貴公子、淫獄に堕つ

桃山夜舟

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序章 潜入

邪教の社

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 鬱蒼と生い茂る樹々の間を、牛車がごとごと進んでいく。

 車内には清げなる公達きんだちが一人。
 雪を欺く白い肌に、黒目がちの大きな瞳。
 形の良い唇は、水を含んだようにしっとりと赤い。
 華奢な体に紫苑色の狩衣かりぎぬを纏い、腰まで伸びた艶やかな黒髪はうなじの後ろで一つに括られている。
 烏帽子えぼしがないのは当世風である。
 平遠京へいおんきょうに都が移され、三百年程。
 今では烏帽子の風習は廃れ、儀礼の場以外で身に着ける者はほとんどいない。

 公達────楪真霧ゆずりはのまきりはその繊細な美貌を曇らせ、溜息をこぼした。
 故あってさる社に向かう道中なのだが、思いの外に遠く、出立してから早二刻は過ぎている。

 物見窓から外を眺めやり、騎馬で先導する二人の武者に問いかけた。

くだんの社とやらにはまだ着かぬのか」
「まもなくでございます」

 返ってきた応えに柳眉をひそめる。
 半刻前に尋ねた時もそう言っていたのに。

 だが、彼らを声高にとがめることはできない。
 なぜなら、彼らは真霧の従者ではなく、左大臣の家人けにんだからである。


 ことの起こりは数日前。

 真霧は突然、左大臣・葛原影親くずはらのかげちかに召し出された。
 当代一の権勢を誇る影親に対し、こちらは祖は帝に連なる血筋ではあるものの、ここ三代は高位に昇ることもない、いわば没落貴族。
 深い交流もない。
 何の用かと訝りながらまかり越した左大臣邸で聞かされたのは、恐るべき話だった。

「……呪詛、でございますか」

 思わず聞き返した真霧を、高麗縁こうらいべりの一枚畳に座した影親は「声ををひそめよ」と咎めた。
 元より人払いはされていた。
 四方には几帳きちょうを巡らせ、切り灯台の灯は細く絞られている。

 齢三十五にして政を牛耳る影親は、弘徽殿女御こきでんのにょうごの父であり、東宮の祖父である。
 先帝崩御の際、次の東宮は帝の弟宮にと言い遺されたにも関わらず、影親は己の娘が産んだ一の宮を新たな東宮に据えた。
 それが五年前のこと。

 以来、影親は我が世の春を謳歌しているかに見えていた。
 だが、昨年、右大臣の娘である藤壺女御ふじつぼのにょうごが二の宮を産んだ。
 帝の寵は藤壺女御にうつったのではと人々の間で囁かれていた。

 その右大臣が呪詛を企てているようだ、と影親は言ったのである。

「二の宮を東宮にするため、一の宮を呪詛し奉っているという話だ」
「なんと……」

 真霧は衣の袖で口元を押さえ、絶句する。
 呪詛は大罪である。
 ましてや相手は東宮。
 まことであれば、流罪は免れない。

「そなた、魔斗羅教まとらきょうは知っておるか」
「民の間で信仰されているという……」

 遠い昔につ国から渡ってきたとされる魔斗羅神は享楽の女神で、一部の民から熱狂的に信仰されている。
 嫉妬深い女神は女嫌いのため、信徒は男のみだという。

「そうだ。その邪教の者どもを使い、大掛かりな呪詛を行う予定だと、私の手の者が聞きつけて参った。そこで、そなたに魔斗羅教の社に潜り込み、呪詛の証を手に入れてきてもらいたいのだ」
「私がでございますか」

 あまりに予想外の言葉に、思わず驚きの声が出た。

「そのような大事なお役目、なぜ私などに……」
「知れたこと。その美貌よ」

 ふ、と左大臣が目を細め、真霧をひたと見据えた。

「魔斗羅神は美しい者をこよなく愛するのだという。そなたならうってつけであろう」

 真霧はなんと返したものかわからず、目を伏せた。
 己で己の美醜の程度を把握するのは難しく、自分ではよくわからない。
 乳母めのとによれば、真霧は、幼い頃に亡くなった母によく似ているそうだ。
 母は生前、都一の美女と謳われていたという。
 実際、容姿のおかげか、宮中の女房たちから文をもらったり、時には公卿くぎょうたちから色めいた誘いをかけられることもあった。
 だが、どうにも色事には積極的になれず、二十歳になった今でもそうした経験は乏しい。
 なんとなく人付き合いも消極的になり、それが出世の妨げになっていることにも気付いてはいる。

 さらに、昨年、真霧は流行病で父を亡くしていた。
 後ろ盾を失った真霧が、こうして左大臣に目をかけられるなど、大変な幸運と言うべきなのだろう。
 それが、得体の知れない邪教の社への潜入などという、奇妙な役目だとしても。

 真霧はそっと目を上げて、影親をうかがう。
 影親の口元は笑みを形作っていたが、瞳は笑っていない。

 ────断ることはできない。

 時の権力者の頼みを断ることが何を意味するか、貴族の端くれであればわからないはずがない。

「……私に務まりますならば」
「おお、引き受けてくれるか。心配はいらぬ。潜り込む算段はつけてある。腕の立つ家人に供をさせよう」

 影親は機嫌良く、述べ立てた。
 元より真霧が断れるはずがないとわかっていたのだ。

 曰く、三日後の新月の夜に奉納祭が行われる。真霧には神子役として祭に参加してもらいたいとのことだった。
 特に信心深い方でもなく、これといった神事の経験もない。
 果たして己に務まるだろうか。
 不安を隠せない真霧に影親は言い含めた。

「案ずるな。祭祀は宮司が取り仕切るゆえ、そなたはただその指示に従えばよい」


 そうして、あれよあれよという間に、山間にあるという社に向かうことになったのである。

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