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III 豪奢な檻の中
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章介が牢屋から出られたのは、それからひと月後だった。連日朝から晩まで虐待され、与えられる食事はまずい粥のみ。
話し相手もいない、本もない、テレビもない部屋に閉じ込められて、章介はどんどん追い詰められていった。
身体はどんどん痩せて、疲れ切っているのに眠れない。常に飢餓状態にあるせいで頭も働かない。
それに加えて食事が喉を通らなくなった時点で章介はプライドを捨てて穂波に部屋から出してくれと懇願した。
このままここにいたら病気になると直感したからだ。
幸いその頃には穂波の怒りもだいぶおさまっていたため、その願いは聞き入れられた。
ようやく外に出られた章介が見たものは、地平の彼方まで続いている森だった。
ところどころひらけたところがある木々が視界の限り続いている。
なぜ遠くまで見渡せたかといえば、章介が閉じ込められていたのが塔の上だったからだ。その光景は衝撃的だった。
街が見えるかもしれないと反対側を見てみても景色は同じ。ここは疑いようもない僻地だった。
非現実的な光景にショックで何も考えられない。頭が真っ白のままふと下を見ると、塔から五十メートルほど離れた場所に大きな屋敷があった。
ヨーロッパの貴族が住んでいるような洋館とでもいえばいいのだろうか。
一瞬誰か住んでいるかもしれないと期待するが、よく考えればそこは穂波の家でしかなかった。
章介は掠れた声で絞りだすように聞く。
「ここ、日本か?」
「ヨーロッパだよ。ピッタリでしょ、お妃様に。ここで幸せな家庭を築こう」
こいつは頭がおかしい。
誘拐した人間を監禁して虐待して脅迫して、挙げ句の果てに家庭を築く?
正気とは思えなかった。
改めて穂波の異常性を感じるとともに、とりあえず従っておけばすぐには殺されなさそうだと安堵もする。
「ね?」
「……ああ」
「とりあえず、泣いてお願いされたからここからは出してあげるけど、しばらくは反省しないとダメだよ。家の中はいいけど、外はまだダメ。出ようとしたらまたあそこに戻すからね」
「……わかった」
章介は頷き、穂波と共に塔の周りを下る螺旋階段を下りて地上に降り立った。
久しぶりの土の感覚と植物の匂い、肌に感じる風に涙が出そうになる。振り返ると灰色の塔が黒々聳えていた。
この塔もかなり昔に造られたように見える。恐らくは監視塔かなにかを改造したのだろう。
その近くの屋敷は、尖塔をいくつも擁する四階建ての建物だった。
堅固な石造りの外壁はどんな攻撃にも耐えうるようにできており、周りをさらに石塀が囲んでいる。
間違いなく、昨日今日できたものではない。
「いい家だろ? 元々は代々この辺に住んでた侯爵家のものだったらしいんだけどね、継ぐ人がいなくなって売りに出されてたんだ」
「……仕事は?」
聞いても意味のない質問をしてみる。
このひと月、連日真っ昼間から章介をいたぶっていたのだから、出勤が必要な定職についているわけがなかった。
「うん、株とか資産運用とかをちょっとね。だけど心配いらないよ、だいたいは専門のチームがやってるから。お金のことは心配しなくていい」
「だけど……何もせずに食わせてもらうわけにもいかないだろ?」
要は何でもいいから外に出る口実が欲しいのだが、穂波はそれを自分の都合の良いように解釈した。
章介と手をつないで屋敷への道を歩いていた相手が立ち止まり、ひっついてくる。
「そんな可愛いこと言わないの。またヤりたくなっちゃうでしょ」
「……」
「大丈夫なんだよ。僕たちは貴族みたいなもんなんだから働かなくていいんだ。労働ってのは庶民がやるものだろ」
「……だな」
更に気分が落ち込む。始終ここで穂波の相手をしろというのか。
ほかの人間との交流も許されずに? この先ずっと?
どんより曇った空に比例して、気分が暗くなってゆく。
なぜこんなことになってしまったのかわからない。
油断した自分が悪かったのか?
上司の誘いに乗ってあの店に行ったのが悪かったのか?
だが誰が予想できる、自分の上司がこんな気違いの親戚だなどと。
章介は檻の中に自ら入る動物の気分でアプローチを進んで噴水を迂回し、正面玄関から屋敷に入った。天井の高い玄関ホールの両側と奥には部屋が続いている。
土足のまま右の部屋を通り、さらに進むと長テーブルとシャンデリアがある部屋に着いた。
ここが食堂のようだった。
ここしばらくかいでいなかったまともな食事の匂いがする。
穂波に椅子を引かれて座ると、向かいに座った相手が奥から出てきた女に英語で何事かを指示する。
黒いスーツ姿で赤毛をひっつめにした女は一礼すると、奥側の扉の向こうに消え、まもなく料理ののった銀食器を持って戻ってきた。
ひと月ぶりに見た穂波以外の人間に、思わず相手を凝視してしまう。
女は思ったより若く、凡庸な顔立ちをしていた。
彼女はこちらを見ようともせずに無表情で配膳を終えると、きびきびと部屋から出ていった。
「ミス・スコフィールドだ。家のことをいろいろやってもらっているよ。好み?」
「いや……」
「でも話しかけたりしたらまたあそこに戻すからね」
「……」
「さ、食べようか。頑張ったご褒美だよ」
目の前には中に野菜の詰まったローストチキンやマッシュポテト、ミートパイ、かぼちゃのスープ、焼き立ての丸パンなどが並んでいた。
急に、萎縮してここしばらく反応のなかった胃が存在を主張しだす。章介は手を合わせてからナイフとフォークを取って食べ始めた。
信じられないぐらい美味しい。
「ちょっと痩せちゃったから食べてまた肉つけてもらわないと。筋トレもしてね。ジムもあるから。一階のサンルームの隣だよ」
頷いてひたすら食べる。穂波が他にも何か言っていたが何も頭に入ってこなかった。
ただひたすらに食べ物を口に運ぶ。
あっという間に全部食べ切ってもまだ腹が減っている。慢性的な空腹状態だったことに、今更ながら気付いた。
黙って皿を見つめていると、女が再び入ってきて皿を下げ、穂波と言葉を交わす。
そしてまた奥の、おそらく厨房だろう、そこに行くと銀のお盆を手に戻ってきた。
食後はブルーベリーとチーズのケーキだった。それに紅茶が添えられている。
チーズは嫌いだしチーズケーキも好きではない。しかし、章介は三口で食べ終えた。
そして、申し訳程度に紅茶を飲む。
全部食べ切ってしまってから自分の意地汚い食べ方に自己嫌悪したが、空腹には抗えなかった。
「口に合ったみたいだね」
「ああ。美味かった」
「よかった。じゃあ家の中案内してあげるよ」
穂波と共に席を立ち、通ってきた部屋に戻り、そこから奥へと進む。その先にあったのは、絵画のたくさんかかった応接室だった。
さらに先には書斎と、また部屋がある。
どこまでも部屋が連なっていて、まるで迷路のような屋敷だった。
穂波は建物の歴史や骨董品のコレクション云々について喋っていたが、話は右耳から左耳へと抜けていった。
久しぶりに満腹で眠くなってきたからだ。頭がぼんやりしていた。
「一階はとりあえずこんな感じかな。二階行こうか」
その後、穂波は屋敷の中を歩き回ってひと通り案内してくれた。
一階には食堂ふたつ、厨房、応接室、書斎、展示室、温室など。
二階には同じく応接室と書斎の他に浴室付き寝室、映写室がある。
三階四階はほとんど寝室だった。明らかに十人単位で生活する前提の建物だ。
主寝室は三階と四階にあり、章介には三階の一室があてがわれた。
屋敷の表側に面した眺めの良い広々した部屋で、前庭から先に続く森の彼方まで見渡せる。
南向きで日当たりもいい上、バストイレ付き。
壁には絵画がかかり、猫足の調度品も品が良く、天蓋付きベッドは寝心地が良さそうだ。
塔の部屋とは雲泥の差だった。
「ここに住んでいいのか?」
「当然だよ。章介は僕の妻なんだから」
「妻……」
「ああ、誤解しないで。前も言ったかもしれないけど、家のことは一切やらなくていいからね」
穂波はそう言い、章介を背後から抱きしめた。体格がひと回り大きい章介の体に絡みつくように手を這わせる。振り払いたいのをこらえていると、その手が耳を触った。
「穴、塞がっちゃったんだね」
「……」
穂波からはかつてピアスを開けさせられたことがある。ピアスなど開けたくなかったのに半ば強制的に開けられ、女が着けるようなダイヤのピアスを着けさせられたのだ。あれは不愉快極まりなかった。
その時のことを苦々しく思い出していると、不意に穂波が正面に回り、懐から小さな箱を取り出した。紺のビロードの片手に収まるような箱だ。おそらくはピアス用の箱。
嫌な予感を覚えながら見つめていると、穂波は期待するような目でこちらを見てそれを開けた。
やはりというべきか、中には一対のピアスが入っていた。種類は知らないがピンクに輝く宝石のピアスだ。
「前のはなくしちゃったみたいだから新しいのを買っておいたよ。これ、すごく珍しい石なんだ。ほら、こうやって当てる光によって色が変わるんだよ」
穂波がそう言ってカーテンで外の光を遮り、スマホの画面を明るくしてピアスに近づけると、それまでピンクに光っていた宝石が青くなった。
「ふうん……」
「どう? 気に入った?」
「……ああ」
気に入るも何もそもそも装飾品の類は好きではない。そうして、それを所有の証のように着けさせられることはそれにも増して不愉快である。
だが、穂波に生殺与奪を握られているこの状況でわざわざそれを言う必要もない。
「よかった! じゃあつけよっか。ちょっと待ってて、今ピアッサーとか持ってくる」
そう言ってせかせかと部屋を出て行く穂波を見送り、ソファに腰掛けてため息をつく。
ひとまず生命の危険は去った。だが、それとここから出られるかどうかは別だ。穂波に信の素性を世間に公表すると脅迫されている以上下手なことはできないと思っていたが、これほどの大事になってくると話は別である。
章介がどれほど友人を大事にしていても、さすがにここで一生を送ることはできない。穂波は正気を失っている。そんな人間といればこちらの身に危険が及ぶのは明白である。事実、塔に監禁されて死にかけた。
だから、信には申し訳ないがなんとしてでもここから出ることにした。そうしなければいつか殺されるだろう。
章介はさてこれからどうしたものかと思いを巡らせながら、戻ってきた穂波が望むままにピアスを開けたのだった。
◇
それからの二週間で慢性的な空腹状態と寝不足から脱した章介は、ようやくまともにものが考えられるようになった。
そして、今の状態では脱出はほぼ不可能だと悟った。
なぜなら、ここは異国の地ーー欧州のどこかのの片田舎で周囲に人家はなく、屋敷の出入り口は二十四時間、銃で武装した男たちが警備している。彼らが何者なのか、穂波は教えてくれなかったが、その目つきからしてとても堅気には見えなかった。
その上、穂波も四六時中そばにいる。
この状況で脱走は自殺行為だった。
よくて遭難、悪ければ連れ戻されてあの塔で嬲り殺されるだろう。そのぐらい穂波は異常だった。
それを確信した章介は、一旦脱走を諦めた。
脱走という形ではなく、許可を貰って街に出た時に逃げるべきだと確信したからだ。
そうして脱走計画は延期し、徐々に穂波に適応していった。
穂波は、機嫌が良ければさほど危険ではない。
愛情表現をしてやれば大概満足するのだ。
生殺与奪を握られている以上、とりあえずは従っておくのが得策だろうと思い、章介は従順に振る舞った。
大人しくしていればいずれ街に連れて行ってくれるはずだと思ったからだ。
助けを求め、不法滞在だとわかれば日本に強制送還になる。そうすれば穂波から逃げられる。
章介はそう考え、しばらくはおとなしくしていた。
だが、穂波は思った以上に独占欲が強く、慎重だった。なかなか外へ連れ出してくれなかったのだ。
そうして閉じ込められる生活が長くなるうち、章介は次第に穂波に好意を持っていった。いわゆるストックホルム症候群である。
監禁され、加害者に生殺与奪を握られた被害者は、加害者に好意を抱くようになることがある。これは生存戦略の一種だといわれている。
章介の場合は軟禁だったが、それでも常軌を逸した穂波に大きな脅威を感じているという点では監禁の被害者と同じような心理状態だった。だから発症したのだろう。
章介は次第に穂波のことが好きになっていった。
はじめは人格破綻者だと思っていた。だが意外と繊細な面もあることがわかって親近感が湧いた。
愛してくれるし、何不自由のない生活を送らせてもらえるし、タダで衣食住の保証もくれる。こんな人はなかなかいないだろう。
しょっちゅう求められることも、慣れればさほど気にならない。
求められるというよりむしろ自分が求めているのに誠一が応えてくれているのだから、感謝せねばなるまい。
誠一のいうとおり、自分は異性愛者などではなかったのだ。ゲイで、それも抱かれる側の人間だった。だから瑞貴のことは愛せなかったのだろう。
瑞貴ーーー久しぶりに思い出したその名前に、ベッドに寝転んだ章介はぼんやり天蓋の内側を見上げた。
元気にしているだろうか。ちゃんと食べているだろうか。
あの頃は瑞貴が運命の相手だと確信していた。だから将来を誓いさえした。
だが違ったのだ。自分は誠一と結ばれる運命だった。
こんな形で裏切るような真似をして、申し訳なく思う。
だが今頃はきっと、瑞貴もいい人を見つけて幸せになっているだろう。そうだったらいい。
だって自分は今幸せなのだから。
そう、幸せ……幸せなのだ。
愛する男と豪邸で何不自由ない暮らしをしている。これを幸福と言わずして何というだろうか。
食事は一流のシェフが作ってくれるし、最近始めた趣味のガーデニングも楽しい。屋敷の庭は広大なのでやりがいがあるのだ。いずれは庭師を呼ばずに済むようにというのが目下の目標値だ。
唯一、周囲の森に散策に出られないのが不満といえば不満だが、誠一が止めるのはそこが危険だからだ。
外の世界は危険に満ちている。だからこの屋敷から出る必要などない。すべてはここにあるのだから。そう、全てはここにある。求めるものは全て……。
章介は見えない檻の中で、そんなふうに充実した毎日を送るのだったーー。
話し相手もいない、本もない、テレビもない部屋に閉じ込められて、章介はどんどん追い詰められていった。
身体はどんどん痩せて、疲れ切っているのに眠れない。常に飢餓状態にあるせいで頭も働かない。
それに加えて食事が喉を通らなくなった時点で章介はプライドを捨てて穂波に部屋から出してくれと懇願した。
このままここにいたら病気になると直感したからだ。
幸いその頃には穂波の怒りもだいぶおさまっていたため、その願いは聞き入れられた。
ようやく外に出られた章介が見たものは、地平の彼方まで続いている森だった。
ところどころひらけたところがある木々が視界の限り続いている。
なぜ遠くまで見渡せたかといえば、章介が閉じ込められていたのが塔の上だったからだ。その光景は衝撃的だった。
街が見えるかもしれないと反対側を見てみても景色は同じ。ここは疑いようもない僻地だった。
非現実的な光景にショックで何も考えられない。頭が真っ白のままふと下を見ると、塔から五十メートルほど離れた場所に大きな屋敷があった。
ヨーロッパの貴族が住んでいるような洋館とでもいえばいいのだろうか。
一瞬誰か住んでいるかもしれないと期待するが、よく考えればそこは穂波の家でしかなかった。
章介は掠れた声で絞りだすように聞く。
「ここ、日本か?」
「ヨーロッパだよ。ピッタリでしょ、お妃様に。ここで幸せな家庭を築こう」
こいつは頭がおかしい。
誘拐した人間を監禁して虐待して脅迫して、挙げ句の果てに家庭を築く?
正気とは思えなかった。
改めて穂波の異常性を感じるとともに、とりあえず従っておけばすぐには殺されなさそうだと安堵もする。
「ね?」
「……ああ」
「とりあえず、泣いてお願いされたからここからは出してあげるけど、しばらくは反省しないとダメだよ。家の中はいいけど、外はまだダメ。出ようとしたらまたあそこに戻すからね」
「……わかった」
章介は頷き、穂波と共に塔の周りを下る螺旋階段を下りて地上に降り立った。
久しぶりの土の感覚と植物の匂い、肌に感じる風に涙が出そうになる。振り返ると灰色の塔が黒々聳えていた。
この塔もかなり昔に造られたように見える。恐らくは監視塔かなにかを改造したのだろう。
その近くの屋敷は、尖塔をいくつも擁する四階建ての建物だった。
堅固な石造りの外壁はどんな攻撃にも耐えうるようにできており、周りをさらに石塀が囲んでいる。
間違いなく、昨日今日できたものではない。
「いい家だろ? 元々は代々この辺に住んでた侯爵家のものだったらしいんだけどね、継ぐ人がいなくなって売りに出されてたんだ」
「……仕事は?」
聞いても意味のない質問をしてみる。
このひと月、連日真っ昼間から章介をいたぶっていたのだから、出勤が必要な定職についているわけがなかった。
「うん、株とか資産運用とかをちょっとね。だけど心配いらないよ、だいたいは専門のチームがやってるから。お金のことは心配しなくていい」
「だけど……何もせずに食わせてもらうわけにもいかないだろ?」
要は何でもいいから外に出る口実が欲しいのだが、穂波はそれを自分の都合の良いように解釈した。
章介と手をつないで屋敷への道を歩いていた相手が立ち止まり、ひっついてくる。
「そんな可愛いこと言わないの。またヤりたくなっちゃうでしょ」
「……」
「大丈夫なんだよ。僕たちは貴族みたいなもんなんだから働かなくていいんだ。労働ってのは庶民がやるものだろ」
「……だな」
更に気分が落ち込む。始終ここで穂波の相手をしろというのか。
ほかの人間との交流も許されずに? この先ずっと?
どんより曇った空に比例して、気分が暗くなってゆく。
なぜこんなことになってしまったのかわからない。
油断した自分が悪かったのか?
上司の誘いに乗ってあの店に行ったのが悪かったのか?
だが誰が予想できる、自分の上司がこんな気違いの親戚だなどと。
章介は檻の中に自ら入る動物の気分でアプローチを進んで噴水を迂回し、正面玄関から屋敷に入った。天井の高い玄関ホールの両側と奥には部屋が続いている。
土足のまま右の部屋を通り、さらに進むと長テーブルとシャンデリアがある部屋に着いた。
ここが食堂のようだった。
ここしばらくかいでいなかったまともな食事の匂いがする。
穂波に椅子を引かれて座ると、向かいに座った相手が奥から出てきた女に英語で何事かを指示する。
黒いスーツ姿で赤毛をひっつめにした女は一礼すると、奥側の扉の向こうに消え、まもなく料理ののった銀食器を持って戻ってきた。
ひと月ぶりに見た穂波以外の人間に、思わず相手を凝視してしまう。
女は思ったより若く、凡庸な顔立ちをしていた。
彼女はこちらを見ようともせずに無表情で配膳を終えると、きびきびと部屋から出ていった。
「ミス・スコフィールドだ。家のことをいろいろやってもらっているよ。好み?」
「いや……」
「でも話しかけたりしたらまたあそこに戻すからね」
「……」
「さ、食べようか。頑張ったご褒美だよ」
目の前には中に野菜の詰まったローストチキンやマッシュポテト、ミートパイ、かぼちゃのスープ、焼き立ての丸パンなどが並んでいた。
急に、萎縮してここしばらく反応のなかった胃が存在を主張しだす。章介は手を合わせてからナイフとフォークを取って食べ始めた。
信じられないぐらい美味しい。
「ちょっと痩せちゃったから食べてまた肉つけてもらわないと。筋トレもしてね。ジムもあるから。一階のサンルームの隣だよ」
頷いてひたすら食べる。穂波が他にも何か言っていたが何も頭に入ってこなかった。
ただひたすらに食べ物を口に運ぶ。
あっという間に全部食べ切ってもまだ腹が減っている。慢性的な空腹状態だったことに、今更ながら気付いた。
黙って皿を見つめていると、女が再び入ってきて皿を下げ、穂波と言葉を交わす。
そしてまた奥の、おそらく厨房だろう、そこに行くと銀のお盆を手に戻ってきた。
食後はブルーベリーとチーズのケーキだった。それに紅茶が添えられている。
チーズは嫌いだしチーズケーキも好きではない。しかし、章介は三口で食べ終えた。
そして、申し訳程度に紅茶を飲む。
全部食べ切ってしまってから自分の意地汚い食べ方に自己嫌悪したが、空腹には抗えなかった。
「口に合ったみたいだね」
「ああ。美味かった」
「よかった。じゃあ家の中案内してあげるよ」
穂波と共に席を立ち、通ってきた部屋に戻り、そこから奥へと進む。その先にあったのは、絵画のたくさんかかった応接室だった。
さらに先には書斎と、また部屋がある。
どこまでも部屋が連なっていて、まるで迷路のような屋敷だった。
穂波は建物の歴史や骨董品のコレクション云々について喋っていたが、話は右耳から左耳へと抜けていった。
久しぶりに満腹で眠くなってきたからだ。頭がぼんやりしていた。
「一階はとりあえずこんな感じかな。二階行こうか」
その後、穂波は屋敷の中を歩き回ってひと通り案内してくれた。
一階には食堂ふたつ、厨房、応接室、書斎、展示室、温室など。
二階には同じく応接室と書斎の他に浴室付き寝室、映写室がある。
三階四階はほとんど寝室だった。明らかに十人単位で生活する前提の建物だ。
主寝室は三階と四階にあり、章介には三階の一室があてがわれた。
屋敷の表側に面した眺めの良い広々した部屋で、前庭から先に続く森の彼方まで見渡せる。
南向きで日当たりもいい上、バストイレ付き。
壁には絵画がかかり、猫足の調度品も品が良く、天蓋付きベッドは寝心地が良さそうだ。
塔の部屋とは雲泥の差だった。
「ここに住んでいいのか?」
「当然だよ。章介は僕の妻なんだから」
「妻……」
「ああ、誤解しないで。前も言ったかもしれないけど、家のことは一切やらなくていいからね」
穂波はそう言い、章介を背後から抱きしめた。体格がひと回り大きい章介の体に絡みつくように手を這わせる。振り払いたいのをこらえていると、その手が耳を触った。
「穴、塞がっちゃったんだね」
「……」
穂波からはかつてピアスを開けさせられたことがある。ピアスなど開けたくなかったのに半ば強制的に開けられ、女が着けるようなダイヤのピアスを着けさせられたのだ。あれは不愉快極まりなかった。
その時のことを苦々しく思い出していると、不意に穂波が正面に回り、懐から小さな箱を取り出した。紺のビロードの片手に収まるような箱だ。おそらくはピアス用の箱。
嫌な予感を覚えながら見つめていると、穂波は期待するような目でこちらを見てそれを開けた。
やはりというべきか、中には一対のピアスが入っていた。種類は知らないがピンクに輝く宝石のピアスだ。
「前のはなくしちゃったみたいだから新しいのを買っておいたよ。これ、すごく珍しい石なんだ。ほら、こうやって当てる光によって色が変わるんだよ」
穂波がそう言ってカーテンで外の光を遮り、スマホの画面を明るくしてピアスに近づけると、それまでピンクに光っていた宝石が青くなった。
「ふうん……」
「どう? 気に入った?」
「……ああ」
気に入るも何もそもそも装飾品の類は好きではない。そうして、それを所有の証のように着けさせられることはそれにも増して不愉快である。
だが、穂波に生殺与奪を握られているこの状況でわざわざそれを言う必要もない。
「よかった! じゃあつけよっか。ちょっと待ってて、今ピアッサーとか持ってくる」
そう言ってせかせかと部屋を出て行く穂波を見送り、ソファに腰掛けてため息をつく。
ひとまず生命の危険は去った。だが、それとここから出られるかどうかは別だ。穂波に信の素性を世間に公表すると脅迫されている以上下手なことはできないと思っていたが、これほどの大事になってくると話は別である。
章介がどれほど友人を大事にしていても、さすがにここで一生を送ることはできない。穂波は正気を失っている。そんな人間といればこちらの身に危険が及ぶのは明白である。事実、塔に監禁されて死にかけた。
だから、信には申し訳ないがなんとしてでもここから出ることにした。そうしなければいつか殺されるだろう。
章介はさてこれからどうしたものかと思いを巡らせながら、戻ってきた穂波が望むままにピアスを開けたのだった。
◇
それからの二週間で慢性的な空腹状態と寝不足から脱した章介は、ようやくまともにものが考えられるようになった。
そして、今の状態では脱出はほぼ不可能だと悟った。
なぜなら、ここは異国の地ーー欧州のどこかのの片田舎で周囲に人家はなく、屋敷の出入り口は二十四時間、銃で武装した男たちが警備している。彼らが何者なのか、穂波は教えてくれなかったが、その目つきからしてとても堅気には見えなかった。
その上、穂波も四六時中そばにいる。
この状況で脱走は自殺行為だった。
よくて遭難、悪ければ連れ戻されてあの塔で嬲り殺されるだろう。そのぐらい穂波は異常だった。
それを確信した章介は、一旦脱走を諦めた。
脱走という形ではなく、許可を貰って街に出た時に逃げるべきだと確信したからだ。
そうして脱走計画は延期し、徐々に穂波に適応していった。
穂波は、機嫌が良ければさほど危険ではない。
愛情表現をしてやれば大概満足するのだ。
生殺与奪を握られている以上、とりあえずは従っておくのが得策だろうと思い、章介は従順に振る舞った。
大人しくしていればいずれ街に連れて行ってくれるはずだと思ったからだ。
助けを求め、不法滞在だとわかれば日本に強制送還になる。そうすれば穂波から逃げられる。
章介はそう考え、しばらくはおとなしくしていた。
だが、穂波は思った以上に独占欲が強く、慎重だった。なかなか外へ連れ出してくれなかったのだ。
そうして閉じ込められる生活が長くなるうち、章介は次第に穂波に好意を持っていった。いわゆるストックホルム症候群である。
監禁され、加害者に生殺与奪を握られた被害者は、加害者に好意を抱くようになることがある。これは生存戦略の一種だといわれている。
章介の場合は軟禁だったが、それでも常軌を逸した穂波に大きな脅威を感じているという点では監禁の被害者と同じような心理状態だった。だから発症したのだろう。
章介は次第に穂波のことが好きになっていった。
はじめは人格破綻者だと思っていた。だが意外と繊細な面もあることがわかって親近感が湧いた。
愛してくれるし、何不自由のない生活を送らせてもらえるし、タダで衣食住の保証もくれる。こんな人はなかなかいないだろう。
しょっちゅう求められることも、慣れればさほど気にならない。
求められるというよりむしろ自分が求めているのに誠一が応えてくれているのだから、感謝せねばなるまい。
誠一のいうとおり、自分は異性愛者などではなかったのだ。ゲイで、それも抱かれる側の人間だった。だから瑞貴のことは愛せなかったのだろう。
瑞貴ーーー久しぶりに思い出したその名前に、ベッドに寝転んだ章介はぼんやり天蓋の内側を見上げた。
元気にしているだろうか。ちゃんと食べているだろうか。
あの頃は瑞貴が運命の相手だと確信していた。だから将来を誓いさえした。
だが違ったのだ。自分は誠一と結ばれる運命だった。
こんな形で裏切るような真似をして、申し訳なく思う。
だが今頃はきっと、瑞貴もいい人を見つけて幸せになっているだろう。そうだったらいい。
だって自分は今幸せなのだから。
そう、幸せ……幸せなのだ。
愛する男と豪邸で何不自由ない暮らしをしている。これを幸福と言わずして何というだろうか。
食事は一流のシェフが作ってくれるし、最近始めた趣味のガーデニングも楽しい。屋敷の庭は広大なのでやりがいがあるのだ。いずれは庭師を呼ばずに済むようにというのが目下の目標値だ。
唯一、周囲の森に散策に出られないのが不満といえば不満だが、誠一が止めるのはそこが危険だからだ。
外の世界は危険に満ちている。だからこの屋敷から出る必要などない。すべてはここにあるのだから。そう、全てはここにある。求めるものは全て……。
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