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II 再会
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事務所でのインターン初日、古賀は信を歓迎してくれ、職員たちに「芦屋新」として紹介してくれた。彼は日本で平和に生まれ育ったごくごく普通の大学生ということになっている。
これからは芦屋新として、身分を偽って生きてゆくことになる。
そしてこの新しい身分は、母親が父親からの虐待を苦にしてこの世に見切りをつけることもなく、父親との対立で家出することもなく、その後犯罪組織の人間に捕まって売春窟に落とされることもない、ごくごく普通の、恵まれた人生を送ってきた人物だった。
こういう人生を送れたらどんなに心穏やかに過ごせたか、と思うような人生だ。
佑磨と古賀は信に、この人物になりきるよう要求してきた。
玉東での過去を知られることは政界に入る者にとって致命的だったからだ。
だから古賀は、信をあくまで「芦屋新」として事務所の面々に紹介した。
しかし事務所の人たちを騙しおおせたかは大いに疑問だった。なぜなら、古賀の秘書や事務所の職員たちは彼の側近だからだ。
古賀が玉東で白銀楼を贔屓にしていたことなど周知の事実だし、菊野という名の傾城が担当だったことも、その傾城がどんな顔をしているかも知っているはずだ。
信は化粧が厚いタイプでもなく、さらに男装の日もままあったのだから、整形でもしない限りゴマかせない。それは、事務所に一歩足を踏み入れたときから明らかだった。
秘書は白銀楼に来たこともある厚木という男だったし、職員の何人かも信の顔を見て反応した。
しかし表向き、彼らは一切そのことに言及しなかった。何人かいるインターンの一人として扱い、過去のことを持ち出すことはなかった。たぶんこういうことは珍しくないのだろう。
職員のうち何人かは信と同じような出自の者がいるのかもしれない。古賀は聡明な男で、肩書きで人を見ることをしないから、それは十分ありえる。
事実、信のことも単なる愛玩具ではなく、きっちり教育しようと他のインターンと同等に扱ってくれている。
その期待に応えたい、と思いながら、信は初日を終えた。
そして事務所から出て帰ろうとしたところで誰かに声をかけられた。
「芦屋くん」
振り返ると、姿勢がやけにいい四十半ばの男が立っていた。
古賀の公設秘書の厚木だ。
「お疲れさまです」
そう返したが、厚木はそれには答えず、そばに待機している車に少し待つよう指示を出すと、言った。
「家まで送るよ」
「いえ、そんなに遠くないので大丈夫です」
なんとなく嫌な感じがしたので断りを入れる。
接客業の一種をやっていたせいか、こういった嗅覚は鋭くなっていた。
「家を知られたくない?」
「いえ、そういうわけでは……」
「じゃあいいだろ。乗りなさい」
「……はい」
信は仕方なく厚木について黒光りする車に乗りこんだ。事務所で所有しているものらしい。中は広々していて、ソファみたいな座り心地だった。
厚木は運転手に行先を告げると――信の自宅は既に調べ上げていた――、急に豹変して開口一番こう言った。
「いったいどういうつもりでウチに来た?」
「その……先生に、お声がけいただいたので」
「おれに小細工が通用すると思うな。正直に言え。森とかいう金持ちから先生に乗り換えようって肚か?」
「……ご存知で」
すると、厚木は苦虫を噛み潰したような顔になった。
「もちろん知っている。お前が玉東にいたことも、先生をたらしこんだことも、森とかいう金持ちに囲われていることもな。奴と何を企んでる?」
「何も。ただ先生とまたお会いできたのがうれしくて、お誘いを受けました」
シラを切ってみると、案の定相手が激昂した。
彼は信の胸ぐらをつかみ、低い声で言った。
「そんな言い訳がおれに通用すると思ってんのか? 言え。言わなきゃ帰れねえぞ」
「……脅しですか?」
「ああ。ガチのな。先生今大事な時期なんだよ。お前なんぞに事務所をひっかき回されるとこっちも困るわけ。面白半分で来たんならもうこの辺でやめとけっつってんの」
ぎりぎりと首を絞めあげられて苦しい。信が喘ぐような息を漏らすと、厚木が蔑むような目を向けた。
「そんな顔したっておれには通用しねえからな。どんだけ男を落としてきたか知らねえが、おれは男なんかに興味はない。それにな、先生はお前なんぞに引っかかるようなタマじゃねえ。あそことは違うんだ。思い通りになると思うな」
「そんなこと、思ってませ、」
「嘘吐くな!」
そこで相手はますます強く胸倉をつかみあげた。
「あわよくばって、思ってんだろうがっ! おれは認めねえからなっ。お前みたいな汚い……。反吐が出る」
吐き捨てるように言って厚木は信を解放した。
ここで厚木の本心がわかる。
この男は信に自分が取って代わられることを恐れているのだ。
そこまで高く買われていたとは、と驚きを感じながら、信は咳きこんだ。そして絞めあげられた喉をさすりながら言った。
「私は、あなたの下で働きます。いろいろ、ケホッ、ご教授いただけたらと思います」
こういう喧嘩腰の相手には搦め手に限る。
そう思って言うと、厚木は一瞬目を見開いてから、苦々しげに言った。
「女狐め……前々から気に入らなかったんだよ。ヘラヘラしやがって、気色悪い。ホントについてんのか? 見せろよ」
そう言われて信は固まった。誰もこの会話の流れでセクハラされるとは思わないだろう。
わけがわからず相手を凝視していると、厚木は覆いかぶさるように顔を近づけてきた。
「どんな手ェ使って先生落としたんだよ? 教えてくれよ。それともよっぽど後ろの具合がいいのか?」
信はここで相手の意図を理解した。
厚木は信に事務所を辞めさせたいのだ。だからこんな嫌がらせをして脅しをかけてきている。
厚木が個人的にこちらに興味があって手を出すなどありえない。よく考えてみれば彼は古賀が見込んだ男なのだ。
一応は古賀のものということになっている信にちょっかいをかけるわけがない。
それに相手からは同族臭がまったくしなかった。たぶんノンケだろう。
そこまで分析した信は、自ら相手に体を近づけた。
すると厚木が驚いたように身を引く。
信は心で冷笑しながらあからさまな流し目を送って、囁くように言った。
「どうでしょうね……? 確かめてみますか?」
「っ……だれでもいいのかよ」
「だれでもってわけじゃないですよ……。厚木さんは格好いいから……」
そこで相手があからさまに怯んだような表情になった。
信は内心いい気味だな、と思いながら厚木の腕に手を触れた。そして寂しげな表情を作ってこういってみた。
「最近お忙しいのか、先生には全然相手をして頂けなくて……。やっぱり若い子の方がいいんですかね……」
すると厚木は一瞬固まったあと、信から飛びのくようにして体を離し、呟くように言った。
「先生もとんでもないのにひっかかったな……。とにかく、お前の魂胆はミエミエだ。先生に取り入ってあわよくばとか思ってんだろうが、おれがいる限りそんなことさせねえからな」
こちらをねめつけながら啖呵を切ってくる相手に一種新鮮なものを感じながら、信は目をふせた。
「本当は、うれしくて……。もう何年もこちらの空気を吸っていなかったものですから、普通の方たちと、普通にお仕事できるのがうれしくて、つい先生のご好意に甘えてしまいました……。立場上、誤解をされても仕方ないことは重々承知しています。ご迷惑をおかけして申し訳ないとも、思っています。……でも、少し大目に見ていただけないでしょうか。少しだけでいいから、『普通の』生活がしてみたいんです」
大嘘だったがこの場合仕方なかった。真実を話せばこれまでの佑磨の努力が水の泡だからだ。
信はそう言って相手の出方を窺った。
すると厚木は舌打ちをし、皮肉っぽく言った。
「そんなの無理に決まってるだろ。お前は男娼だ。それは玉東を出ようが変わらない。何百人もの男と寝てきたお前が今さら普通に戻れるわけないだろ」
その言葉に思わず笑ってしまう。
「何百って……さすがにそんなに寝てないですよ。まあ五十人ぐらいとは寝たかな? もうちょっとかも」
「マジでふざけんなよ。身の程をわきまえろ。わかったか?」
厚木は剣呑な目つきでこちらを見て低い声で言った。
内心、何百人となんて寝ていないし、たとえそうだったとしても人間としての価値に何の違いがあるというのか、と思ったが口には出さなかった。
話の通じない人間を諭しているほど暇ではない。
「承知しました」
「まあ、いつまで続くか見ものだな」
そこで車が停車した。窓の外を見ると自宅近くの洋菓子屋の前だった。
信はやっと帰れる、と思いながら礼を言って車を降りた。
そしてこちらを汚物でも見るように見ている厚木に頭を下げながら、まずは彼の懐に入らないとな、と思った。
これからは芦屋新として、身分を偽って生きてゆくことになる。
そしてこの新しい身分は、母親が父親からの虐待を苦にしてこの世に見切りをつけることもなく、父親との対立で家出することもなく、その後犯罪組織の人間に捕まって売春窟に落とされることもない、ごくごく普通の、恵まれた人生を送ってきた人物だった。
こういう人生を送れたらどんなに心穏やかに過ごせたか、と思うような人生だ。
佑磨と古賀は信に、この人物になりきるよう要求してきた。
玉東での過去を知られることは政界に入る者にとって致命的だったからだ。
だから古賀は、信をあくまで「芦屋新」として事務所の面々に紹介した。
しかし事務所の人たちを騙しおおせたかは大いに疑問だった。なぜなら、古賀の秘書や事務所の職員たちは彼の側近だからだ。
古賀が玉東で白銀楼を贔屓にしていたことなど周知の事実だし、菊野という名の傾城が担当だったことも、その傾城がどんな顔をしているかも知っているはずだ。
信は化粧が厚いタイプでもなく、さらに男装の日もままあったのだから、整形でもしない限りゴマかせない。それは、事務所に一歩足を踏み入れたときから明らかだった。
秘書は白銀楼に来たこともある厚木という男だったし、職員の何人かも信の顔を見て反応した。
しかし表向き、彼らは一切そのことに言及しなかった。何人かいるインターンの一人として扱い、過去のことを持ち出すことはなかった。たぶんこういうことは珍しくないのだろう。
職員のうち何人かは信と同じような出自の者がいるのかもしれない。古賀は聡明な男で、肩書きで人を見ることをしないから、それは十分ありえる。
事実、信のことも単なる愛玩具ではなく、きっちり教育しようと他のインターンと同等に扱ってくれている。
その期待に応えたい、と思いながら、信は初日を終えた。
そして事務所から出て帰ろうとしたところで誰かに声をかけられた。
「芦屋くん」
振り返ると、姿勢がやけにいい四十半ばの男が立っていた。
古賀の公設秘書の厚木だ。
「お疲れさまです」
そう返したが、厚木はそれには答えず、そばに待機している車に少し待つよう指示を出すと、言った。
「家まで送るよ」
「いえ、そんなに遠くないので大丈夫です」
なんとなく嫌な感じがしたので断りを入れる。
接客業の一種をやっていたせいか、こういった嗅覚は鋭くなっていた。
「家を知られたくない?」
「いえ、そういうわけでは……」
「じゃあいいだろ。乗りなさい」
「……はい」
信は仕方なく厚木について黒光りする車に乗りこんだ。事務所で所有しているものらしい。中は広々していて、ソファみたいな座り心地だった。
厚木は運転手に行先を告げると――信の自宅は既に調べ上げていた――、急に豹変して開口一番こう言った。
「いったいどういうつもりでウチに来た?」
「その……先生に、お声がけいただいたので」
「おれに小細工が通用すると思うな。正直に言え。森とかいう金持ちから先生に乗り換えようって肚か?」
「……ご存知で」
すると、厚木は苦虫を噛み潰したような顔になった。
「もちろん知っている。お前が玉東にいたことも、先生をたらしこんだことも、森とかいう金持ちに囲われていることもな。奴と何を企んでる?」
「何も。ただ先生とまたお会いできたのがうれしくて、お誘いを受けました」
シラを切ってみると、案の定相手が激昂した。
彼は信の胸ぐらをつかみ、低い声で言った。
「そんな言い訳がおれに通用すると思ってんのか? 言え。言わなきゃ帰れねえぞ」
「……脅しですか?」
「ああ。ガチのな。先生今大事な時期なんだよ。お前なんぞに事務所をひっかき回されるとこっちも困るわけ。面白半分で来たんならもうこの辺でやめとけっつってんの」
ぎりぎりと首を絞めあげられて苦しい。信が喘ぐような息を漏らすと、厚木が蔑むような目を向けた。
「そんな顔したっておれには通用しねえからな。どんだけ男を落としてきたか知らねえが、おれは男なんかに興味はない。それにな、先生はお前なんぞに引っかかるようなタマじゃねえ。あそことは違うんだ。思い通りになると思うな」
「そんなこと、思ってませ、」
「嘘吐くな!」
そこで相手はますます強く胸倉をつかみあげた。
「あわよくばって、思ってんだろうがっ! おれは認めねえからなっ。お前みたいな汚い……。反吐が出る」
吐き捨てるように言って厚木は信を解放した。
ここで厚木の本心がわかる。
この男は信に自分が取って代わられることを恐れているのだ。
そこまで高く買われていたとは、と驚きを感じながら、信は咳きこんだ。そして絞めあげられた喉をさすりながら言った。
「私は、あなたの下で働きます。いろいろ、ケホッ、ご教授いただけたらと思います」
こういう喧嘩腰の相手には搦め手に限る。
そう思って言うと、厚木は一瞬目を見開いてから、苦々しげに言った。
「女狐め……前々から気に入らなかったんだよ。ヘラヘラしやがって、気色悪い。ホントについてんのか? 見せろよ」
そう言われて信は固まった。誰もこの会話の流れでセクハラされるとは思わないだろう。
わけがわからず相手を凝視していると、厚木は覆いかぶさるように顔を近づけてきた。
「どんな手ェ使って先生落としたんだよ? 教えてくれよ。それともよっぽど後ろの具合がいいのか?」
信はここで相手の意図を理解した。
厚木は信に事務所を辞めさせたいのだ。だからこんな嫌がらせをして脅しをかけてきている。
厚木が個人的にこちらに興味があって手を出すなどありえない。よく考えてみれば彼は古賀が見込んだ男なのだ。
一応は古賀のものということになっている信にちょっかいをかけるわけがない。
それに相手からは同族臭がまったくしなかった。たぶんノンケだろう。
そこまで分析した信は、自ら相手に体を近づけた。
すると厚木が驚いたように身を引く。
信は心で冷笑しながらあからさまな流し目を送って、囁くように言った。
「どうでしょうね……? 確かめてみますか?」
「っ……だれでもいいのかよ」
「だれでもってわけじゃないですよ……。厚木さんは格好いいから……」
そこで相手があからさまに怯んだような表情になった。
信は内心いい気味だな、と思いながら厚木の腕に手を触れた。そして寂しげな表情を作ってこういってみた。
「最近お忙しいのか、先生には全然相手をして頂けなくて……。やっぱり若い子の方がいいんですかね……」
すると厚木は一瞬固まったあと、信から飛びのくようにして体を離し、呟くように言った。
「先生もとんでもないのにひっかかったな……。とにかく、お前の魂胆はミエミエだ。先生に取り入ってあわよくばとか思ってんだろうが、おれがいる限りそんなことさせねえからな」
こちらをねめつけながら啖呵を切ってくる相手に一種新鮮なものを感じながら、信は目をふせた。
「本当は、うれしくて……。もう何年もこちらの空気を吸っていなかったものですから、普通の方たちと、普通にお仕事できるのがうれしくて、つい先生のご好意に甘えてしまいました……。立場上、誤解をされても仕方ないことは重々承知しています。ご迷惑をおかけして申し訳ないとも、思っています。……でも、少し大目に見ていただけないでしょうか。少しだけでいいから、『普通の』生活がしてみたいんです」
大嘘だったがこの場合仕方なかった。真実を話せばこれまでの佑磨の努力が水の泡だからだ。
信はそう言って相手の出方を窺った。
すると厚木は舌打ちをし、皮肉っぽく言った。
「そんなの無理に決まってるだろ。お前は男娼だ。それは玉東を出ようが変わらない。何百人もの男と寝てきたお前が今さら普通に戻れるわけないだろ」
その言葉に思わず笑ってしまう。
「何百って……さすがにそんなに寝てないですよ。まあ五十人ぐらいとは寝たかな? もうちょっとかも」
「マジでふざけんなよ。身の程をわきまえろ。わかったか?」
厚木は剣呑な目つきでこちらを見て低い声で言った。
内心、何百人となんて寝ていないし、たとえそうだったとしても人間としての価値に何の違いがあるというのか、と思ったが口には出さなかった。
話の通じない人間を諭しているほど暇ではない。
「承知しました」
「まあ、いつまで続くか見ものだな」
そこで車が停車した。窓の外を見ると自宅近くの洋菓子屋の前だった。
信はやっと帰れる、と思いながら礼を言って車を降りた。
そしてこちらを汚物でも見るように見ている厚木に頭を下げながら、まずは彼の懐に入らないとな、と思った。
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