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I 成り上がりゲーム
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結局、年越しパーティはかなり盛り上がった。森と、とにかくいつもテンションが高い誠やヒカリたちが中心になって騒ぎまくったのである。
あまり酔わないし、酔ったとしてもハメを外すタイプではない信はちょっとついていけなかったが、そのへんは大目に見られるのが森ファミリーの良いところだった。
信は同じように静かに除夜の鐘でも聴いて年越しそばを食べたいタイプの由良や理人たちとハジけまくっている森たちを眺めていた。
佑磨に至っては、客室にひっこんで顔を出しもしなかったが、森がとやかく言うことはない。
「みんなぁー、日が昇ったぜぇー! 全速前しーん! よーし、もっともっと盛り上がってこー!」
「イェーイ!」
「シャンパンタワーイェーイ!」
アップテンポの音楽が鳴り響く甲板はまるでクラブのようだった。
誰かが言いだした通り、氷の彫刻がいくつもライトアップされ、テーブルにはありとあらゆる種類の酒が、そして専属シェフたちが腕によりをかけて造った和洋中のオードブルが並んでいる。
手品師や占い師、大道芸人たちまで集まり、場を盛り上げていた。
それを見ながら、由良がふと呟くように言った。
「はぁー、なんか幸せ。すごく幸せ」
「藪から棒にどうした?」
友人の理人が買い料理をつまみながら聞くと、由良は遠くを見るような目をした。
「だってさ、こんな幸せ、想像してなかった……昔からはさ。こんなに平和に、年を越せるなんて……」
「お前何歳だよ?」
「わりと人生順調だったりっくんにはわかんないかもしんないけどさ、本当に貴重なんだよ、こういう瞬間は。こういうキラキラした瞬間がもらえるなんてすごく恵まれてるんだ……。翔太郎さんにこんなふうに愛されて……本当に、感謝しかない。あの頃に比べたらどれだけ恵まれてるか」
由良は経済的に恵まれぬ家庭で育ったと自身で言っていた。近隣もスラムのようなところで、通った小学校は授業が成りたたないほど荒れていたという。
中学も同様で、いじめも横行していたらしい。それでも何もせず、専制的にふるまう教師に不信感を抱き、次第に学校に行かなくなった。
何とか進んだ高校も環境が良いとはいえず、中退して一度は引きこもったが経済的に許されなかったため家を出て働き始めた。
しかし、時給があまりに低く、条件の悪い仕事ばかりで嫌気がさし、次第に犯罪に手を染めるようになった。社会にも人生にも絶望し、どうにもならなかったその頃だったという。森と出会ったのは。
「友達から、だんだん深い関係になって……。恋人にはできないって言われたときはちょっとショックだったけど、それでもいいって思えるくらい好きになってた……」
「本当に、天国ですね、昔に比べたら」
信の言葉に、理人が反応した。
「あんまり知らないんだけど、どんな感じなの? 玉東って」
「まあひと言でいえば、監獄ですね」
由良や聡までこちらに注目しているのを意識しながら、信は続けた。
「『働かざる者食うべからず』をそのまま具現化したようなところで……稼ぎが少なければ食事も減らされる、休みも減らされる、というような感じで。それで、ある程度以上の階級っていうんですか、それじゃないと自分の部屋ももらえない。客取り部屋で起居するしかないんです。二十四時間三百六十五日、隣から声が聞こえてくる部屋で生活するんですよ。頭がおかしくなりそうだった」
「っていうか今どきあるんだな、そんな人身売買みたいなの」
理人が少し驚いたように言う。
「私も信じられなかったですよ。でも逃げられなかった。ヤクザがやってる店でね、逃げたら命はない、ぐらいのことを言われて……。実際に戻って来なかった人もいた」
「げー、マジ?」
「はい。それに莫大な違約金もありましたし、それを背負って生きてゆけるとは思わなかった。契約書が巧妙でね、ギリギリ合法なんですよ。ただ契約させられた状況は無理矢理だったので、確実に違法だと思いますがね。たいていの人はあそこをただの観光街か、せいぜい法の範囲内で営業している風俗店街くらいに思っていますがね、実態は全く違うのですよ。違法な人身取引が横行している。その上、それを取り締まるべき警察官僚や政治家たちが利用している……まさに無法地帯でした」
信の言葉に、全員が絶句した。そして、一番最初に言葉を見つけたらしい由良がしばらくしたから口を開いた。
「もっと華やかなところなのかと思ってた」
「お客にとってはね。でもこっち側にとっては戦場ですよ。這いつくばって生きるしかないところ。実際同僚も何人も心を病みました。私は幸運だった……あのまま働いていたら体を壊していたでしょうね」
「………何となく誤解してた。ごめん」
聡がひじ掛けから降り、近くのソファに膝を抱えて座りこむ。
「そんなふうには見えないからさ……苦労してるようには見えなかった」
「ああ、顔に出ないってよく言われます」
「……死のうと思わなかったの?」
その問いに、信は即答した。
「いえ。自殺は罪だと思っているので。何か事故で死ねたらとは思いましたけど」
「すごいよね、信くんは……。僕は……僕は、自分が一番不幸だって思って、生きてきたけど……」
それきり黙りこんでしまった聡に、由良がフォローを入れる。
「誰だってそう思うよ。聡だって苦労してるじゃない」
「うん……だけど僕は別にいつ辞めてもよかったし……。想像できない、そういうふうに閉じ込められてやらされるってことが」
聡は新宿二丁目のバーで働いていたといった。ただのバーではなく、客が買春目的で来る店だったらしい。
「信じられないですよね。私が政治家だったら即摘発させるんですけどね。まあそううまくはいかないか」
「あ、政治家っていやあ、あの古賀議員と知り合いって本当?」
聡の問いに、由良が驚いたように信を見た。
「え、ウソそれどこで聞いたの?」
「フツーに翔ちゃんに聞いた」
それに答える。
「面識はありますよ。よく通って頂いていたので」
すると聡が興味津々で聞いた。
「すごい可愛がられてたんでしょ? ねえ、どうやって落としたの?」
そう言った聡に訝しげに理人が聞く。
「聞いてどうすんだよ?」
「いいじゃん、いつかのために聞いとくんだよ」
「翔さんに愛想つかされたときのため?」
「はあっ!? どう考えても先に捨てられんのは理人だろーが!」
聡と理人の間に第三次大戦が勃発した。
本当に仲が良いんだなあ、と思いながら見ていると、出来上がった森がフラフラしながらやってきて、由良の腰を抱いた。
「由良~、チューしよーぜ、チュー」
「もー、酒臭い」
「コレうまいから口移ししてやるよ。く・ち・う・つ・し」
由良は文句を言いながらも本気では抵抗しない。そのうち彼は森に身を任せた。
たぶんこういうところだな、と信は森の生態を冷静に分析していた。
こういう全員が集まる席で、まず最古参の由良にいく。意識的なのか無意識なのかわからないが、こういうふうに順番を守るあたりが、何人愛人がいてももめ事が起きない理由に違いなかった。
「んー、マジいい匂いする。由良、シャンプー変えた?」
「わかる? 今日は特別だし、ちょっと奮発したんだ。オリエンタルフローラルの香り」
「へえぇ。いいね。やっぱお前は甘い匂いが一番合うな」
森が由良の柔らかそうな亜麻色の髪を弄びながら言う。
「ヤバ、ヤりたくなっちまった。由良、ちょっと行こうぜ」
「ちょっと、今食事中なんだけど」
「下のお口が寂しい頃だろ?」
「下品!」
森の物言いに、信は思わず吹き出しそうになった。
下のお口が寂しい? ポルノのセリフか?
「よし、ということで、おれたちはちょーっと失礼しまぁっす。勝手にやっててー。あと、酔ってプールとか風呂とかで溺れるなよ?」
「はぁーい!」
森は由良をひょいと横抱きにすると、信たちにウィンクをして甲板から降りていった。
それを見送ってから聡が伸びをして言った。
「おれもヤりたくなってきたなー。りっくん、チンコ貸して」
「ヤだよ」
「えーなんでー?」
「疲れるの。お前注文多いし」
「ジジィかよ。信くーん、ダメ?」
今度は信を標的にして小首を傾げてみせた聡を、理人が窘めた。
「ムチャぶりすんなよ。あっちのベロベロになってる奴ら襲えばいいだろ」
「あーそれもそうだ。じゃあ行ってくるわ」
そう言って軽快に立ちあがった聡を呆れたように見送って、理人は申し訳なさそうな表情を作った。
「ごめんな。アイツ貞操観念ゼロだからさ」
「いや大丈夫」
「そういえばさっき話してたことだけどさ、佑磨との同居の件だけど」
「うん、なに?」
そう聞くと、甲板の端の方に設置されたテーブルに着いた理人は、黒々とした海を見ながら言った。
「ちょっと、気をつけた方がいいかも」
「どういうこと?」
理人は視線をこちらに戻し、ちょっとためらってから続けた。
「おれも詳しくは知らないんだけどさ、佑磨さんって過去に結構いろいろあったみたいで……たまにパニクったりするんだよ。だから過去は、訊かない方がいいと思う。官僚だったらしいけど」
「……わかった。ありがとう」
森は佑磨のことを、エリート、と呼んだ。そして実際彼は信と同じ名門私立の桜咲学園に通っていた。
その後何があったのか。たぶん、彼の人生を揺るがすような大事件が起こったのだろう。仕事を辞めざるを得ない重大な何かが、起こったのだ。
信は、佑磨と自分は想像以上に似ているかもしれない、と思った。
◆
引っ越しの日は意外と早く来た。二人が翻意しないうちにと、森が大急ぎで手続きを進めたせいだ。
年が明けて、二月の半ばにはもう佑磨の住むマンションに移ることになった。
佑磨の部屋は東京ではなく、近郊の県にあり、他の青年たちの住みかが主に港区に集中しているのに比べて、いかにも変だった。そして、余計な勘繰りをしそうになってしまう。
信はなるべく憶測でものを考えないようにしながら、業者に手伝ってもらって引っ越しを完了させた。
佑磨は、理人の話が信じられるくらい知的で洗練されたエリートで、確かに中央省庁にいそうなタイプだった。物事に対する理解力が突出していて、合理的で思慮深く、常に理路整然としている。
彼が取り乱すところなど想像できなかった。
信と佑磨は、生活を共にする時間が長くなるにつれて親しくなった。
共同生活はスムーズで、家事は半分ずつ分担で生活費も半分ずつ。二人は基本的に身の回りのことをすべて自分でできるタイプだったので、特に家事でモメることもなかった。
互いに夜遅くまで出歩くタイプでもなく、友達を呼んで飲み会をすることもない。図書室は作ってもらったが、家全体が図書室みたいな雰囲気だった。
それでも帰ったら誰かいる、というのはやはり一人とは全然違う。どんなに静かで佑磨が常に本を読んでいるか書き物をしているかクラシックを聴いてるかだったとしても、いるのといないのとでは全然違った。
育った環境が似ているからか、二人の生活スタイルは驚くほどよく似ていたが、唯一違いがあるとすれば、信がスーパーと料理好きなところだった。
元々母親とよく作っていたのもあって、信は料理が好きだった。すると必然的にスーパーも好きになる。毎日でも寄りたいぐらい好きだった。
対して佑磨は食に一切こだわりがない。自炊はできるが、栄養を取るためだけの食事という印象が強かった。
だから家事の中で、料理は基本的に信が担当し、掃除や洗濯、ゴミ出しなどが佑磨の仕事になっていた。彼のおかげで家には常にチリひとつなく、ピカピカだった。一日中掃除しているのかと思うほど綺麗なこともあった。
佑磨は特に仕事をしておらず、何か趣味の会に入っているわけでもなく、日中は基本的に家にいる。そんなにこもっていて息が詰まらないのかと思ったが本人はいたって平気そうで、外にいるときの方がむしろ息苦しそうに見える。
これは相当なことがあったのだな、と思ったが、理人の忠告通り、過去については一切聞かなかった。
同様に、相手も信のことを根掘り葉掘り聞くようなことはしない。二人が話すのは主に文学や政治・経済の話題だった。
佑磨は政治、特に経済分野に造詣が深く、政府や議員がいろいろと声明を出すとすぐさまその本意を翻訳してくれる。どちらともとれるような言い回しで装飾された言葉の本当の意味を瞬時に理解するのだ。
そういう姿を見ていると、やはり霞が関で徹底的に仕込まれたキャリア官僚出身のような気がしたが、そのことは口にしなかった。
そうやって互いに気を遣っていたおかげで、最初の数カ月は何事もなく穏やかに過ぎた。森が訪れどちらかと過ごすときも、暗黙の了解で片方が家を出ることになっていたので、その点も問題なかった。
二人の関係に変化が訪れたのはそんな折――同居生活を始めて三カ月がたった頃の春先だった。
あまり酔わないし、酔ったとしてもハメを外すタイプではない信はちょっとついていけなかったが、そのへんは大目に見られるのが森ファミリーの良いところだった。
信は同じように静かに除夜の鐘でも聴いて年越しそばを食べたいタイプの由良や理人たちとハジけまくっている森たちを眺めていた。
佑磨に至っては、客室にひっこんで顔を出しもしなかったが、森がとやかく言うことはない。
「みんなぁー、日が昇ったぜぇー! 全速前しーん! よーし、もっともっと盛り上がってこー!」
「イェーイ!」
「シャンパンタワーイェーイ!」
アップテンポの音楽が鳴り響く甲板はまるでクラブのようだった。
誰かが言いだした通り、氷の彫刻がいくつもライトアップされ、テーブルにはありとあらゆる種類の酒が、そして専属シェフたちが腕によりをかけて造った和洋中のオードブルが並んでいる。
手品師や占い師、大道芸人たちまで集まり、場を盛り上げていた。
それを見ながら、由良がふと呟くように言った。
「はぁー、なんか幸せ。すごく幸せ」
「藪から棒にどうした?」
友人の理人が買い料理をつまみながら聞くと、由良は遠くを見るような目をした。
「だってさ、こんな幸せ、想像してなかった……昔からはさ。こんなに平和に、年を越せるなんて……」
「お前何歳だよ?」
「わりと人生順調だったりっくんにはわかんないかもしんないけどさ、本当に貴重なんだよ、こういう瞬間は。こういうキラキラした瞬間がもらえるなんてすごく恵まれてるんだ……。翔太郎さんにこんなふうに愛されて……本当に、感謝しかない。あの頃に比べたらどれだけ恵まれてるか」
由良は経済的に恵まれぬ家庭で育ったと自身で言っていた。近隣もスラムのようなところで、通った小学校は授業が成りたたないほど荒れていたという。
中学も同様で、いじめも横行していたらしい。それでも何もせず、専制的にふるまう教師に不信感を抱き、次第に学校に行かなくなった。
何とか進んだ高校も環境が良いとはいえず、中退して一度は引きこもったが経済的に許されなかったため家を出て働き始めた。
しかし、時給があまりに低く、条件の悪い仕事ばかりで嫌気がさし、次第に犯罪に手を染めるようになった。社会にも人生にも絶望し、どうにもならなかったその頃だったという。森と出会ったのは。
「友達から、だんだん深い関係になって……。恋人にはできないって言われたときはちょっとショックだったけど、それでもいいって思えるくらい好きになってた……」
「本当に、天国ですね、昔に比べたら」
信の言葉に、理人が反応した。
「あんまり知らないんだけど、どんな感じなの? 玉東って」
「まあひと言でいえば、監獄ですね」
由良や聡までこちらに注目しているのを意識しながら、信は続けた。
「『働かざる者食うべからず』をそのまま具現化したようなところで……稼ぎが少なければ食事も減らされる、休みも減らされる、というような感じで。それで、ある程度以上の階級っていうんですか、それじゃないと自分の部屋ももらえない。客取り部屋で起居するしかないんです。二十四時間三百六十五日、隣から声が聞こえてくる部屋で生活するんですよ。頭がおかしくなりそうだった」
「っていうか今どきあるんだな、そんな人身売買みたいなの」
理人が少し驚いたように言う。
「私も信じられなかったですよ。でも逃げられなかった。ヤクザがやってる店でね、逃げたら命はない、ぐらいのことを言われて……。実際に戻って来なかった人もいた」
「げー、マジ?」
「はい。それに莫大な違約金もありましたし、それを背負って生きてゆけるとは思わなかった。契約書が巧妙でね、ギリギリ合法なんですよ。ただ契約させられた状況は無理矢理だったので、確実に違法だと思いますがね。たいていの人はあそこをただの観光街か、せいぜい法の範囲内で営業している風俗店街くらいに思っていますがね、実態は全く違うのですよ。違法な人身取引が横行している。その上、それを取り締まるべき警察官僚や政治家たちが利用している……まさに無法地帯でした」
信の言葉に、全員が絶句した。そして、一番最初に言葉を見つけたらしい由良がしばらくしたから口を開いた。
「もっと華やかなところなのかと思ってた」
「お客にとってはね。でもこっち側にとっては戦場ですよ。這いつくばって生きるしかないところ。実際同僚も何人も心を病みました。私は幸運だった……あのまま働いていたら体を壊していたでしょうね」
「………何となく誤解してた。ごめん」
聡がひじ掛けから降り、近くのソファに膝を抱えて座りこむ。
「そんなふうには見えないからさ……苦労してるようには見えなかった」
「ああ、顔に出ないってよく言われます」
「……死のうと思わなかったの?」
その問いに、信は即答した。
「いえ。自殺は罪だと思っているので。何か事故で死ねたらとは思いましたけど」
「すごいよね、信くんは……。僕は……僕は、自分が一番不幸だって思って、生きてきたけど……」
それきり黙りこんでしまった聡に、由良がフォローを入れる。
「誰だってそう思うよ。聡だって苦労してるじゃない」
「うん……だけど僕は別にいつ辞めてもよかったし……。想像できない、そういうふうに閉じ込められてやらされるってことが」
聡は新宿二丁目のバーで働いていたといった。ただのバーではなく、客が買春目的で来る店だったらしい。
「信じられないですよね。私が政治家だったら即摘発させるんですけどね。まあそううまくはいかないか」
「あ、政治家っていやあ、あの古賀議員と知り合いって本当?」
聡の問いに、由良が驚いたように信を見た。
「え、ウソそれどこで聞いたの?」
「フツーに翔ちゃんに聞いた」
それに答える。
「面識はありますよ。よく通って頂いていたので」
すると聡が興味津々で聞いた。
「すごい可愛がられてたんでしょ? ねえ、どうやって落としたの?」
そう言った聡に訝しげに理人が聞く。
「聞いてどうすんだよ?」
「いいじゃん、いつかのために聞いとくんだよ」
「翔さんに愛想つかされたときのため?」
「はあっ!? どう考えても先に捨てられんのは理人だろーが!」
聡と理人の間に第三次大戦が勃発した。
本当に仲が良いんだなあ、と思いながら見ていると、出来上がった森がフラフラしながらやってきて、由良の腰を抱いた。
「由良~、チューしよーぜ、チュー」
「もー、酒臭い」
「コレうまいから口移ししてやるよ。く・ち・う・つ・し」
由良は文句を言いながらも本気では抵抗しない。そのうち彼は森に身を任せた。
たぶんこういうところだな、と信は森の生態を冷静に分析していた。
こういう全員が集まる席で、まず最古参の由良にいく。意識的なのか無意識なのかわからないが、こういうふうに順番を守るあたりが、何人愛人がいてももめ事が起きない理由に違いなかった。
「んー、マジいい匂いする。由良、シャンプー変えた?」
「わかる? 今日は特別だし、ちょっと奮発したんだ。オリエンタルフローラルの香り」
「へえぇ。いいね。やっぱお前は甘い匂いが一番合うな」
森が由良の柔らかそうな亜麻色の髪を弄びながら言う。
「ヤバ、ヤりたくなっちまった。由良、ちょっと行こうぜ」
「ちょっと、今食事中なんだけど」
「下のお口が寂しい頃だろ?」
「下品!」
森の物言いに、信は思わず吹き出しそうになった。
下のお口が寂しい? ポルノのセリフか?
「よし、ということで、おれたちはちょーっと失礼しまぁっす。勝手にやっててー。あと、酔ってプールとか風呂とかで溺れるなよ?」
「はぁーい!」
森は由良をひょいと横抱きにすると、信たちにウィンクをして甲板から降りていった。
それを見送ってから聡が伸びをして言った。
「おれもヤりたくなってきたなー。りっくん、チンコ貸して」
「ヤだよ」
「えーなんでー?」
「疲れるの。お前注文多いし」
「ジジィかよ。信くーん、ダメ?」
今度は信を標的にして小首を傾げてみせた聡を、理人が窘めた。
「ムチャぶりすんなよ。あっちのベロベロになってる奴ら襲えばいいだろ」
「あーそれもそうだ。じゃあ行ってくるわ」
そう言って軽快に立ちあがった聡を呆れたように見送って、理人は申し訳なさそうな表情を作った。
「ごめんな。アイツ貞操観念ゼロだからさ」
「いや大丈夫」
「そういえばさっき話してたことだけどさ、佑磨との同居の件だけど」
「うん、なに?」
そう聞くと、甲板の端の方に設置されたテーブルに着いた理人は、黒々とした海を見ながら言った。
「ちょっと、気をつけた方がいいかも」
「どういうこと?」
理人は視線をこちらに戻し、ちょっとためらってから続けた。
「おれも詳しくは知らないんだけどさ、佑磨さんって過去に結構いろいろあったみたいで……たまにパニクったりするんだよ。だから過去は、訊かない方がいいと思う。官僚だったらしいけど」
「……わかった。ありがとう」
森は佑磨のことを、エリート、と呼んだ。そして実際彼は信と同じ名門私立の桜咲学園に通っていた。
その後何があったのか。たぶん、彼の人生を揺るがすような大事件が起こったのだろう。仕事を辞めざるを得ない重大な何かが、起こったのだ。
信は、佑磨と自分は想像以上に似ているかもしれない、と思った。
◆
引っ越しの日は意外と早く来た。二人が翻意しないうちにと、森が大急ぎで手続きを進めたせいだ。
年が明けて、二月の半ばにはもう佑磨の住むマンションに移ることになった。
佑磨の部屋は東京ではなく、近郊の県にあり、他の青年たちの住みかが主に港区に集中しているのに比べて、いかにも変だった。そして、余計な勘繰りをしそうになってしまう。
信はなるべく憶測でものを考えないようにしながら、業者に手伝ってもらって引っ越しを完了させた。
佑磨は、理人の話が信じられるくらい知的で洗練されたエリートで、確かに中央省庁にいそうなタイプだった。物事に対する理解力が突出していて、合理的で思慮深く、常に理路整然としている。
彼が取り乱すところなど想像できなかった。
信と佑磨は、生活を共にする時間が長くなるにつれて親しくなった。
共同生活はスムーズで、家事は半分ずつ分担で生活費も半分ずつ。二人は基本的に身の回りのことをすべて自分でできるタイプだったので、特に家事でモメることもなかった。
互いに夜遅くまで出歩くタイプでもなく、友達を呼んで飲み会をすることもない。図書室は作ってもらったが、家全体が図書室みたいな雰囲気だった。
それでも帰ったら誰かいる、というのはやはり一人とは全然違う。どんなに静かで佑磨が常に本を読んでいるか書き物をしているかクラシックを聴いてるかだったとしても、いるのといないのとでは全然違った。
育った環境が似ているからか、二人の生活スタイルは驚くほどよく似ていたが、唯一違いがあるとすれば、信がスーパーと料理好きなところだった。
元々母親とよく作っていたのもあって、信は料理が好きだった。すると必然的にスーパーも好きになる。毎日でも寄りたいぐらい好きだった。
対して佑磨は食に一切こだわりがない。自炊はできるが、栄養を取るためだけの食事という印象が強かった。
だから家事の中で、料理は基本的に信が担当し、掃除や洗濯、ゴミ出しなどが佑磨の仕事になっていた。彼のおかげで家には常にチリひとつなく、ピカピカだった。一日中掃除しているのかと思うほど綺麗なこともあった。
佑磨は特に仕事をしておらず、何か趣味の会に入っているわけでもなく、日中は基本的に家にいる。そんなにこもっていて息が詰まらないのかと思ったが本人はいたって平気そうで、外にいるときの方がむしろ息苦しそうに見える。
これは相当なことがあったのだな、と思ったが、理人の忠告通り、過去については一切聞かなかった。
同様に、相手も信のことを根掘り葉掘り聞くようなことはしない。二人が話すのは主に文学や政治・経済の話題だった。
佑磨は政治、特に経済分野に造詣が深く、政府や議員がいろいろと声明を出すとすぐさまその本意を翻訳してくれる。どちらともとれるような言い回しで装飾された言葉の本当の意味を瞬時に理解するのだ。
そういう姿を見ていると、やはり霞が関で徹底的に仕込まれたキャリア官僚出身のような気がしたが、そのことは口にしなかった。
そうやって互いに気を遣っていたおかげで、最初の数カ月は何事もなく穏やかに過ぎた。森が訪れどちらかと過ごすときも、暗黙の了解で片方が家を出ることになっていたので、その点も問題なかった。
二人の関係に変化が訪れたのはそんな折――同居生活を始めて三カ月がたった頃の春先だった。
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