碧眼の暗殺者

冬木水奈

文字の大きさ
上 下
10 / 14
第一章 東洋の黒真珠

しおりを挟む
 事件が起きたのは、それから十日もしないうちのことだった。
 計画も最終段階に入り、いざ出発というところでその大事件は起こった。
 発端は、想いが通じ合ったシンとの関係をルカに知られたことだった。
 その日、偶然マウリの屋敷を訪問したルカは、シンがロマーノの家からそちらに移動したことを知った。
 そして、それはなぜかとマウリを問い詰めた。
 仕方なく好きになった、と告げると、ルカは今すぐ別れろと言ってきた。
 それに反発すると口論となり、ルカはついにシンを中傷するようなことを言った。それはシンの前職を引き合いに出した、絶対に許せない侮辱だった。

 その言葉を吐かれた瞬間、マウリは理性と意識を失った。
 そうして意識を引き継いだ最も凶暴な交代人格・ラザロがルカを殺そうとしたのである。
 ファミリーの男としてルカにも当然武道の心得はあるし、体格はマウリよりいい。
 だがマウリ、もといラザロは、幼い頃より人殺しの訓練をされた殺人鬼だった。
 ある日、それまでいた施設に来たロマーノに引き取られてから訓練が開始され、十歳ですでに『仕事』をしていたからだ。

 マウリはまだ二十代半ばだが、その短い半生で両手両足の指ではきかないほどの人を殺している。
 だから、どうすれば人間がより迅速に死ぬかを誰よりも心得ていた。
 そのマウリとドンの嫡男として大切にされてきたルカとでは踏んできた場数が違う。
 ましてやその時に出てきたのは最も攻撃的な人格のラザロである。ルカに勝ち目があるはずもなかった。
 ラザロは部屋の花瓶を割り、的確にルカの頸動脈を掻っ捌いたーー正確には掻っ捌こうとした。
 わずかに手元が狂ったのはその瞬間に別室にいたシンが駆け込んできて叫んだからだ。
 シンの悲鳴がルカを紙一重のところで救った。
 だが、傷は深く、ルカはその後二週間の入院を余儀なくされた。

 一方マウリは殺人未遂罪で逮捕され、警察署の留置場にぶち込まれた。
 通常揉め事は内輪で処理するファミリーがマウリを警察に突き出したのは、それだけ事が重大だったからだ。
 ドンの息子を義理の従兄弟が襲ったーーそれは、ファミリー内での手出しを禁じている組織では由々しき事態だった。
 マウリには叛逆の意志があるとみなされ、ファミリーから見捨てられたのだ。それにはマウリがバルドーニの血を引いていなかったことも大いに関係しているだろう。
 留置場で殺されてもいい。そういう判断だった。

 だが、マウリは留置場ぐらいでくたばるようなタマではなかった。
 そこで戦略的に身を守り通し、やがて保釈の日を迎えた。
 てっきり裁判にかけられ刑務所にぶち込まれるだろうと思っていたマウリを迎えにきたのは、他でもない被害者のルカだった。
 ルカは、あっけにとられて自分を見るマウリに檻の外から宣告した。

「ハタケヤマとは手を切れ。そうしたら今回一回だけは許す」
「……」
「あいつは九龍のスパイでお前から情報を取ろうとしているだけだ。それくらいわかるだろう? 惑わされるな、お前の家族は俺たちだ。帰ってこい、ファミリーに」
「でも、シンは……」
「でももクソもない。今ここで決めろ。ファミリーを取るか、あの男を取るか」

 ルカの首元の傷はまだ抜糸されていない。
 痛々しい切り傷が首の左に沿ってあった。それをこの手で付けたのだ。
 マウリは沈黙ののちに聞いた。

「……俺を、許せるのか?」
「あれはお前じゃなかったからな。そうだろ?」
「まあ……」
「まぁ、手際の良さには感心したがな。ナイフ一本ない部屋であれだけ立ち回れるとは……お前の悪名も轟くわけだ。だが、これだけで縁を切ろうとは思わない。家族だろ?」

 ルカはそう言って少し表情を和らげ、こちらを見た。その目に怒りの色はない。
 マウリを案ずるように見る鳶色の目は、バルドーニ直系の証だった。

「でも、皆が許さねえだろ。帰ったら俺、殺されるよ」
「そんなことはさせない。俺が守ってやる」

 その力強い言葉に既視感を覚える。
 ルカは子供の頃もよくこうして励ましてくれた。訓練が辛くてどうしようもなかったときも、人を殺して食事が喉を通らなかった日も。
 歳は十ほど離れていたが、ルカは兄のような存在だった。
 家族のいなかったマウリが初めて手に入れた兄弟……。

「俺……マジでごめん。急に訳わかんなくなって……」
「それ以上はいい。戻ろう」

 そう言って鉄格子の隙間から差し出された手を握る。この状況下においてはその選択肢しかなかった。



 ルカは、マウリに私的制裁を下した、という建前がほしいからしばらく家に滞在してくれと言った。
 反対する理由もないマウリは警察署からそのままルカの屋敷へ行き、十日余りそこで過ごした。
 そこでルカに何かをされることはなく、ただ部屋から出ないでくれと言われただけだった。
 だが、まもなく屋敷を訪問したロマーノにはしこたま殴られた。
 義父はマウリが起こした騒動に激怒しており、次やったら勘当だと言い、ルカには自ら頭を下げた。
 ロマーノはドンの末弟ではあるがその座を奪い取ろうという野心はなく、ドンに忠誠を誓っている。
 その息子に自分の息子が手を出したとなれば怒るのも当然だろう。

 マウリは謝罪し、以後こういったことがないよう気を付ける、と言った。
 ロマーノはそれで一旦留飲を下げたが、こんなとんでもないことが起こったのはマウリの病気のせいだ、と言い、これまで治療を担当していた医師をクビにし、新たな医師のもとで積極的な治療に取り組むよう命じた。
 だが、多重人格障害の治療はしばしば困難を極める。治療のゴールは人格の統合であるが、そのプロセスで人格分裂の原因となった精神的トラウマと向き合わなければならないからだ。
 前の担当医であるベネッリ医師はこれを試した際にマウリの精神的負担が大きすぎたことから以後人格の統合は諦め、副人格は温存し、各人格間の協調関係を築くことに尽力してきた。
 また、精神的安定を最重要視した治療を施し、マウリの精神を安定させることで間接的に副人格の出現頻度を減らすことにも成功していた。
 以前はしょっちゅう出てきては暴走していたラザロがほとんど出なくなったのはこの医師の治療のおかげである。

 だが、今度の担当医であるカルレッティ医師のアプローチはそれとは真逆だった。
 問題の根本を治療し、全人格を早期に統合することを目標としたのである。おそらくはロマーノの指示でそうなったのだろう。
 だがこの治療はマウリにとって非常に辛いものだった。
 過去に負った心の傷を曝け出すよう強要され、その苦痛で何種類もの薬を飲まなければならなくなったのである。
 元々あった不安障害も悪化し、うつ病も併発したため、入院治療が必要になった。
 その時点でルカが介入し、これ以上無理な治療をやめるようロマーノに進言した。
 マウリの場合には幼少期のトラウマが深刻であるため、解離障害の根本治療は無理であろう、これ以上続ければマウリが壊れるだろう、と言ったのだ。
 それで統合治療はやめになり、以前の担当医に戻った。

 この時点でマウリが騒動を起こしてから約三週間が経過していた。
 病気の治療と、一族会議で謹慎処分が下ったこともあって、その間シンの友人の救出計画は延期された。
 正直とてもそれどころではなかったのである。
 ルカとの約束でシンとは会うことすらできなかったが、いつも心のどこかにはシンがいた。
 本音を言えばシンと一緒になりたい。だが無理なのだ。
 ルカとの約束は破れないし、なにより急速な統合治療で精神的ダメージを負って未来に希望が持てなくなっていた。
 シンを選んだとして、ファミリーを出た自分に何ができる?
 暗殺業を生業にして各所から恨まれている自分が、ナポリの外でシンを守り切ることができるのか?
 そして豊かな暮らしをさせてやれるのか?
 とてもそうは思えない。
 こんな欠陥品の自分がシンを幸せにできるとは思えなかった。

 とりあえずシンを虐待しているハタケヤマは折を見て消す。これは決定事項だ。
 ハタケヤマはシンの人生には必要ない。あいつから解放されればもっといい人生を送れるだろう。
 だがだからといって自分が要るかと問われれば、それには疑問を抱かずにはいられなかった。
 シンにはもっと「まともな」男がふさわしい。自分のような不良品などではなく。
 そう結論付けたマウリは、シンを諦めることにしたのだった。
 しばらくこっそりと手紙のやりとりだけをしていたシンにそう伝えると、一度会って話したいと言われたが、会えば絆されるだろうと思って拒否した。
 そして、もうこの手紙で最後にすると告げ、シンとの関係を終わらせたのだった。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

どうやら夫に疎まれているようなので、私はいなくなることにします

文野多咲
恋愛
秘めやかな空気が、寝台を囲う帳の内側に立ち込めていた。 夫であるゲルハルトがエレーヌを見下ろしている。 エレーヌの髪は乱れ、目はうるみ、体の奥は甘い熱で満ちている。エレーヌもまた、想いを込めて夫を見つめた。 「ゲルハルトさま、愛しています」 ゲルハルトはエレーヌをさも大切そうに撫でる。その手つきとは裏腹に、ぞっとするようなことを囁いてきた。 「エレーヌ、俺はあなたが憎い」 エレーヌは凍り付いた。

【完結】ぎゅって抱っこして

かずえ
BL
幼児教育学科の短大に通う村瀬一太。訳あって普通の高校に通えなかったため、働いて貯めたお金で二年間だけでもと大学に入学してみたが、学費と生活費を稼ぎつつ学校に通うのは、考えていたよりも厳しい……。 でも、頼れる者は誰もいない。 自分で頑張らなきゃ。 本気なら何でもできるはず。 でも、ある日、金持ちの坊っちゃんと心の中で呼んでいた松島晃に苦手なピアノの課題で助けてもらってから、どうにも自分の心がコントロールできなくなって……。

王子を身籠りました

青の雀
恋愛
婚約者である王太子から、毒を盛って殺そうとした冤罪をかけられ収監されるが、その時すでに王太子の子供を身籠っていたセレンティー。 王太子に黙って、出産するも子供の容姿が王家特有の金髪金眼だった。 再び、王太子が毒を盛られ、死にかけた時、我が子と対面するが…というお話。

私に告白してきたはずの先輩が、私の友人とキスをしてました。黙って退散して食事をしていたら、ハイスペックなイケメン彼氏ができちゃったのですが。

石河 翠
恋愛
飲み会の最中に席を立った主人公。化粧室に向かった彼女は、自分に告白してきた先輩と自分の友人がキスをしている現場を目撃する。 自分への告白は、何だったのか。あまりの出来事に衝撃を受けた彼女は、そのまま行きつけの喫茶店に退散する。 そこでやけ食いをする予定が、美味しいものに満足してご機嫌に。ちょっとしてネタとして先ほどのできごとを話したところ、ずっと片想いをしていた相手に押し倒されて……。 好きなひとは高嶺の花だからと諦めつつそばにいたい主人公と、アピールし過ぎているせいで冗談だと思われている愛が重たいヒーローの恋物語。 この作品は、小説家になろう及びエブリスタでも投稿しております。 扉絵は、写真ACよりチョコラテさまの作品をお借りしております。

目が覚めたら囲まれてました

るんぱっぱ
BL
燈和(トウワ)は、いつも独りぼっちだった。 燈和の母は愛人で、すでに亡くなっている。愛人の子として虐げられてきた燈和は、ある日家から飛び出し街へ。でも、そこで不良とぶつかりボコボコにされてしまう。 そして、目が覚めると、3人の男が燈和を囲んでいて…話を聞くと、チカという男が燈和を拾ってくれたらしい。 チカに気に入られた燈和は3人と共に行動するようになる。 不思議な3人は、闇医者、若頭、ハッカー、と異色な人達で! 独りぼっちだった燈和が非日常な幸せを勝ち取る話。

執着攻めと平凡受けの短編集

松本いさ
BL
執着攻めが平凡受けに執着し溺愛する、似たり寄ったりな話ばかり。 疲れたときに、さくっと読める安心安全のハッピーエンド設計です。 基本的に一話完結で、しばらくは毎週金曜の夜または土曜の朝に更新を予定しています(全20作)

幽閉王子は最強皇子に包まれる

皇洵璃音
BL
魔法使いであるせいで幼少期に幽閉された第三王子のアレクセイ。それから年数が経過し、ある日祖国は滅ぼされてしまう。毛布に包まっていたら、敵の帝国第二皇子のレイナードにより連行されてしまう。処刑場にて皇帝から二つの選択肢を提示されたのだが、二つ目の内容は「レイナードの花嫁になること」だった。初めて人から求められたこともあり、花嫁になることを承諾する。素直で元気いっぱいなド直球第二皇子×愛されることに慣れていない治癒魔法使いの第三王子の恋愛物語。 表紙担当者:白す(しらす)様に描いて頂きました。

ヤクザと捨て子

幕間ささめ
BL
執着溺愛ヤクザ幹部×箱入り義理息子 ヤクザの事務所前に捨てられた子どもを自分好みに育てるヤクザ幹部とそんな保護者に育てられてる箱入り男子のお話。 ヤクザは頭の切れる爽やかな風貌の腹黒紳士。息子は細身の美男子の空回り全力少年。

処理中です...