理葬境

忍原富臣

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最終話「別れの時」

~最後の祈り~

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 涼黒りょうこく陸奏りくそうの雰囲気と言葉の重圧に押し黙ってしまった。いくら世間を知らないとはいえ、陸奏の抱える感情の重みを、涼黒はなんとなくだが理解しているようだった。
 海宝かいほうはそれでも、うろたえる事なく陸奏へと丁寧に声をかけた。

「貴方も十分、私や翠雲すいうんさんが持ってないものを持っていますから、自信を持ってください」
「そうでしょうか……」

 陸奏は己の虚無きょむ感を胸に抱いて、その表情には影が差していた。しかし、海宝は陸奏へのはげましを止めることはしない。

「陸奏には陸奏の良い所があります。一番近くで見てきた私が言うのですから、間違いありません」
「……そうだといいですけど」
「ふふっ、時間はありますからゆっくり自分で見つけてください。さぁ、それよりも翠雲さんからの手紙をどうぞ」

 陸奏は受け取った手紙をまじまじと見つめる。手紙には『陸奏へ』と書かれていた。

「読まないのですか?」
「……また、後で読みます」
「そうですか」

 海宝は微笑みながら返事を返した。
 陸奏が懐に手紙をしまう間、海宝は一つ気になっていた事を涼黒へと問いかける。

「涼黒さん、少しお尋ねしてもいいですか?」
「えっ」

 急に話を振られた涼黒はハッとして海宝へと顔を向ける。

「なん?」
「村の奥、畑の向こう側には何かあるのですか?」
「あー、柵のとこじゃろ?」
「ええ」
「すまんけんど俺もなんも知らんくてさ、婆ちゃんが時々夜中に行きよったんは知っちょるけど、あっこからは変な匂いするけん俺好かんの」
「そうでしたか……」

 少し声音を下げた海宝に、手紙をしまい終えた陸奏はいつものように自然と声をかけた。

「何か気になる事でもありましたか?」
「いえ、何かなと少し気になっただけですから気にしないでください」
「そう、ですか」

 海宝の返事に陸奏は首を傾げながらも納得した。

「……」

 一瞬、部屋の空気は急停止したようにピタリと止まった。
 入口の戸から漏れる灰色のような白い光が、海宝の札の隙間から瞳に入り込んだ。吸い込まれるような、導かれるような雰囲気に、海宝は思考がぼやけるような感覚を覚えた。

「……」

 誰も次の一言を発することが出来ずに時間が過ぎていく。
 海宝は明るい外の日の光をじっと眺めた後、夕暮れまでには、最期までには時間があることを心の中で噛み締める。
 最後の見納めとして、海宝は「散歩」することを陸奏に伝えた。

「少し散歩でもしてきますかね」
「なら私も!」
「いえいえ、少し散歩するだけですから」
「でも、時間通りに帰って来てくれないですし……」
「今回はちゃんと戻ってきますから」

 海宝はいつも通り微笑む。海宝自身も最期を迎えるには猶予があるため落ち着いていた。よって、陸奏に悟られることはなかった。
 陸奏は海宝の申し出に悩んでいる。

「うーん……」
「供養参りは終わりですから、陸奏もゆっくりしてください」
「うーん……分かりました。天気が悪いので気を付けてくださいね」
「ええ、ありがとうございます」

 海宝がすっと立ち上がり笠を手にする。

「では、涼黒さん、陸奏を頼みますね」
「任せときぃ」
「ふふっ、ありがとうございます」
「気を付けてくださいね!」
「いってらっしゃいー」
「はい」

 海宝は優しい声で返事をした後、戸を開けて笠を身に着けた。身支度を整えた海宝はそのまま畑の方へと足を運んだ。

 畑の大きさは端から端を歩くには少し距離を感じるくらいで、四角く囲まれた畑の敷地の土は柔らかそうに、一定の間隔を空けて直線上に隆起していた。その頂点には何かの野菜であろう葉っぱが等間隔で並んでいるが、色は茶色く枯れ果てている。

 海宝はそのまま敷地の端を歩いて村の奥、百合の花が咲く山とは別の頂きを見せるもう一つの山へと近付いていく。

「っ……」

 目の前から吹く風には異臭が混じり、海宝は思わず足を止めた。だが、その次には後方から吹いてきた風が異臭をかき消し、百合の香りがふわりと海宝の周囲に漂った。

 海宝は再び歩き出して柵の方へと近付いていく。畑の敷地からも離れているその柵は、丸太や木を組み合わせて作られていた。
 鼻がひん曲がりそうな臭いは柵の向こう側から手を伸ばすようにこちらへと流れて来ているようだった。

 海宝が柵沿いにほんの少し歩くと扉があるのが確認できた。海宝は取っ手の部分を視界の端から探した。

「……あらあら、不用心ですね」

 かけられた南京錠は本来、柵と扉を繋ぐもの。しかし、閉じた者が間違えたのだろう。南京錠は扉だけを咥えて口を固く閉じていた。柵との関連性を失った扉はそのまま海宝に押されて開けられていく。

 山の中に木々が生い茂る手前、坂になる手前にある堀から異様な臭いが海宝の鼻を刺激する。腐敗の進んだ肉の臭いに人間の食べたであろう汚物の臭い。

「この臭いは……」

 海宝は本当の黒百合村の弔いを行わなければならなかった。
 八十七箇所の供養参りはここで八十八箇所目となる。
 海宝が袖で鼻を押さえながら堀に近付く。

「っ……!」

 海宝は急に飛び立った無数のカラスに思わず後ろへと退いた。カラスの飛び立った勢いで臭いはえぐみを増していく。鼻を突くような酢のような臭い。
 ただ「悪臭」や「異臭」と呼ぶには言葉足らずなその堀の中は地獄絵図と化していた。蟲が湧き、肉が削ぎ落ちた人骨が幾つも重なり合っている。

「うっ……」

 聞こえるはずのない人々の叫び声が、耳鳴りのような音が、海宝には聞こえたような気がした。
 海宝は落ち着きを取り戻すため深呼吸をするが、吐き気がするほどの臭いに苦痛の表情を浮かべる。

「ごほっ……ごほっ……」

 常日頃、落ち着き払っている海宝ですら、この臭いに慣れるには時間を要していた。

「…………はぁ……はぁ」

 ようやく悪臭に慣れ始めた海宝は堀へと手を合わせて一礼をした。

「遅くなってしまい申し訳ありません……」

 そう呟いた海宝はゆっくりと堀の手前に正座し手を合わせ、死者の為に目を瞑って黙祷を捧げた。

 死臭、悪臭、蟲の羽音、カラスの足音に飛び立つ羽ばたき、仄かに香る百合の花と木々の揺らぐ音。美しさの裏側に隠された絶望がこんなにも律儀に姿を見せている。
 海宝は自然と涙を零していた。生きとし生けるもの、全ては平等でなければならない。それらは平等に終わりを迎えなければならない。でなければ……でなければ、生まれた大切な命が救われない……。

「……………………」

 海宝は今までの旅路で最も長い祈りを捧げた。
 時間が止まったかのような空間が周囲に広がっていく。世界が静寂に包まれていく。

 海宝が祈りを捧げている間、海宝を取り巻いているカラスたちでさえも、首を微動させるだけで無音を貫いていた。
 だが、それでも世界は海宝を無視して時を進めていく。時間が止まることはない。
 弔いを終えた海宝は少しだけ目を開いた。

「……」

 瞑想にも似た状態の海宝は微かな音と地面の揺れを感じとった。

「おやおや……」

 馬が地面を蹴りつける音、その衝撃で生じた地響き……遠くではあるが微かに感じ取れるそれは翠雲と剛昌のものであると海宝は理解した。

「思ったよりも早い到着ですね……」

 海宝は近付いてきた死に対してただ微笑んでいた。

「さてと、もう少しだけ祈らせてくださいね……」

 海宝はそうしてその場で祈りを捧げ続ける。

 翠雲すいうん剛昌ごうしょうが思ったよりも早く黒百合村に着いてしまった理由。
 火詠ひえいは伝え損ねてしまっていた。

夕方・・に黒百合村に来てください』ということを――
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