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藤の女
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しおりを挟むいつの間にやらどっぷりと溺れるほどにはまり込んだらしい事実に、眩暈がして目を瞑った。
蠱惑的な塩味を思い出して、自然と舌で唇を濡らす。
喉が渇いて……思う。
「──翠也が、舐めたい」
せめて日が沈むまでと我慢し、空に微かな星の光が宿るまで待つ。
盛りを過ぎたとは言え夏の昼の長さはうんざりするほどで、繰り返し繰り返し外を眺めなくてはならなかった。
翠也が食事を摂らなかったと言う話を聞き、みつ子に握り飯を作ってもらってそれを口実に部屋の戸を叩く。
ことん と言う音は静まり返った中によく響いて……
「翠也くん、せめて何か食べないとばててしまうよ。開けるからね」
静まり返る沈黙に耐えきれなくなり、昼間の様子から具合を悪くして倒れていては……と不作法を承知で翠也の自室の戸を少しだけ開ける。
「まだ辛いのかい? 翠也くん?」
ふぅっと風が抜けるものの、部屋の主の姿は見えない。
絵画についての幾つかの洋書らしき本と、机と、わずかの小物だけが見えて、いつもの場所に寝床は敷かれてはいなかった。
がらんとした様子に、許可も得ずに思わず足を踏み出す。
「……あき 」
問いかけようとして工房を見る。
翠也の世界は酷く狭くて、屋敷内とは言え母屋に行くこともなく、彼の居場所は常にここだった。
静かに部屋から工房へ繋がる戸を引くと、椅子に座った翠也がぼんやりと庭を見ている。
帰ってからずっと座っていたのか、彼は洋装のままだった。
「翠也」
はっきりと呼ぶと、そこで初めて気付いたのか翠也は大げさに驚いてみせる。
「あっ……卯太朗さん」
「具合が悪いのかと思っていたけど?」
明かりをつけようと手を伸ばそうそすると、「やめてくださいっ」と鋭い声が上がった。
「……だが、暗いだろ?」
「月を……見ていたいので……」
「月?」
ちらと窓を見るが、今宵は月のない夜だ。
何を言っているのかわからずに首を振る。
「握り飯を作ってもらったんだ。食べないか?」
「……いえ」
彼はそれも拒否した。
「日に当てられたのかい? 粥にしてもらおうか?」
「いえ、なんともないので放っておいてください」
一歩近づいた俺から逃げるように身をすくめる。
……何故?
「そうか、具合が悪くないのなら、約束を果たしてもらえないだろうか?」
「今日は……」
俯くように首を振られて、様子の不自然さが際立つ。
「どうしたんだ?」
「どうもしてませんっ」
上がった声の大きさはこちらが怯むほどだった。
「俺は、何か君を怒らせるようなことをしたのかな?」
「……いえ、調子が悪いだけです」
彼はただそう繰り返すだけだ。
「そうか、君の調子が悪いなら、俺は我慢するしかないな」
おやすみ、と告げて踵を返そうとした俺の背に「苦しいですか?」と問いかけてくる。
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