理葬境

忍原富臣

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最終話「別れの時」

~決意の朝~

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「何……?」

 唐突な翠雲すいうんの申し出に剛昌ごうしょう怪訝けげんな顔で睨みつける。
 剛昌は最初から大臣の座を退しりぞくことを決意していた。翠雲には王城に残って国を守ってもらわなければならない。辞められるわけにはいかなかった。

「お前が責任をとる必要は無い」

 剛昌が力強い口調で翠雲に言い放つ。
 しかし、翠雲もまた自分の意見を曲げるわけにはいかない理由があった。

「これは責任でも何でもありませんよ」

 翠雲は微笑えんでいるが発した声音は低かった。

「ならば何故だ」

 剛昌の攻めるような問いかけに翠雲は大きく息を吸って己を落ち着かせる。

「剛昌……」

 翠雲は真剣な眼差しを剛昌へ向けて己の考えを話した。

「海宝殿が消えた後……陸奏には新しい村に残ってもらわなければならない。そうなれば、寺に残された僧侶達の指針が失われてしまう。支えや芯がなければ海宝殿の意思は散ってしまう……しかし、あの方の意思や考えは後世に受け継がねばなりません……」
「……」

 翠雲の考えは責任から来るものではなく、この先を考えての意見だった。剛昌は相槌も打たずに目を伏せ、ただ翠雲の言葉に耳を傾けていた。
 筋が通っているだけに剛昌は何も言えず沈黙するしかなかった。
 翠雲は少し間を空けた後、寺の様子をそれとなく剛昌に伝える。

「寺は二ヵ月前よりも駆け込んでくる者もだいぶ減りました。皆の容態も回復に向かっています。貴方の側近である泯も……」
「そうか」

 剛昌はただ一言、返事をする為だけに呟いた。
 湿った空気が窓から流れ込み、部屋の中はどんよりとその重みを増していく。
 剛昌が重たい口を開いて翠雲の名を呼んだ。

「なぁ、翠雲よ」
「はい」

 俯いた剛昌が吐き捨てるように呟く。

「私は何を捨てればよいかな……」

 剛昌は思い詰めた顔を下に向けた。海宝は命を捨てて皆を救おうとしている。翠雲は残された者達の為に大臣という立場を捨てる……なら、ならば私は何を捨てればいいのか。
 剛昌は何も出来ないままの自分への怒りと呆れから不敵に笑みをこぼした。

「捨てる必要なんてありません。自分から拾い上げる……救いに行けばいいだけですよ」

 翠雲は微笑みながら言うが、瞳の奥にある哀愁は隠しきれていなかった。

「救い……?」
「海宝殿が死者の魂を救うために旅に出ました。でしたら、私は寺に住む者達を救い、貴方は王城に住む者達を救えばいいのです。今ある命を大切にし、零れ落ちてしまいそうな人達を、私達は助ける義務がある」

 翠雲は剛昌を見つめて優しく話しかけるも、剛昌は呆れながら翠雲に問いかけた。

「戦で散々人を殺してきた私達がか?」
「過去を消すことは出来ませんが……これからを変える事は、可能です……」

 剛昌と諭すように語り掛けていた翠雲の声が小さくなっていく。

「はぁ……」

 剛昌は溜め息を吐き、頭を抱えながら一言だけ翠雲に呟いた。

「強がるな」
「強がってなどいません……」
「見栄を張った所で仕方がないだろうが」
「見栄など……」
「……」

 目のやり場に困った剛昌は腕を組んでそのまま目をつぶった。
 翠雲は知らないうちに涙をこぼして佇んでいた。必死に取りつくろっても心の嘆きは抑えることが出来なかった。

「今更、取り繕うこともなかろう」

 剛昌の優し気な声に翠雲は震える唇を動かしながら言い訳をした。

「こうでも振る舞わないと……耐えられる訳がないでしょう……」

 泣きながら微笑み続ける翠雲の感情は既に制御が効かなくなっていた。
 剛昌は黙って天井を見上げ、翠雲に引っ張られないように、芯が折れてしまわないように、目に浮かぶものを瞳の奥に押し込んだ。

「とりあえず拭け」
「そう、ですね……」

 翠雲は自身の袖で涙を拭きとっていく。
 その間、剛昌は机の上に置いた手記を手に取り見つめ続けていた。「己が始めたのなら、最後は己で終わらせなければ」と、剛昌はぐっと手記を握り締める。
 部屋の窓から湿気た空気が部屋の中に侵入し、剛昌の背中を優しく押した。

「さて……」

 剛昌は机に手をついて立ち上がり決意する。

「終わらせに行こうか」

 剛昌は机に立て掛けていた一振りの刀を手に取り、その顔つきは何か決心したような毅然とした態度だった。
 剛昌が刀を携えようとした時、翠雲は「待ってください」とその動きを止めようとした。

「剛昌、その役目は私が……」
「これだけは譲れん」

 剛昌の瞳が力強く翠雲を見つめ返した。

「しかし……」
「弟の前で師である海宝を殺したくはなかろう」
「それとこれとは別です……」

 剛昌は翠雲の制止を無視して刀を身に着けた。そして、翠雲に近寄った剛昌はぐっと力を込めて翠雲の肩を掴んだ。

「頼む……」

 自分にはこれしかないのだと言わんばかりに、剛昌は唇を噛みしめる。

「…………分かりました」

 剛昌の言葉を否定することは、今の翠雲には出来なかった。

「助かる」

 剛昌は翠雲から手を離して扉の前に立った。

『――仲間の為、恨まれようとも汚れ仕事は私達の宿命でしょう?』

 泯の言葉が頭に浮かぶ。これは今まで泯と共にやってきた延長線だと、剛昌は自身に言い聞かせる。

 海宝を殺すこと、それはつまり、他の大臣や民から非難を浴びるであろう行い……この国では生きていられなくなるであろう行為である。
 海宝が命を捨てるなら、この国を捨てる覚悟を剛昌は決意した。
 だからこそ、剛昌は『破壊神』として強く、気高く振る舞う。

「行くぞ」
「ええ……行きましょう……」

 剛昌が扉を開く。
 こうして、二人は始まりであり、終わりの地である黒百合村へと出発した。
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