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5.依頼

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 それから二人は定期的に飲みに行くようになった。
 元々中学時代にも馬は合う方だったから、その流れは自然といえる。
 誰かと飲みたいなあ、というときにどちらともなく誘って、なんとなく次の約束もして帰る、みたいなことをここ二か月ほど繰り返していた。
 アルファとベータしかいない職場で神経をすり減らして働き、バーでの知り合い以外にこれといった交友関係もなかった時籐にとって、それはとても楽しい時間だった。
 久しぶりに本当の友達ができたような気分だったのだ。
 友人がいないわけではない。
 だが、ダイニングバーで知り合ったオメガの友人には恵まれた環境を羨まれるばかりだったから何か腰が引けてしまい、過去のことはまだ話せずにいた。
 昔は高校時代のオメガの友達と遊んだりもしていたが、相手が家庭を持ってからはそういうことも少なくなった。
 また、大学時代の友人とはほぼ没交渉である。
 妊娠して大学を辞め、その後結婚出産育児と家のことに追われる生活を送っていた時籐にとって、大学に残って研究者としての道を順調に進む友人達の近況を聞くのは辛かった。
 また、同情の目を向けられるのも居心地が悪く、しだいに飲みや食事に誘われても行かなくなった。

 その頃は若宮が好きだったのでそれなりに幸せではあった。
 だが、育児に疲れ果てている中できらきらと輝く元同級生を見るほど辛いことはない。
 当時一緒のゼミだった仲間たちは、ある者は大学に残って研究を続け、ある者は一流企業に就職して製品開発に邁進し、またある者は国家公務員となって政府機関の研究所で働いていた。
 そのほとんど全員がアカデミックな世界にいるのに自分は家庭に押し込められ、赤子のオムツと格闘している――そんな現実を見たくなかったのだ。
 だから、時籐は大学時代の友人を意図的に遠ざけた。
 その結果、周りからは心許せる友人が一掃され、休日の予定がほぼないという現在の状態になったわけだった。

 だが更科が現れ、時籐の世界は一変した。
 更科は、番だった頃の若宮は別として、時籐が人生で唯一信用したアルファである。大学時代も、会社に入ってからもアルファの友人は決して作らなかった時籐の、唯一の例外が更科だった。
 その上、更科はフェロモンで『威圧』や『誘導』をすることも、番を作ることもできないアルファである。ほとんどベータ同然といっていい。
 そして更科からフェロモンが出ていないことは、彼がクライアントを伴ってバーに来たあの日、そこに居合わせたオメガ全員が証明した。
 例え強い抑制剤を飲んでもフェロモンがゼロになるわけではないので、オメガはアルファに必ず気付く。
 だが、あの場にいた誰一人として――時籐を除いては――更科がアルファだとは気づかなかった。
 つまり、更科が言う通りフェロモンがほとんど出ていないのだ。
 あの時、なぜ自分だけが匂いを感じたのかはわからない。ただ、時籐は昔からフェロモンに敏感な体質で、他のオメガが何ともなくてもアルファのフェロモンに中てられて体調不良になったことがたびたびあったため、そのせいだろうと結論付けた。
 そして更科が嘘を言っていないと確信したのである。番を作れないという話も本当だろう。

 更科がフェロモンも出せず、番も作れないアルファであることに、アルファ全般に警戒心のあった時籐もさすがに警戒を解いた。
 もし、更科がアルファ亜種でフェロモン障害があることを教えてくれなかったら、二回目の飲みの誘いは断っただろう。
 バーでの非礼を詫びてそれで終わりだった。どんなに安全そうに見えても、親切だった過去があっても、アルファはアルファだからだ。
 だが、更科はアルファとしての機能がほぼないアルファだった。それならば二人で会っても問題ない。
 時籐はそう判断し、付き合いを続けたのだった。
 そういうふうにして二人は飲み仲間になった。
 時籐はまるで青春時代に戻ったかのような甘酸っぱいときめきをほのかに感じながら、更科との飲みを楽しみに日々を過ごしていた。
 更科から仕事を手伝ってほしい、と言われたのはそんな折のことだった。

 ◇

 更科と再会をして二か月余りがたったある日の夕方、珍しく仕事が早く終わった時籐は、退社間際に暇だったら飯でもどうか、とメッセージを送った。
 なんとなく更科と話したい気分だったからだ。
 すると、どうやら暇していたらしく、すぐに既読がついて「いいよ。この前のところ?」と来た。
 前回二人は時籐のマンションの最寄り駅に新しくできたイタリアンレストランに行ったのだが、思いのほか料理も酒もおいしく、次回もここにしよう、と話していたのだった。
 それを覚えていたのだろう。
 時籐は更科からの返信に「うん。今から会社出る」と返した。
 すると、「じゃあ今から出るわー」と返信が来る。時籐はそれを見て少し頬を緩め、スマホをポケットにしまい、コートを手に取った。
 声をかけられたのはその時だった。

「なんだ、彼氏か~? 時籐君が定時で上がるなんて珍しいじゃないか」

 はっとして目を上げると、同じように帰り支度をしている課長の江口が机の向こうからにやにやとこちらを見ていた。
 コートを手に立ったまま画面を眺めていた時籐の顔が目に入ったのだろう。
 課長の声に、周りの同僚たちが興味を惹かれたようにこちらを見る。
 時籐は居心地が悪くなって少し俯いた。

「いえ……」
「隠すことないだろう? 俺も君には幸せになってほしいんだよ。一人だと何かと大変だろうし、皆心配してるんだよ。ほら、オメガには『リミット』だかがあるんだろう? 女性みたいに」

 その言葉に、時藤の向かい側の席の田代が笑いながら言う。

「課長それセクハラっすよ~。今時そんなこと言ったら訴えられちゃいますよ?」

 田代春は時籐と同世代のアルファ男性の社員で、自分より先に昇進した時籐が気に入らないらしく、何かにつけ嫌がらせをしてくる筆頭格である。
 確かに入社時期は大学卒業後すぐに入社した田代の方が早く、三年先輩にあたるのだから、自分より経験が浅い後輩が先に昇進するのを快く思わないのも無理はない。
 だが、誇張ではなく時籐は田代の一・五倍近い仕事をこなしており、定時退社が常の相手とは違い毎日残業漬けである。更に休日も暇があれば出勤して部署内で回し切れていない仕事を片付けている。
 他の誰もそのような働き方をしている者はいないし、仕事の虫と揶揄されているのも知っている。
 これを五年間やった結果の昇進なのだ。正直、文句を言われる筋合いはないと思っていた。
 そんなことを言えば口論になるのは目に見えているので、それを口に出したことはなかったが。

「そうかねぇ? そうなの?」

 課長にそう問いかけられて、そうだとも違うとも言えずに言葉を探していると、周りの社員達がそれに乗じて喋り出した。

「そうですよー。課長、コンプラ研修受けたの忘れたんですか? ダメなんですよ、今時そういうこと言ったら。オメガ差別だーって言われちゃうんですから」

 田代と仲の良い灰田が笑いながら言うと、年配の鈴木も同意する。

「コンプラコンプラって息苦しい世の中になったよなぁ。ちょっと話しただけでセクハラだの何だの。昔は良かったよ、オメガの子も皆気が利いてねえ」

 これは遠回しに時藤は気が利かないと言っているも同然である。
 この万年平社員のアルファは、入社当初、時藤がお茶汲みを拒否したことにご立腹で、以来こうして何かと嫌味を言ってくる。
 課長より年上で、この部署の実質的権力者である鈴木のこうした言動が、職場での時藤の立場を悪くしていた。
 彼らはグルになって、ことあるごとに時籐の婚期や妊娠リミットを「心配」してくる。
 そのことには心底うんざりしていた。
 それでも今までは我慢してきたが、更科とのやり取りを揶揄われたことにいやに腹が立ち、時籐は感情のままに口を開いた。

「自分、『リミット』とか関係ないですから。もう子供いるんで。あと結婚ならもうしてます。離婚しましたけど。じゃあお先に失礼します。お疲れ様でした」

 時籐はそう言い放ち、呆気に取られている同僚達に会釈をしてその場を立ち去った。
 そうして足早に悪意に満ちた空間から脱出する。フロアを出てエレベーターに乗り込んだ時、時籐は深々とため息を吐いた。
 そして、勢いであんなことを言ってしまったことを早くも後悔し始める。
 あんなことを言うべきではなかった。バツイチ子持ちのオメガなど腫れ物扱いされるのは目に見えているではないか。
 それなのになぜ自ら暴露してしまったのか……。

 ああいった嫌がらせは日常茶飯事だ。決して付け入られないように仕事は細心の注意を払ってやっているから、仕事関係で何かを言われることはほとんどない。
 だがその代わり、オメガというバース性に基づく差別はたびたび受けていた。
 慣れるということはなく、言われるたびに嫌な気持ちになるが、言い返してどうなるものでもない。そう思って耐えてきた。
 だが、更科とのことをあれこれ言われるのは我慢ならなかった。例え彼らが、やり取りしている相手が更科だと知らなかったとしても。
 
 そもそも課長が余計なことを言い出さなければ、と上司を恨みながらエレベーターで一階に降りる。
 そうしてエレベーターを降り、ビルから出て外に出ると、みぞれが降っていた。
 ビルの前の道を駅に向かって歩きながら、それでも自分は恵まれている方なのだと思う。
 独身のオメガがこの社会で生きてゆくのは大変だ。
 三か月に一回のヒートのたびに三週間も会社を休むオメガを採用したがらない企業は多く、建前上は平等といわれているのに正社員として雇用されるオメガは驚くほど少ない。
 ゆえに非正規の仕事に就いているオメガが大半だが、福利厚生やヒート対策がきちんとされていない職場も多く、なかなか職場に定着しない。
 結果として独身のオメガは職を転々とする貧困生活に陥ることが多かった。

 その上、アルファやベータの男とは違い、身の危険からホームレスにもなれないし、安アパートにも住めない。その結果として水商売に手を出さざるを得ないオメガがいるのも事実だった。
 このように、この国は独身のオメガに非常に冷たい制度設計になっている。
 その中で、職場での嫌がらせはあれど、正社員で高給な職に就けている自分は幸運というべきなのだろう。まあ、その幸運はとんでもない不運から生まれたものだったが。

 時籐はそんなことを鬱々と考えながら電車に乗り、自宅最寄り駅で降りた。
 そうして駅の北側に新しくできたイタリアンレストランに向かう。
 その入り口付近で更科はもう着いただろうかとスマホを確認した瞬間、明るい声がした。

「よっす」

 顔を上げると、ジャケット姿の更科が笑みを浮かべて近づいてくるところだった。
 それに自然自分の口角が上がるのがわかる。先ほどまであった苦々しい感情が瞬時に消え去った。

「よう」
「待った?」

 そう聞かれて首を振る。

「今来たとこ。入る?」
「うん」

 二人は自動ドアを通って店内に足を踏み入れた。モダンな内装の店はほのかに薄暗く、間接照明でおしゃれに演出されている。
 黒いベスト姿の店員が近づいてきた。

「いらっしゃいませ。お二人様でしょうか?」

 更科は寄ってきた店員に言った。

「はい。個室空いてますか?」
「はい。ご案内できます」

 店員は頷き、二人を先導して個室へと向かった。その際に、ちらりと時籐のネックガードに目がいく。
 だがそれも一瞬で、店員はふいと目をそらし、奥の個室へ二人を案内した。
 そして営業スマイルでごゆっくりお過ごしください、と言って出て行った。
 個室は四人掛けの黒いテーブルがある部屋だった。店のエントランスと同じくモダンな内装で、奥の窓からは電車が行き来する駅舎が見える。
 月二ぐらいでご飯に行くようになって何回目かに時籐は店の個室を指定した。更科を信用したからだ。
 以来、更科も個室がある店では個室を指定するようになった。実際番を持たないオメガは色々言われたり絡まれたりしやすく、その方が心穏やかに食事ができるからだ。
 更科は部屋の奥側の席にどっかりと腰かけると、上着を椅子の背にかけ、メニューを開いた。

「よーし、今日はロゼ飲もっかなー」
「俺はキャンティにしようかな」
「あー赤もいいね。今日はガッツリステーキの気分だし」
「どっちかボトルにして一緒に飲む?」
「あーそれいいね。俺あんま飲めないからそっちボトルで頼んでくれる?」
「いいよ」
「飲み切れる?」
「全然余裕。ボトル二本とか飲んだことあるし」
「ああ、時籐ザルだもんなぁ。でもさすがに飲みすぎじゃね?」
「これでもセーブしてる方だけど」
「マジかよ?」

 仰天したようにこちらをまじまじと見る更科に少し居心地が悪くなる。
 実際時籐がザルなのは本当だった。人よりも飲めるし、翌日に尾を引くこともない。
 だが、飲みすぎというのも事実だった。
 人より多く飲まないと酔えないので、必然的に量が多くなってしまうのだ。
 そして飲むのはたいてい過去がフラッシュバックしたときや、今日のように会社で嫌な思いをしたときだった。楽しい酒ではない。
 肝臓の数値も少し高いし、医者にも控えるよう言われているが、この飲酒癖は治らなかった。多分この先も治らないだろうし、その先にあるのは肝臓を壊す未来だということもわかっている。
 だが、それでも飲むのをやめられなかった。

「そういう体質なの。親もそうだし」
「へぇ~、ちょっと羨ましいかも。飲めるのってかっこいいよな。会社の飲み会でヒーローじゃない? あ、それとも今どきはもうそういう風潮ないのかな? 俺会社勤めしたことないからわかんねーけど」
「いや、まあまああるよ。アルハラっていうか……。まあ別に飲めてもヒーローにはなれないけど」

 正確には「オメガは」飲めてもヒーローになれない、だ。しかしわざわざ言う必要もない。

「やっぱあるんだぁ。嫌だなー、そういうの」
「うん。飲めない人は大変だと思うよ。この間も新入社員の子が下戸なのに飲まされそうになっててさ……」

 他愛ない話をしていると、店員がやってきて注文をとる。
 注文を終え、店員が出て行くと、更科はふと思い出したように言った。

「そういやちょっと話したい事あってさ。頼みっていうか」
「何?」

 すると、更科はグラスの水を一口飲んで慎重に続けた。

「うん。気軽に頼めることじゃないから無理だったら無理って言ってくれて全然いいんだけど、ちょっと仕事で手伝ってほしいことがあって……」
「仕事って……番解消の?」
「うん。今回のクライアントさん……佐伯さんっていうんだけど、この方がアルファ恐怖症なんだよね。旦那からDV受けて随分酷い思いしたらしくて。で、子供連れて家出て、一刻も早く番解消したいらしいんだけど、俺と二人きりになるのも無理らしいんだよね。そういうとき、だいたいは知り合いとか家族に立ち会ってもらうんだけど、そういう人がいないらしくて。で、その立ち会いを時籐に頼めないかなって。ただ、他人の番解消って法的には結構グレーゾーンというか……明確に禁止する法律はないんだけど、関連法に引っかかる可能性はあるんだよね。だから、リスクもあるっちゃあるというか……」
「そうなのか」
「うん。だから全然無理にじゃなくていい。無理だったら別の手考えるし。ちょっと前まではこういう時に立ち会い頼んでた知り合いがいたんだけど、仕事の都合で地方に引っ越しちゃってさ。それでもしかして時籐に頼めないかなって思ってたんだけど……」
「立ち会いって……そこにいればいいの?」

 更科は頷いた。

「うん。それだけでいい。もちろんそれなりの報酬は出すよ。けど全然無理にじゃなくていいから」
「やるよ」

 食い気味に返事をした時籐に、相手が目を丸くする。

「……いいの?」
「うん。予定が合えば」
「予定は全然そっちに合わす。そっか、マジで助かるよ」
「いつやんの?」
「早ければ今週の週末にでもって思ってたんだけど、空いてたりする?」

 今週末は珍しく出勤の予定もなく、買い物に行こうかと思っていただけだったので頷く。

「空いてるよ。土日どっちでも」
「じゃあ土曜日かな。佐伯さん午前中空いてるって言ってたはず……ちょっと待ってね」

 更科はそう言ってスマホを操作し、クライアントとメッセージのやり取りを始めた。
 そして三、四分後、確認が取れたらしい更科が再び口を開く。

「うん、大丈夫だって。場所も取れたし十時頃から始めたいって話なんだけど大丈夫?」
「うん」
「じゃあそのちょっと前に家に迎えに行くよ。この近くだよな?」
「そう」
「じゃあ九時半ぐらいに車で行くわ。あとで住所メッセージして」
「わかった。どこでやんの? 事務所とかないって言ってたよな?」

 前に更科が言っていたことを思い出して聞くと、相手が答える。

「レンタルスペース。普通のマンションの部屋みたいなとこ時間で借りれるんだよ。普通はパーティゲームする時とか女子会とかで使うみたいだけど」
「へえ」
「カラオケみたいに外から部屋の中見えないからいつもそういうとこでやってるんだ」
「なるほど。わかった」

 頷くと、更科は大きく伸びをするように後ろにのけぞった。

「いや~、助かったよ。マジありがと。本当どうしようかと思ってたんだ」

 そうしてポケットから財布を取り出し、五千円札を差し出す。

「前払いしとくな。急だったし、これで。裸で悪いけど」
「いやいや、いいよ」

 時籐は差し出された紙幣を受け取らずに首を振った。
 すると、更科が身を乗り出して紙幣を時籐の目の前まで滑らせる。

「いやいや」
「いやいや、マジでいいって」

 時籐はその紙幣を更科に突き返した。
 すると、更科は困ったように眉を下げた。

「いやいや、受け取ってくれよ」
「じゃあ今日の飯奢ってよ。それでいいわ」

 そう言うと、更科は渋々紙幣を財布にしまった。

「悪りぃな」
「いいって。俺も更科の仕事に興味あったし、見学がてらってことで」
「あ、そうなんだ?」

 時籐は頷いた。

「だって人の番解消させられるなんて見てみたいし。マジでうなじ噛むだけなん?」
「うん。ただ時間はかかるよ。長いと三時間とか。クライアントさんのフェロモン変わるまで待たなきゃいけないから」
「フェロモン変わんの?」
「そう。長時間近くにいると変わる。で、変わったら首噛む感じかな。接触すればもっと早いけど、そんなことできないしな」
「接触?」
「うん。父親の時がそうだった。ふざけて抱きついて噛んだら一瞬で番解消したよ。けど、クライアントさん相手にそんなことできないだろ?」
「なるほど……」

 それは非常に興味深い話だった。
 一般に、アルファがオメガと番解消する際には自分の固有フェロモンを変化させ、オメガを拒絶する。
 この固有フェロモンというのは個々人ごとに固有の、いわば指紋のようなフェロモンであり、アルファに限らずオメガにも新ベータにもあるものだ。
 番契約の際には、二人が互いに相手の固有フェロモンに反応するようになり、他の人から発される性フェロモンへの反応性が低くなるか全く反応しなくなる。それに加え、自身が発する性フェロモンもごく少量かゼロになるのが普通である。
 そのため、基本的には番以外の相手に惹かれなくなる。

 ただ、ほとんどのオメガが番成立後、性フェロモンに全く反応しなくなるのに対し、アルファではその割合は少なく、多くはまだ他のオメガの性フェロモンに若干は反応する状態である。
 そのため、一部のアルファは番以外のオメガと関係を持ったり、酷いときには番を捨てて新たな番を作ることもあった。
 この時にアルファが行うのが番解消であり、自身の固有フェロモンを変えることによって番のオメガを拒絶する。また、この固有フェロモンを変えるという行為は基本的にアルファしかできず、故にオメガや新ベータ側からの番解消はできない。
 だから、ある程度の権利意識のあるオメガや新ベータはアルファを敬遠するのが普通だった。

 ところが、もし更科の能力が本当だとすれば、アルファと番ったオメガや新ベータにとって大きな助けとなる。番解消後のダメージを恐れて番の暴力や浮気に耐えるオメガは多いし、またオメガのように番解消によるダメージがない新ベータでも相手がなかなか番解消してくれず別れられない、といったことがままあるからだ。
 そのため、更科の能力には非常に興味があった。
 一般にアルファは番解消の際に自身のフェロモンを変化させる。だが、更科の場合にはオメガのフェロモンを変えてから番を解消させるという。
 その際に近づいたり接触したりする必要があるということは、更科が発する何らかの物質がオメガの中枢神経系に作用し、体質を変えている可能性がある。
 その時に何が起こっているのかを解明したくなり、時籐は相手に質問した。

「相手ヒート中じゃなくてもできんの?」
「うん。ヒート中にやったことはないからどうなるかわからない。一応安全性も考慮してヒートの時はやらないんだ。反応はしないはずだけど、万一ってこともあるから」
「ふうん。番解消したときはわかるの?」
「クライアントさんはすぐわかるみたい。俺は鼻効かねえからわかんねえけど」
「なるほど……」

 この能力と更科がアルファ亜種であることが関係しているかはわからない。
 体質のことを聞いてからアルファ亜種について調べ始めたが、番を作れない危険なアルファであることと、人よりは先天性疾患を持ちやすいこと以外にこれといった情報はなかった。
 久々に母校の大学に足を運んでみて大学図書館で調べたり、データベースを検索してみたりもしたが、アルファ亜種に関しての先行研究は少なく、番の解消に言及したものは一つも見当たらなかった。
 だから、更科が例外なのか、アルファ亜種全体がそうなのかはいまだにわからない。
 しかし、更科のような偶発的事故がそうそう全員に起こるとも思えないから、後者である可能性もかなりあると考えている。
 もしそうだとすればこれは世紀の発見である。欠陥品として見下されていたアルファ亜種が実は不幸なオメガや新ベータの救世主であるという可能性――時籐はそれに惹かれてこの頃は少し仕事をセーブし、休みになるとインターネットや図書館等を使ってそのあたりのことを調べていた。
 聞けば聞くほど興味深い、と色々考えていると、何かを察したらしい更科はいたずらっぽく笑って時籐の顔を覗き込んだ。

「お前、俺のこと研究材料にしようとか考えてないよな?」
「まあ……できるもんならしたいけどね」

 それに冗談で返すと、更科が愉快げに笑った。

「いやでもマジな話さあ、バレたら絶対人体実験されると思うんだよ。都市伝説とかじゃなく。だってそう思わねえ? 周りで見たことも聞いたこともないんだぜ、俺みたいなことできる奴」
「確かに。人にはあんま言わない方がいいかもな」

 すると更科は頭の後ろで両手を組んでのけぞった。

「本当だよ」

 アルファ亜種に関してはまだまだわからないことも多いと、数少ないアルファ亜種に関しての情報サイトに書いてあった。
 遺伝性のものなのか突然変異なのか、なぜ性フェロモンが出ないのか、等々解明されていない謎も多い。
 現代の科学技術をもってしてもわからないのだ。
 だから更科の言う人体実験される、という話は決して誇張ではないと思う。特に番を解消させられるという能力があればなおさら。
 時籐はその後運ばれてきた食事に手を付け、いつものようにゲームの話に興じながら、いつかその謎を解明したい、と密かに思うのだった。

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