1 / 3
第1話 遠流
しおりを挟む
茫然と空を見上げる。
「ここは、どこだろうな」
戦に負けて都を出て。
父や兄ともはぐれて、雪の中でただ一人、馬と会話していたあの日と同じ。
源 前 右兵衛 権佐 頼朝。
後に鎌倉幕府を開く源頼朝は、その運命の時よりも二十年も前、流刑地である伊豆国に向かう途中で途方に暮れていた。
勇猛果敢な長兄に比べて弓は今ひとつ、馬も下手。
でも母の血筋から、三男である自分が嫡男だと言われ育ってきた。
それが重荷にならなかったとは言わない。
でも、だから、せめても学問くらいはと幼い頃より励んで来たのだが、そんなもの、あの日のあの戦においては何の役にも立たなかった。
そして今も。
空は高く、無駄に良い天気。
だが、気は霞んで陽の光を乱反射させ、熱が身体に届かない。
風は生温くさわさわと頬を撫で掠めるが、じわじわと真綿で首を絞められているような閉塞感が増すばかりだった。
「そなたも腹が空いたよな。どこか、村のものに食べ物を貰いに行こうか」
馬の首筋を撫でて話しかける。
でも、馬はもう一歩も脚を前に踏み出さなかった。
ぬかるみに脚を取られ、幾度か持ち上げはしたものの、今はもう諦めて、ただ脚を突っ張っているばかり。
遠い京から遠流先の伊豆までの長い旅。疲れ切って、まるで気力を無くしていた。
撫でても宥めすかしても、もう目すら合わない。
既に日は緩やかに西に傾きかけていた。直に辺りは闇に包まれるだろう。
どこか屋根のある所を探さなくてはいけない。
なのにどこに行っていいのか、当てすらなかった。
京からここまで連れて来てくれた者とはぐれ、頼朝はただ一人、馬と共に野盗に殺されるのを待つ運命にあった。
どうせならあの時、殺してくれれば良かったのに。
そんなことを考えてしまう。
敗者として首を落とされた方が、野盗に嬲り殺しにされるより、ずっと名誉なこと。
腰の刀に手を伸ばす。
そうすれば、この源氏の名刀「髭切」も賊の手に落ちずに済んだ。
何故、六波羅殿(平清盛)は自分にこの刀を戻したのか。あの時、取り上げられて不思議なかったのに。
なのに、何故……。
「何してるの?」
尋ねる声に、びくりと肩を震わせ振り返る。
そこには黒々とした大きな目を見開いた少女が立っていた。
まだ年幼い少女。
賊の類ではないことに、頼朝はほっとしながらも、そんな気弱な自らを恥じて口を引き結んだ。
「どうしたの?」
重ねて問われるが、頼朝は無言のまま少女を見返した。
どう答えていいのかわからなかった。
ずっと貴族として守り育てられてきた。身分の下の者から、このように話しかけられたことなどない。
「ずうっとそこに立ってるでしょ。困ってるんじゃないの?」
しつこい。でも、代わりに口を聞く供の者はいない。
仕方なく頼朝は口を開いた。
「馬が脚を取られたのだ」
それ以上話しかけるな、とぶっきらぼうな言い方で。
でも少女は物怖じせずに却って近付いてきた。
「そう。あなたも?」
頼朝は眉を寄せた。
自分が足を取られた? そんなことあるものか。
頼朝は問いには答えず、足をぬかるみから持ち上げると側にあった岩の上に上がり、腕を組んでぷいと横を向いた。
「良かった。あなたは平気なようね」
少女は笑顔を見せた。
「ねぇ、お腹が空いたのではない?」
親しげに話しかけてくるが、頼朝は返事をしなかった。
確かに腹は空いていたが、この少女にそんなこと気取られたくもない。
「平気だ。去れ」
短く、小さく言い捨てる。
こんな、身分も低く、年幼い少女に憐れまれる自分が惨めでたまらなかった。
そんな頼朝の足元のぬかるみを蟹がハサミを上げて通っていく。ゴカイがぬめぬめと蠢いて泥の中に隠れていく。
サカサカと横に走る蟹の行く先をぼんやりと眺めていた頼朝の視界の中に一羽の白い小鷺がさっと舞い降り、黒いくちばしで蟹を啄んだ。頼朝は驚いて頭を上げた。しかし、その頼朝の目の前でもっと驚くべきことが起きた。
蟹を呑み込んだ小鷺が羽を開き、また飛び立とうとした瞬間、その上空から一羽の大鷹が小鷺の上にばさりと舞い降りたのだ。大鷹は小鷺の白い両肩にその長く鋭い爪を食い込ませ、小鷺を地に縫い留める。
肩を押さえつけられながらも必死に首をもたげ、嘴を鷹に向けて何とか逃れようとする小鷺。
だが大鷹は、その鋭く尖った嘴で小鷺の頭を強く突つき、一切の抵抗を許さなかった。
一瞬の間に起きたその一連の出来事と勝敗の決着を、頼朝は声も出ずに見守った。
「ここは、どこだろうな」
戦に負けて都を出て。
父や兄ともはぐれて、雪の中でただ一人、馬と会話していたあの日と同じ。
源 前 右兵衛 権佐 頼朝。
後に鎌倉幕府を開く源頼朝は、その運命の時よりも二十年も前、流刑地である伊豆国に向かう途中で途方に暮れていた。
勇猛果敢な長兄に比べて弓は今ひとつ、馬も下手。
でも母の血筋から、三男である自分が嫡男だと言われ育ってきた。
それが重荷にならなかったとは言わない。
でも、だから、せめても学問くらいはと幼い頃より励んで来たのだが、そんなもの、あの日のあの戦においては何の役にも立たなかった。
そして今も。
空は高く、無駄に良い天気。
だが、気は霞んで陽の光を乱反射させ、熱が身体に届かない。
風は生温くさわさわと頬を撫で掠めるが、じわじわと真綿で首を絞められているような閉塞感が増すばかりだった。
「そなたも腹が空いたよな。どこか、村のものに食べ物を貰いに行こうか」
馬の首筋を撫でて話しかける。
でも、馬はもう一歩も脚を前に踏み出さなかった。
ぬかるみに脚を取られ、幾度か持ち上げはしたものの、今はもう諦めて、ただ脚を突っ張っているばかり。
遠い京から遠流先の伊豆までの長い旅。疲れ切って、まるで気力を無くしていた。
撫でても宥めすかしても、もう目すら合わない。
既に日は緩やかに西に傾きかけていた。直に辺りは闇に包まれるだろう。
どこか屋根のある所を探さなくてはいけない。
なのにどこに行っていいのか、当てすらなかった。
京からここまで連れて来てくれた者とはぐれ、頼朝はただ一人、馬と共に野盗に殺されるのを待つ運命にあった。
どうせならあの時、殺してくれれば良かったのに。
そんなことを考えてしまう。
敗者として首を落とされた方が、野盗に嬲り殺しにされるより、ずっと名誉なこと。
腰の刀に手を伸ばす。
そうすれば、この源氏の名刀「髭切」も賊の手に落ちずに済んだ。
何故、六波羅殿(平清盛)は自分にこの刀を戻したのか。あの時、取り上げられて不思議なかったのに。
なのに、何故……。
「何してるの?」
尋ねる声に、びくりと肩を震わせ振り返る。
そこには黒々とした大きな目を見開いた少女が立っていた。
まだ年幼い少女。
賊の類ではないことに、頼朝はほっとしながらも、そんな気弱な自らを恥じて口を引き結んだ。
「どうしたの?」
重ねて問われるが、頼朝は無言のまま少女を見返した。
どう答えていいのかわからなかった。
ずっと貴族として守り育てられてきた。身分の下の者から、このように話しかけられたことなどない。
「ずうっとそこに立ってるでしょ。困ってるんじゃないの?」
しつこい。でも、代わりに口を聞く供の者はいない。
仕方なく頼朝は口を開いた。
「馬が脚を取られたのだ」
それ以上話しかけるな、とぶっきらぼうな言い方で。
でも少女は物怖じせずに却って近付いてきた。
「そう。あなたも?」
頼朝は眉を寄せた。
自分が足を取られた? そんなことあるものか。
頼朝は問いには答えず、足をぬかるみから持ち上げると側にあった岩の上に上がり、腕を組んでぷいと横を向いた。
「良かった。あなたは平気なようね」
少女は笑顔を見せた。
「ねぇ、お腹が空いたのではない?」
親しげに話しかけてくるが、頼朝は返事をしなかった。
確かに腹は空いていたが、この少女にそんなこと気取られたくもない。
「平気だ。去れ」
短く、小さく言い捨てる。
こんな、身分も低く、年幼い少女に憐れまれる自分が惨めでたまらなかった。
そんな頼朝の足元のぬかるみを蟹がハサミを上げて通っていく。ゴカイがぬめぬめと蠢いて泥の中に隠れていく。
サカサカと横に走る蟹の行く先をぼんやりと眺めていた頼朝の視界の中に一羽の白い小鷺がさっと舞い降り、黒いくちばしで蟹を啄んだ。頼朝は驚いて頭を上げた。しかし、その頼朝の目の前でもっと驚くべきことが起きた。
蟹を呑み込んだ小鷺が羽を開き、また飛び立とうとした瞬間、その上空から一羽の大鷹が小鷺の上にばさりと舞い降りたのだ。大鷹は小鷺の白い両肩にその長く鋭い爪を食い込ませ、小鷺を地に縫い留める。
肩を押さえつけられながらも必死に首をもたげ、嘴を鷹に向けて何とか逃れようとする小鷺。
だが大鷹は、その鋭く尖った嘴で小鷺の頭を強く突つき、一切の抵抗を許さなかった。
一瞬の間に起きたその一連の出来事と勝敗の決着を、頼朝は声も出ずに見守った。
0
お気に入りに追加
4
あなたにおすすめの小説

江間義時 雪の日の奇跡
やまの龍
歴史・時代
亡くなった妻が雪の日に現れた。ずっと逢いたくて、でも夢にも現れてくれたことのなかった彼女。彼女は「行くな」と言う。だが、今日は将軍の右大将拝賀の儀式のある日。
「お前、今度は俺に何をやらせるつもりだ?」
「姫の前」番外編。義時のボヤき。

終わりを迎える日
渚乃雫
歴史・時代
鎌倉幕府設立者、源頼朝に「師父」と呼ばれた「千葉常胤」の最期の時を綴った話
時は1180年
平清盛により伊豆に流されていた源頼朝。
34歳で挙兵するも、石橋山(神奈川県小田原市)での戦いで平氏に敗れ、命からがら安房国に逃れたことから、歴史は動き出した。
鎌倉幕府設立に尽力をした千葉常胤氏が挙兵を決めた時のことにスポットライトを当てた話
登場人物
源頼朝
千葉常胤
千葉胤正
千葉胤頼
千葉成胤
藤九郎盛長
2017年 千葉文学賞応募作
同タイトルで長編 【終わりを迎える日(長編)】も執筆中!
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
拾われ子だって、姫なのです!
田古みゆう
歴史・時代
南蛮人、南蛮人って。わたくしはれっきとした倭人よ!
お江戸の町で与力をしている井上正道と、部下の高山小十郎は、二人の赤子をそれぞれ引き取り、千代と太郎と名付け育てることに。
月日は流れ、二人の赤子はすくすくと成長した。見目麗しい姿と珍しい青眼を持つため、周囲からは奇異の眼で見られる。こそこそと噂をされるたび、千代は自分は一体何者なのだろうかと、自身の出自について悩んでいた。唯一同じ青眼を持つ太郎と悩みを分かち合おうにも、何かを知っていそうな太郎はあまり多くを語らない。それがまた千代を悶々とさせていた。
そんな千代を周囲の者は遠巻きに見ながらも、その麗しさに心奪われる者は多く、やがて年頃の千代にも縁談話が持ち上がる。
しかし、当の千代はそんなことには興味がなく。寄ってくる男を、口八丁手八丁で退けてばかり。
果たして勝気な姫様の心を射止める者が、このお江戸にいるのかっ!?
痛快求婚譚、これよりはじまりはじまり〜♪
たれやも通ふ萩の下道(したみち)
沢亘里 魚尾
歴史・時代
平和憲法のもと、象徴天皇として即位された今上天皇(明仁)の御代、平成の世は終わろうとしている。
歴史を紐解けば、日本という国は、天皇とともに歩んで来た、と言っていい。
しかし、その天皇も、順風だけで続いてきたわけではない。
幾度となく、天皇家は苦難の時代を経験してきた。
あるいは、今の時代こそ、まさにその時かもしれない。
順徳天皇の生涯を追っていくと、そのことを考えずにはいられなかった。
いや、そう思わないでも、なんと不遇な生涯であったことか。
筆者は、第八十四代天皇、順徳院に捧げる哀悼の物語として、これを書き上げた。
北宮純 ~祖国無き戦士~
水城洋臣
歴史・時代
三国時代を統一によって終わらせた晋(西晋)は、八王の乱と呼ばれる内紛で内部から腐り、異民族である匈奴によって滅ぼされた。
そんな匈奴が漢王朝の正統後継を名乗って建国した漢(匈奴漢)もまた、僅か十年で崩壊の時を迎える。
そんな時代に、ただ戦場を駆けて死ぬ事を望みながらも、二つの王朝の滅亡を見届けた数奇な運命の将がいた。
その名は北宮純。
漢民族消滅の危機とまで言われた五胡十六国時代の始まりを告げる戦いを、そんな彼の視点から描く。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる