「  ────いいえ」

 背にかけられた硬質な声に思わず足が止まり、理由を聞く前にどっと心臓が早鐘を打つ。
 急に変わってしまった雰囲気が何を示すのか、わからないような人生は歩んできていない。
 
「金木犀の、良い香りですね」

 冷たい声音のまま、翠也は続ける。

「不浄に立った際、るりさんにお会いしました。あまりな姿についどうしたのかと尋ねたんです」

 胸の内は凍るようにひやりとするのに、鼓動は今までにないほど速い。

「貴男と相撲を取っていた と」
「…………」

 振り返ることもできずに、絞首刑を待つ気分で拳を握り締めた。

「彼からも良い香りがしました」

 その言葉を最後に口を噤んだのか、言葉は続かない。

「  ……猫を追い払った後に、相撲を取ったんだよ」

 鼓膜を破るような鼓動の音に震えそうになる。
 ほんの数秒のやり取りなのに、気が遠くなりそうなほど長い時間にも思えて、ぐっしょりと濡れた額に手を遣った。

「そう、ですか……」

 納得してくれたらしい言葉に、ほっと胸を撫で下ろす。

「卯太朗さん」
「うん?」
「猫に掻かれた傷はきちんと手当てなさった方がよろしいですよ」
「  ────っ」

 さっと首に手をやると言う、愚かしいほどの狼狽えぶりが翠也の視線に晒されて……

 一瞬視線が絡んだ後、翠也は諦めたように俯いた。

「化膿すると、いけませんから」

 わずかに荒く揺れる肩は熱のためか? それとも激情を抑えようとしているだけなのか。

 ただ、彼は苦し気に俯いていてそれ以上言葉を発さなかった。
 

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