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本編 『起』

第十七章 それぞれの休日 ~トラウマ少年と変態淑女と迷子幼女の場合~

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 PTDSのカウンセリングと言っても多くのことはしない。

 少なくとも三上にとってはそうで、医者に近況を話して雑談して終わりだ。ひょっとして実際は裏で何かやっていたり、三上の言葉の端々を捉えて精神分析しているのかも知れないが専門家ではない彼には分からぬことで、やはり今日も雑談して終わった。

 鐘渡の教練校生となったこと、何だか濃い面子に囲まれたこと、思ったよりは気のいい連中でどうにかやっていけそうなこと、それよりも彼女な幼馴染の方が心配なこと。

 取り留めのない雑談を幾つか交わして、その壮年の男性医師はこう締めくくる。

『新しい環境は知れずとストレスを抱えることが多いから、期間を短く決めて息抜きをすると良いよ。まだ大丈夫、まだやれるって思った時には大体手遅れになっているからね』

 その助言にありがとうございます、と頭を下げて三上は診察室を出る。土曜日だと言うのに結構混んでいる待合室で呼ばれるまで待って、薬を受け取って会計を済ます。

 熱田クリニックと看板を掲げられた施設を出ると、横に建てられたブティックへと足を向ける。真正面から男の単身で入るのは少々気がひけるのだが、一応ここで待たせている人間がいるので意を決して足を踏み入れる。

 主に婦人服を取り扱っているので、下着売り場よりではないが身の置き場がない。きょろきょろと見回していると、店員と何事か会話している幼馴染の式王子を発見した。

「小夜」
「あ、正治君。―――では私はこれで」
「お嬢様!先生には何卒!何卒よろしくお伝え下さい!」
「はーい」
「お、おい?」

 適当に返事しながら、式王子は三上の手を有無も言わさず取って店を出た。

 病院の待合室が混んでいたので、隣の店で時間を潰してきますと出てった式王子だったのだが何故か店員に捕まっていたらしい。

「何かあったのか?」
「お母さんの新作をウチの支店に優先的に卸してくれって頼まれたんですよ。どうも私の顔が割れていたようでして」
「ああ、そう言う………」

 この店のグループ経営は綾瀬財閥だが、専属のデザイン会社は式王子家が運営するアトリエ・フォミュラだ。70人規模のデザイナーを抱えている総合デザイン企業ではあるが、本体は式王子呉服店とあって服飾関係が主だ。

 中でも彼女の母である式王子華夜は非凡な才能を見せ、フォミュラの中核的な存在である。その彼女の新作となると注目度も高く、それだけで客を呼べるとならば少しでも友誼を結びたいと思うのが商売人の性だろう。

 デザインセンスはともかく人としては社会不適合者なんですけどねぇ………とうんざりした表情で式王子が呟くが、娘であるお前も大概だよと三上は思わざるを得ない。少なくとも、社会適合者は近所の子供を集めて着せかえ人形にした挙げ句撮影会を開いたりはしない。

 式王子家の血は争えない。十五年生きてきて三上が学んだことだ。

「それで、どうでしたか?調子は」
「取り敢えず、薬は貰ったよ」

 街を当てもなくぶらつきながら、三上はそう答える。良くなった、とは言わないし言えない。長い付き合いだし、そんな嘘はすぐに分かるものだ。だからふわっとした言い方になる。

 PTSDを自覚した当初よりかはマシになったのは確かだ。

 一番酷かった時期は生活にまで侵入されていた。ふとした瞬間、寝ている時、はてまた目を瞬いた瞬間まであの狂信者達の顔が浮かび、過呼吸になるのはしょっちゅうだった。所謂パニック障害と呼ばれる症状も今日貰った薬のお陰で鳴りを潜め、今では殆ど服用していない。それぐらいまでは回復したのだ。

 ごく普通の生活を送るのであれば、大丈夫なレベルにまではなっている。此処から先、戦いから離れて一般市民として生きていくのならば問題ない。

 しかし三上は適合者である。現行法では全ての適合者は教練校で教練過程を受けることを義務付けられているし、任官後3年は徴兵の対象だ。今だって非常事態宣言がなされれば学徒動員が発動可能となり、実戦投入される。

 すぐに戦場に立つことはない―――はずではあるが、期限は決まっている。その時、他者を攻撃できないと言う制限がある三上にとっては非常に厳しい戦いとなる。いや、その結果自分が命を落とすのはまだいい。自業自得、自己責任、色々と言い方はあるが、自分が抱えた問題を解決できなかったのだから、それが自分に跳ね返ってくるのは仕方のない部分がある。文句があるなら問題を解消しておけばよかったのだ。

 だが、自分のとばっちりで他人が命を落としたら、どうすればいいのか。

 焦れば治るものも治らないのは理解している。だが、どうしたってその考えが脳裏を過る。



 もしかしたら、その他人は今度こそ式王子かも知れない。



 前回は運が良かった。だが次回はどうだろう。その次は。次の次は。

 自分の軽はずみな行動で次こそ誰かが死ぬかも知れない。何も行動できなくても死ぬかも知れない。そんな考えが常に三上の脳裏にこびり付いて離れない。

 それでも彼は彼女にこう告げる。

「そんなに気にしなくて良いんだぜ」
「その言い方、別れ話を切り出しているようで嫌です」

 虚勢は見抜かれている。

 誤魔化される程、付き合いは短くない。厄介だなぁ幼馴染って、と思いながら三上はポリポリと頬を掻く。

「それとも、別に好きな子でも出来ましたか?」

 んなわけあるか、とからかうような追撃に悪態をついて。

「結局、コレは俺の問題なんだ。切っ掛けは何であれ、俺が調子こいて無茶やって、俺自身がトラウマ作ったんだよ。大体、お前だって」
「私だって同じですよ。あの時の行動は後悔していません。多分、何度繰り返しても同じ行動を取るでしょうけど―――それでも、私が原因で正治君がそうなったのは事実なんです」

 鉛玉打ち込まれて痛い目見ただろう、と言おうとして被せられる。

「―――なぁ、あの事件が無くても、普通に付き合ってたのかな、俺達」
「だと思いますよ。ただもうちょっと、お互いに気兼ねは無かったと思いますけど」
「だよなぁ………」

 責任。義務感。贖罪。

 種類や呼び方は様々だが、およそライクな関係には不似合いな感情が二人を単なる恋人でいさせてはくれない。結婚でもして夫婦にでもなっていれば、話は違っていたかも知れない。しかし元の関係は仲が良かったとは言え幼馴染で、お互いの気持ちは確認し合っているものの、どうしてもあの事件が尾を引いている。

 三上は自分の迷いで式王子を守れなかったことを。

 式王子は自分の行動で三上の命を危険に晒したことを。

 今の関係に、破綻の兆しが見えているのを二人は薄々気づいていた。

「このままやっていけると思うか?」
「少なくとも私から別れを切り出すことはないですよ」
「時々お前が妙に男らしく見えるんだが………」
「まぁ、世間一般の好みは余り気にしてませんから。私が好きな男の子のタイプは正治君ですし」
「ナチュラルに殺し文句来るなぁ………」

 言葉とは裏腹に縋るような言い方だ。それは二人共、十分に理解している。

「こんなウダウダやってる俺がいいかぁ?」
「いつかちゃんと立ち直ることを知っているから待っているだけですよ」
「オイオイオイ、俺の彼女がちょっとイケメンすぎますよ」
「大丈夫ですよ。式王子家の女は、男を見る目があるんです」
「だと、いいけどな………」

 時折こういうやり取りをして、お互いがお互いを必要としていると再確認するように。

「甘えてんなぁ、俺」
「いいじゃないですか。甘えたって。今がどうであれ、あの日、大勢の人の命を救ったんですよ。正治君は」
「過去の栄光に縋って胸張れるぐらい図太くはねぇよ」

 ―――それが共依存の一歩目だと知っていながら。



 ●



 だからもしも、三上正治と式王子小夜が今日この日、この時、この場所にいなければ遠くない将来、順当に破局していただろう。

 それが単に恋人という関係の終了か、あるいはもっと周りを巻き込んだ破滅的な終焉かは分からないが、少なくとも悲恋という形で終わったはずだ。

 それ程までに二人の関係は、普通のようでいて歪で、既に目に見えない所で軋みを上げていた。噛み合わなく成りつつある歯車はいずれ外れ、互いを削りながらも互いへの感情を動力にひたすら空回り、最期には破損する。当人達以外はそれに気づかず、気づいている当人達でさえどうにもなりそうにないと半ば諦めていた。

 だからこそ、後に二人はこう語ることになる。

 この日―――自分達は運命に出会ったと。



 ●

「―――お?」

 どん、と背後から軽い衝撃を受けた三上は首を傾げた。

 彼は180cmを超える大柄ではあるが、人とぶつかったにしては随分と低い位置だ。場所としては右の臀部。子供とでもぶつかったかな、と脇を覗くようにして下見ればそこには確かに子供がいた。

 小さい少女―――否、幼女だ。

 まだ五歳とか六歳ぐらいではないだろうか。身長は1メートル程度しかない。水色のワンピース姿の幼女はくりくりとした瞳をキラキラと輝かせながらこちらを見上げている。

 そしてやおら。

「パパっ!」
『え?』

 思わず三上と式王子は声をハモらせた。一瞬の空白の後、言葉の意味を理解して三上は盛大に慌てる。

「は?お、おい、嬢ちゃん何言って……‥」
「パパ!やっと会えた!」

 しかし幼女のパパコールが止まらない。ぎゅーっと全身を使って三上の下半身にしがみつき、ぐりぐりと額を三上の体に擦りつけてくる。

 いやちょっと待ってこんな子持った覚えないけど、と三上が混乱していると。

『ギルティ―――!!』

 幼女を追いかけるようにして突如乱入してきた飛崎と新見が有罪判決を突き付けてきた。

「ちょっ!いきなり出てきて何言ってんだアンタ等!」

 慌てふためく三上を尻目に、二人は被告人の様子からこそこそと審議に移った。

「ちょっと飛崎さん家の連時さん。どう思われます?被告人は無実を主張していますが」
「ううむ。しかしあのお嬢ちゃんがパパと言う以上何らかの関係性はあるんだろうなぁ。しかも五、六歳ぐらいの歳だろうから、正治が相手に種仕込んだ時の年齢は十歳前後か。これは俗に言うおねショタって奴だろうか。愛に殉じているのなら美学してる………のか?」

 少々美学ジャッジに戸惑う飛崎に、おかしいでしょうが!と新見はファックファックファッキンキッズと地団駄を踏み、世の理不尽を呪う。

「こ、これがジャパニーズSYULOVARなのね!リリィリリィ!すごいわ!リアル昼ドラよ!本当にお昼にドラマしているのね!?」
「字面がおかしい気がしますが愛憎劇という意味では間違ってませんわね。―――不潔ですわ!」

 彼等の背後からは何故かエリカとリリィのロイヤルコンビが目を輝かせて現れ、更に三上は知らぬ女性―――リースティアが口元に手を当てて微笑んでいる。

「あらあらこれは教官として咎めるべきですかね?それとも雄としての本懐をよく遂げたと褒めるべきですか?どうしましょう?レン君」
「責任を取れるなら褒めるべきだろう。ある程度復興したとはいえ、今の人類の総人口20億ぐらいだと言うし。昔の偉い人に曰く、産めよ増やせよ地に満ちよ―――うむり、ヤリチンの美学だな!」

 飛崎の身も蓋もない言い方に、カオス極まる場が―――いつの間にか野次馬まで出来ている―――騒然となり、三上の横から極寒の冷気が吹き荒れた。

「しょーぅじぃくーん……‥?」

 麗らかな春の日だと言うのに、ここだけ冬に逆戻りしたかのような気温の急降下に三上はひぃっと身を竦ませて弁解する。

「い、いや、待て、小夜。これは何かの間違いだ!大体俺童貞捨てたのだってつい最近だぞ!?それはお前が一番良く知っているだろう!?」
「う、いえ、それはそうですが……‥」

 公衆の面前で何言ってんだこのバカップル、と大抵の周囲の人間は呆れるが、ここには嫉妬の炎に身を焦がす童貞が一人いるのだ。

「女性と違って男の初めてって分からない物だしねぇ……‥!」

 その内炎の縁取りをしたマスクでも被りそうな童貞からの要らぬ茶々が突っ込まれ、三上の体感温度は更に下降して行く。

「班長―――!?話をややこしくしないで下さいますか―――!?」
「うるさいうるさいうるさい!聞き耳持ってやらないぞこのリア充!こんな綺麗な彼女がいるだけに飽き足らず他所で女作って子供まで拵えるとかどういう神経しているんだ!この非童貞!ビッチメン!世の中にはねぇ、嫁どころか彼女だって出来ない男がいるんだぞ!―――い・る・ん・だ・ぞっ!!」

 最早血涙を流す勢いで必死に宣う新見に、周囲の人間の反応は二分されている。ドン引きする一般人とうんうんと賛同する非リアの皆様だ。

 ちなみに身内である特班連中はと言うと。

「班長、その僻みは見苦しいですわ……‥」
「言うてやるなリリィよ、あれは魂の叫びというのだ………。男というのは時に負けると分かっていても戦わねばならぬ時があるのだよ……‥。何とも悲しきモンスターではないか」
「そういうレンも綺麗な女性連れいるじゃないですかー。彼女さんですか?」
「あぁ、自己紹介がまだでしたね。初めまして。リースティア・飛崎・ロックリードと申します」
「この間鐘渡に着任した教官で、儂の義姉だ。よしなに頼む」

 軽い面通りをしていた。

 しかし耳ざとい童貞はその魅惑的な属性を聞き逃さなかった。

「女教官で義姉、だとぉ……‥!」
「うっわ、童貞の嫉妬がこっちに飛び火した。おい班長、確かにティアはエロい属性てんこ盛りだがそういう関係では―――うむり。微妙に、ない」
「微妙にって何さ!―――いや待って!じゃ、じゃぁ、僕にもチャンスが!?」
「あ?儂の身内をどことも知れん馬の骨にくれてやるかブッ殺すぞ貴様」
「ひぃっ!レンがキャラ忘れるぐらいマジ怒りしてる!?」

 こっちも大分カオスの様相を呈しているが、三上は石畳の歩道に正座させられていた。その膝の上には件の幼女がにこにこと楽しそうに座っている。新手の拷問か何かだろうか。

「そ・れ・で?これは一体どういうことなのかなぁ?正治君?」
「い、いや、これはだな。俺にも実はよく分からなくてだな……‥!」

 まるで懲罰中の囚人のような気分になりつつある三上は、式王子にそう弁明する。実際に分からないのだ。全く身に覚えがないし、プレイボーイの如く浮き名を流した事だってない。思わず口に出してしまったが、ほんの数ヶ月前まで童貞だったのは事実である。

 混迷極まる状況の中、元凶とも言える幼女―――クオンが小首を傾げてこんな事を言った。

「んー?ママはどうして怒っているの?」
「―――はい?」

 思わぬ言葉に式王子はぽかん、と口を開ける。

「パパとママ、ケンカは―――めっ」

 放り込まれる爆弾。静寂に包まれる場。ざわつく野次馬。

 そんな中、新見がやおら目立つ位置に立ちすぅっと両手を上げて、一度降ろし、せーの、と合いの手を入れて。

『えぇぇええぇええぇっ!?』

 綺麗に揃った驚きの声が、春風に巻き上げられた。



 ●



「それでどうして私が呼ばれたんだろうか」
「うむり。この後必要であろう色々と面倒臭そうな手続きとか一切合切丸投げにするためだ」
「はっきり言うなぁレン君は!」

 場所を移して、メイド喫茶アローレイン。

 その団体客用の個室席を占領して、特班の面々プラスアルファに加え飛崎に呼び出されて合流した長嶋武雄がいた。

 取り敢えず余人を交えず今後の話し合いができる場所に行こうということになり、近場に知り合いの店があると飛崎が音頭を取って特班の面子を連れてきた。実際にはオーナーなのであるが、そこは伏せられて唐突に現れた知り合いが団体客を連れてきた、と言う体で皆を引き連れてきたのだ。

 そしてその間に長嶋武雄を召喚し―――その理由は法的面でのフォローをさせるためだった。持つべきものは権力者に影響力のある友人である。役場でアレコレ問答するより首根っこ抑えたほうが良いのだ。

 それを見て、班員達の反応は二分している。

 あれよあれよと言う間に状況が進んで行き困惑する三上と式王子。

 結局の所他人事だしなぁ、とか勢いで着いてきちゃった、と傍観を決め込む新見とリリィ。エリカは何か思うところがあるのか、店内をキョロキョロと落ち着き無く見回している。

 因みに、渦中のクオンはアズライトを抱っこしたまま式王子の膝の上に座って、ご満悦の表情。

「ここで嘘を言っても仕方あるまい?どう考えても警官に引き渡してどうにかなるとは思えんぞ、コレ」
「と言うと?」
「タケと合流するまでにちょいと傭兵関係の伝手を使って探りを入れたのよ」

 飛崎はそう言ってリースティアに視線をやると、彼女は説明を引き継いだ。

「全国の圏警の行方不明者捜索願リストを当たったのですが、クオンと言う名はありませんでした」

 詰まるところ、クオンの保護者は娘が行方不明になったのにも関わらず未だ何もアクションを取っていない。だが、彼女は出現時に病衣を着ていた。となると、管轄はどちらかと言えば病院にあるのかも知れない。

 前者ならいなくなってすぐかも知れないので、未だ気づいておらず公的機関に問い合わせが言っていない可能性はある。だが彼女が最初に来ていた衣服を考えるに、身柄の保護は病院の役割だ。患者が消えたのに圏警に連絡が行かないのは不自然と言える。

「次に、クオンちゃんが最初に着ていた病衣を手掛かりに全国の病院に照会しましたが、病衣について情報がありました。まぁ、襟の裏地部分に名前が書いてあったんですけどね」

 故にリースティアは病院に照会してもらうつもりだったのだが、ここで一つ問題が起こる。

「御殿場市民病院。そう書いてありました」
「―――まさか」

 その言葉に長嶋は言葉を詰まらせ、三上や式王子、新見も絶句する。

「?はんちょーはんちょー。その病院が何か問題あるんですか?」
「病院そのものと言うよりは、その地域だよ」

 疑問符を浮かべるエリカに、そう言えばこの国の人間じゃないから分からないよね、と新見は補足することにした。

「御殿場、と言うよりも富士山を中心に半径約30kmは半禁域化していているんだ」
「ランダムスポットと英語読みした方がお前さん等には馴染みが良いかもな。フィレンツェ、ロマンチック街道、アムステルダム―――欧州にも幾つも禁域になりぞこなった場所あんだろ、アレと一緒だ」

 説明を受けて、その意味を理解したエリカとリリィは今更ではあるが絶句した。

 『消却事変』以降、世界には禁域と呼ばれる亜空間―――不可侵領域がぽつぽつと出現している。大きさや広さは様々ではあるが、その場所は至るところにある。大地、空域、海域―――あらゆる場所、あらゆる座標にランダムで出現しているそれらは、名前の通り人が足を踏み入れることを禁じられた領域だ。

 黒い霧で覆われており、その中がどうなっているか人類は知らない。入ったものが出てきたことはないし、機材を投入してもその瞬間にリンクが途切れる。生命どころか無機物さえ拒絶されており、内部がどうなっているか、あるいは何処につながっているのか―――出現してもう半世紀も経つというのにようとして知り得ない。

 それが禁域と呼ばれる場所の概要だ。

 さて話に出た半禁域と言うのは、中途半端に、そして不定期にこの状態になる領域の事を指す。事象としては禁域と同じなのだ。しかし禁域の方は出現以降ずっと同じ場所、同じ領域を占領しているのだが、半禁域は不定期に通常空間に戻ったりする。いや、正確には通常空間に戻る代わりに近くの別の空間が禁域化する。言うならば、虫食い箇所がランダムに動いているようなものだ。

 戻った場所には、何もない荒涼とした大地が広がるだけだ。元々あった建造物や動植物など―――微生物さえも含めて一切が消え失せ、ただただ枯れた大地だけが存在する。霊素濃度が異常に高いと言う差異が見られるので、研究者達はこの差異が禁域の謎を解く鍵なのではと睨んでいるがそこは割愛する。

 重要なのは、人も動植物も、無機物さえも一切を消し去る禁域と言う場所に御殿場があり、そこからクオンが来たかも知れない―――その事実だ。

「でも、半禁域化なら生き残った土地も存在するんじゃ……‥?」
「勿論、それについても調べてきました。2004年以降の観測結果になりますが―――2012年には、全域が一巡しているようです。それを以て、国軍も遭難者の捜索も打ち切っています」

 エリカの言うように半禁域化は虫食い状態になるため、奇跡のような確率で黒い霧に囲まれて生き残っている土地も存在する。そこに取り残された人間もいたので、大抵の国は救出チームを組んで救助に向かわせたりもするのだが―――前述したように半禁域化した場所は、不定期にその場所を変える。規則性は認められないが大体数年もすれば予想される範囲を全て埋め、食った場所がないぐらいにまでになる。それを一巡した、と呼ぶのだ。



 即ち、その時点で領域内の生きとし生きるモノ全てが滅んだこととなる。



 そんな場所から、クオンは現れた―――と思われる。

 荒唐無稽な現状だ。

 そもそも御殿場から横浜まで約85km。これを子供の足で、しかも裸足で歩いてこれるものだろうか。仮に出来たとして、その道中で誰にも見咎められることが無かったのか。

 これを信じるよりは何者かが御殿場市民病院の病衣を制作してクオンに着せ、飛崎に押し付けたと考える方がまだ現実的だ。尤も、それにしても何故、何の意味があってと突き詰めると不自然極まりなくなるのだが。

 しかも三上と式王子との関係性だ。

 彼等は否定しているし、その言を信じるならば数ヶ月前まで童貞と処女。仮に三上や式王子の遺伝子を採取して人工授精させていたとしても、何故その提供元をこの幼子が知っているのか―――そもそも、式王子はクラスExの適合者だからともかく、適合者と言えクラスCの三上の遺伝子を採取する必要はあるのか。

 常識と照らし合わせて整合性を取ろうとすればするほどに、無理がある。

 それっぽい仮定をこじつけようとしても、どれも無理が出てくるのだ。この場にいる誰もがそれぞれに自らの仮定を色々と想定して、それが直ぐに破綻することに気づき、式王子の膝の上でAIな猫と戯れるクオンを見る。

 一斉に自分に視線が集中したのに気づいたのかクオンは首を傾げた後、自らが座す膝の主を見上げる。

「パパ?ママ?どうしたの?」
「何でもないですよー。クッキー食べますか?クオンちゃん」
「うん!」

 くりくりとした瞳で見上げられた式王子は破顔して、テーブルの上のクッキーを手にとって、クオンに食べさせた。

「―――何れにせよ、この子はここにいるのです。放置など出来ようがないでしょう?正治君もそう思いますよね?」
「あ、ああ。まぁな……‥」

 毅然と宣言し、そして同意を求める式王子に三上はどもりながら頷いた。いや、その気迫に頷かされたと言うべきか。こういう時、年齢に関わらず女性の方が肝を据えるものである。

 尻に敷かれてんなこのヘタレ、と一同がその力関係を察していると飛崎が口を開いた。

「それとな、タケ。もう一つ気になることがあってよ。と言うよりも、お前さんを呼んだのはこれが本題だ。クオンよ、もう一度、さっきの―――儂と出会うまでの話をしてくれんか?」
「いいよー」

 本題?と疑問符を浮かべる長嶋に、飛崎はクオンを見て頼んだ。すると彼女はこくん、とクッキーを食べ終えて語り始める。

「んっとね、クオン、白いお部屋にいてね、くるしいなぁって思ってたの。そしたらね、緑のお姉ちゃんがだいじょうぶだよって、頭なでてくれたの。そしたらくるしくなくなって、青いお姉ちゃんが白いお部屋からお外へつれてってくれたの。そしたらね、楽器の音がきこえて、青いお姉ちゃんがそっちへいきなさいっていってきえちゃったの」
「で、その音のする方に行ったら儂がいた、と」
「うん!」

 辿々しくもクオンが語る内容に、幾つか気になる点を覚えた長嶋は飛崎の方を見る。

「『緑のお姉ちゃん』と『青いお姉ちゃん』……‥レン君。これは」
「だからお前さんも呼んだんだよ。ティア、観測以前のも含みで御殿場そのものが半禁域化したのは何時だ」
「これは記録に残っている目撃証言に拠るものですが、かなり最初期―――1999年9月には既に半禁域化されていたものだと」
「………」

 長嶋はその報告に無言。

 古い記憶を辿るように瞑目する。

「タケ、1999年の9月。お前さん、前の嫁とは別行動しちゃいなかったか?」
「ああ、そうだね。シェルターに籠もっていた避難民は愛知に向けて移動し始めていたし、私は一人で皇竜に立ち向かいに行った佐奈を追いかけていた。と言うことは、彼女はその時―――」
「多分、そういうこったろうよ。最初に儂に会ったのもそれが原因だろう」

 ぽんぽんと交わされる長嶋と飛崎のやり取りに、他の皆は置いてきぼりだ。だが、それを理解しようと口を挟むのを憚れる単語が一つ入っていた。

 長嶋武雄の前の嫁。

 かつてユーラシア大陸で起こった皇竜大進撃―――所謂、セルビア戦役にて身命を賭してそれを防ぎ、結果として命を落とした長嶋佐奈は異国人であるエリカやリリィですら知っている。世界史に載っている事件であるし、彼女の犠牲無しではその苦難を乗り切れず、もしも大進撃を防げなかったらユーラシア大陸が滅んでいたと目されているのだ。

 故に長嶋佐奈はセルビア戦役の聖女、等と呼ばれている。他でもない、その夫である長嶋武雄の前でそこに言及するのは、礼を失していると判断し皆は黙していた。

 それを知ってか知らずか飛崎は話を進める。

「この二人をパパだママだ言い始めたのは、まだ分からんが」
「そっちは、ちょっと心当たりがあるよ」

 そう言って、長嶋は三上と式王子両名を見つめた。その後でオレンジジュースをストローで幸せそうに啜っているクオンを見て、確かにこの二人に似ていると思う。

「あの、理事長、一体何が……‥?」

 多分そうだよなぁ………と呟く長嶋に、三上が声を掛けるがどうにも要領を得ない態度のままだ。

「う、ん。いや、ごめん。久しぶりに佐奈の名を聞いたからかなぁ………私も今、結構混乱している。ただ、うん。悪いようにはしないよ。多分、近い内にクオンちゃんの正体も確定する」
「分かる、ではなく確定する、ですか。もう察しが付いているので?」

 リリィに尋ねられ、彼はため息交じりに頷いた。

「まぁ、ね。正直、どうあっても荒唐無稽な話ではある。確定するまでは口にするのもどうかと思うから、今は黙っておくよ。確認を取れたら教えてもいいけど、その時は多分―――誓約書を書いてもらわなきゃならないかな」

 自分でもあまり信じられないよ、と胸中で述懐しながら。
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