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第六章 宇津田姫
第20話 母
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ヒミカはその後、具親の二人目の子を身ごもった。
「次は姫を産むのよ」
具親の一人目の男児、タスケをあやしながら言う母にヒミカは苦笑を返した。
「そんなこと言われたって困るわ。神さまにお願いしてちょうだい」
すると母はフンと横を向いて答える。
「貴女の為ではなくてよ。具親殿の為です。わかった?姫が産まれるように強く念じなさいね」
——念じろと言われても。
そう言えば、伊豆の江間で下働きをしてくれていたシマが言っていた。姫を産むコツがあるのだと。
「母さま、姫を産むにはコツがあるってシマちゃんが言ってたけれど知ってる?」
すると母は黙った。
「男女を生み分けるには身ごもってからでは遅いのよ。その前が大切なの」
「じゃあ遅いじゃない」
「そうよ、だからあとは神仏に祈るだけ。懸命に祈りなさい。私はそうやって、姫である貴女を産んだんだから」
「そんなぁ。大切なのなら、もっと早く教えてよ」
「貴女が忙しなく動き回ってるから悪いのでしょ?とにかく祈るのみよ」
「いやいや。私は男児でも姫でもどちらでも、母子共に無事であれば、それだけで有難いですよ」
具親がそう取り成してくれるが、母は諦めずにカグヤを連れてあちこちの寺社に出掛けては熱心に祈願を繰り返しているようだった。
そんな頃、事件が起きる。三代将軍、源実朝の正室に坊門信清の娘を迎える為に、鎌倉から幾ばくかの御家人衆が上洛していた。彼らは京都守護職に就いていた北条時政の娘婿、平賀朝雅の邸を訪れていたが、その夜の祝宴の席で畠山重忠の嫡男、重保と平賀朝雅との間で諍いがあったのだ。その場は丸く収まったものの、その翌日、重保と共に上洛していた北条時政の五男、政範が急死した。京の都は騒然となった。
「何でも、武蔵国を巡っての覇権争いで、あわや刀を抜きかけたとか。今の鎌倉を牛耳っている北条時政殿が裏で動いとんのとちゃうやろか。宴に招かれてた者らの話では、平賀殿が散々と畠山重忠殿の悪口雑言を言い放って挑発してたらしで。刃傷沙汰にして排斥させたかったんやろなぁ。平賀殿は北条殿の娘婿やさかいに、甘い汁をたんと啜っとるんやろ。どこも同じやなぁ。やけど、なして北条の政範殿が亡くならはったんや?」
「医師の診立てでは病やて」
「病て、そんな急に身罷りますかいな。まだ十六やで。刺されたんとちゃうか?または毒とか」
「まぁ、そりゃおとろしこと。にしても、政範殿は北条殿の嫡男で、牧の方の唯一の男児なんやろ?これは一波乱ありそやなぁ」
「せやせや。北条殿の次男は、ほら、先に二代将軍を誅殺した江間義時とかいう冷徹な男。こらぁ鎌倉はもう終いやなぁ。そないな時に姫を嫁入りさせなあかん坊門殿にはえらいお気の毒なことや。姫君は院のお従姉妹であらしゃいますのに」
「ま、わてらにはあまり関係あらへん話やな」
好き勝手に喋り倒す京の公家ら。
——関係ない?本当に関係ないと思っているのだろうか。鎌倉の幕府は帝の唯一の武なのに。
それから少ししてヒミカは具親の第二子を産んだ。男児だった。
「御免なさいね。私の祈りが足りなかったわ」
そう謝る母に具親は笑顔で手を振った。
「とんでもない。母子共に無事で元気な子が産まれたのは、全てお義母上のおかげです。ほら、立派な泣き声の元気な男の子だ。この子はきっとスクスクと大きく育ってくれますよ。有難う御座います」
「本当ね、大きな泣き声。トモが産まれた時のことを思い出すわ」
「え?俺?」
トモがびっくり顔を出す。
「ええ、そうですよ。トモはねぇ、そりゃあ泣き声が煩くて大変だったの。おまけに寝返りも歩き始めるのも早くて、悪戯に喧嘩にと外を飛び跳ねてばかり。私は何度肝を冷やしたことか」
母の愚痴に具親が噴き出した。
「それは頼もしいことだ。トモ、お前のもう一人の弟だぞ。可愛がって守ってやってくれよ。宜しく頼むな」
「おう、任せといてよ」
「これ、トモ。お義父上にはもっと丁寧な口をおききなさい。貴方も年が明けたら十四。元服しても良い歳なのですから」
ヒミカの苦言にトモはペロリと舌を出して具親の腕を引いた。
「はーい、じゃあ義父上。今日はあれやろうよ」
「あれ?」
「うん、抜刀の稽古」
すると具親は、抜刀かぁ、と顔を少し曇らせた。それからトモの肩の上にその手を置く。
「トモ。私は刀はあまり好きではない。刀を抜く時は斬る時だけだ。私は左兵衛佐だが、御所、また院御所に刀は禁忌。常に鍛錬し、普段は腰に帯びてはいるが、抜かぬ。抜くのは、主上の命を受けて、確実に相手を死に至らしめる時のみ」
そう言うと、歩いて行き、一振りの刀を手に取った。
「これは稽古用の刀だ」
そう言って、その腰の帯に稽古用の刀を腰に差すと、目を閉じて深く息をしてから、ハッ!と鋭い掛け声と共に目にも止まらぬ速さで刀を鞘から引き抜き、左斜め下から斬り上げ、続いて手首を捻らせて右斜め下から左斜め上にまた斬り上げると、間髪なく刀身を鞘に収めた。
「刀は相手を死に至らしめるもの。必要なくば手にせぬ方がいい。相手を捕らえるなら、この腕で足りる。血を流すは、ぎりぎりの終いまで堪えよ。わかったな?」
いつもは穏やかな具親の声が、その時ばかりは熱を持ち、昂ぶっていた。
トモはそんな具親を呑まれたように見詰めていた。また、シゲも。
それから二人は具親に稽古用の切れない刀を作って貰い、具親がして見せてくれた振りを何度も何度も繰り返していた。
それはまだ平穏な冬の日常だった。
その年の暮れ、一層冷え込んだ日のこと、母が病に倒れて床についた。
「御免なさいね。風邪を引き込んでしまったみたい。私のことはいいから、子らの方へ戻りなさい。風邪を移してしまったら大変だから」
「母さま」
その言葉に、父の最期の日のことを思い出してヒミカは背を凍らせる。無理に安産祈願なんてするから、と文句が言えなくなる。でも何を口にしていいのかわからない。出て来た言葉は、いつもの悪い癖の、どうして?という問い掛けだった。
「母さま、母さまはどうしていつも姫がいいと言うの?」
昔、よく祖母に、なぜ?どうして?と問うては『聞く前に考えろ』と怒られていたことを思い出す。でも母は笑って答えてくれた。
「だって姫なら側に居られるじゃない。男児だと戦に行ったり遠い国に飛ばされたりして、いつも心配してないといけない。でも姫なら、そんな心配はないでしょう?でもまぁ、貴女みたいな、困ったじゃじゃ馬さんだと男児と変わらなかったけどね。でもこうしてずっと一緒に居られた。最期の時を共に過ごせる。比企でも鎌倉でも江間でも京でも。私は貴女が居たから、どこでも楽しかったわ。何より嬉しかった。有難う。私の娘に産まれてくれて。具親殿と幸せに暮らすのよ」
「母さまったら、そんな気弱なこと言わないで。私、次こそ姫を産むから。だから、その子を抱いてよ。カグヤみたいに甘えさせてあげて」
カグヤと聞いて母は身体を起こそうとした。
「カグヤ」
ヒミカが思わず名を呼んだら、カグヤが隣の部屋から駆け込んで来る。母は枕元に膝をついたカグヤの手を握って微笑んだ。
「カグヤ。貴女は笑うと、とても愛らしい子なのよ。気が優しくて寂しがりなだけ。良い人に巡り逢って幸せにおなりなさい」
「ばばさま、やだ!置いてかないで!」
ヒミカは目を見張ってカグヤの顔を見つめた。泣き声ではないカグヤのはっきりした声を聞くのは初めてのように思ったからだ。自分は何を見ていたんだろう?何をしていたのか。母として何かカグヤに出来ていたことがあっただろうか。
その夜、母は息を引き取った。最期、「朝宗様」と一声、父の名を愛しげに呼んで。
幼い頃は嫌いだった。祖母に貶される姿を見ては呆れていた。コシロ兄との結婚を反対されて反発した。でも、ずっと側に居て支えてくれた。起請文を懐に入れてくれていた。コシロ兄と別れて鎌倉を出るのに文句も言わず、付いて来てくれた。大切な髪の毛を切ってまで。子らを愛してくれた。京へ来て、具親と結婚出来たのも、思えば母のおかげ。
——自分はずっと母に護られてきたのだ。
静かに眠る母の顔はとても穏やかで、恋する少女のようにあどけなく可愛らしかった。きっと父が迎えに来てくれたのだろうとヒミカは思った。
「次は姫を産むのよ」
具親の一人目の男児、タスケをあやしながら言う母にヒミカは苦笑を返した。
「そんなこと言われたって困るわ。神さまにお願いしてちょうだい」
すると母はフンと横を向いて答える。
「貴女の為ではなくてよ。具親殿の為です。わかった?姫が産まれるように強く念じなさいね」
——念じろと言われても。
そう言えば、伊豆の江間で下働きをしてくれていたシマが言っていた。姫を産むコツがあるのだと。
「母さま、姫を産むにはコツがあるってシマちゃんが言ってたけれど知ってる?」
すると母は黙った。
「男女を生み分けるには身ごもってからでは遅いのよ。その前が大切なの」
「じゃあ遅いじゃない」
「そうよ、だからあとは神仏に祈るだけ。懸命に祈りなさい。私はそうやって、姫である貴女を産んだんだから」
「そんなぁ。大切なのなら、もっと早く教えてよ」
「貴女が忙しなく動き回ってるから悪いのでしょ?とにかく祈るのみよ」
「いやいや。私は男児でも姫でもどちらでも、母子共に無事であれば、それだけで有難いですよ」
具親がそう取り成してくれるが、母は諦めずにカグヤを連れてあちこちの寺社に出掛けては熱心に祈願を繰り返しているようだった。
そんな頃、事件が起きる。三代将軍、源実朝の正室に坊門信清の娘を迎える為に、鎌倉から幾ばくかの御家人衆が上洛していた。彼らは京都守護職に就いていた北条時政の娘婿、平賀朝雅の邸を訪れていたが、その夜の祝宴の席で畠山重忠の嫡男、重保と平賀朝雅との間で諍いがあったのだ。その場は丸く収まったものの、その翌日、重保と共に上洛していた北条時政の五男、政範が急死した。京の都は騒然となった。
「何でも、武蔵国を巡っての覇権争いで、あわや刀を抜きかけたとか。今の鎌倉を牛耳っている北条時政殿が裏で動いとんのとちゃうやろか。宴に招かれてた者らの話では、平賀殿が散々と畠山重忠殿の悪口雑言を言い放って挑発してたらしで。刃傷沙汰にして排斥させたかったんやろなぁ。平賀殿は北条殿の娘婿やさかいに、甘い汁をたんと啜っとるんやろ。どこも同じやなぁ。やけど、なして北条の政範殿が亡くならはったんや?」
「医師の診立てでは病やて」
「病て、そんな急に身罷りますかいな。まだ十六やで。刺されたんとちゃうか?または毒とか」
「まぁ、そりゃおとろしこと。にしても、政範殿は北条殿の嫡男で、牧の方の唯一の男児なんやろ?これは一波乱ありそやなぁ」
「せやせや。北条殿の次男は、ほら、先に二代将軍を誅殺した江間義時とかいう冷徹な男。こらぁ鎌倉はもう終いやなぁ。そないな時に姫を嫁入りさせなあかん坊門殿にはえらいお気の毒なことや。姫君は院のお従姉妹であらしゃいますのに」
「ま、わてらにはあまり関係あらへん話やな」
好き勝手に喋り倒す京の公家ら。
——関係ない?本当に関係ないと思っているのだろうか。鎌倉の幕府は帝の唯一の武なのに。
それから少ししてヒミカは具親の第二子を産んだ。男児だった。
「御免なさいね。私の祈りが足りなかったわ」
そう謝る母に具親は笑顔で手を振った。
「とんでもない。母子共に無事で元気な子が産まれたのは、全てお義母上のおかげです。ほら、立派な泣き声の元気な男の子だ。この子はきっとスクスクと大きく育ってくれますよ。有難う御座います」
「本当ね、大きな泣き声。トモが産まれた時のことを思い出すわ」
「え?俺?」
トモがびっくり顔を出す。
「ええ、そうですよ。トモはねぇ、そりゃあ泣き声が煩くて大変だったの。おまけに寝返りも歩き始めるのも早くて、悪戯に喧嘩にと外を飛び跳ねてばかり。私は何度肝を冷やしたことか」
母の愚痴に具親が噴き出した。
「それは頼もしいことだ。トモ、お前のもう一人の弟だぞ。可愛がって守ってやってくれよ。宜しく頼むな」
「おう、任せといてよ」
「これ、トモ。お義父上にはもっと丁寧な口をおききなさい。貴方も年が明けたら十四。元服しても良い歳なのですから」
ヒミカの苦言にトモはペロリと舌を出して具親の腕を引いた。
「はーい、じゃあ義父上。今日はあれやろうよ」
「あれ?」
「うん、抜刀の稽古」
すると具親は、抜刀かぁ、と顔を少し曇らせた。それからトモの肩の上にその手を置く。
「トモ。私は刀はあまり好きではない。刀を抜く時は斬る時だけだ。私は左兵衛佐だが、御所、また院御所に刀は禁忌。常に鍛錬し、普段は腰に帯びてはいるが、抜かぬ。抜くのは、主上の命を受けて、確実に相手を死に至らしめる時のみ」
そう言うと、歩いて行き、一振りの刀を手に取った。
「これは稽古用の刀だ」
そう言って、その腰の帯に稽古用の刀を腰に差すと、目を閉じて深く息をしてから、ハッ!と鋭い掛け声と共に目にも止まらぬ速さで刀を鞘から引き抜き、左斜め下から斬り上げ、続いて手首を捻らせて右斜め下から左斜め上にまた斬り上げると、間髪なく刀身を鞘に収めた。
「刀は相手を死に至らしめるもの。必要なくば手にせぬ方がいい。相手を捕らえるなら、この腕で足りる。血を流すは、ぎりぎりの終いまで堪えよ。わかったな?」
いつもは穏やかな具親の声が、その時ばかりは熱を持ち、昂ぶっていた。
トモはそんな具親を呑まれたように見詰めていた。また、シゲも。
それから二人は具親に稽古用の切れない刀を作って貰い、具親がして見せてくれた振りを何度も何度も繰り返していた。
それはまだ平穏な冬の日常だった。
その年の暮れ、一層冷え込んだ日のこと、母が病に倒れて床についた。
「御免なさいね。風邪を引き込んでしまったみたい。私のことはいいから、子らの方へ戻りなさい。風邪を移してしまったら大変だから」
「母さま」
その言葉に、父の最期の日のことを思い出してヒミカは背を凍らせる。無理に安産祈願なんてするから、と文句が言えなくなる。でも何を口にしていいのかわからない。出て来た言葉は、いつもの悪い癖の、どうして?という問い掛けだった。
「母さま、母さまはどうしていつも姫がいいと言うの?」
昔、よく祖母に、なぜ?どうして?と問うては『聞く前に考えろ』と怒られていたことを思い出す。でも母は笑って答えてくれた。
「だって姫なら側に居られるじゃない。男児だと戦に行ったり遠い国に飛ばされたりして、いつも心配してないといけない。でも姫なら、そんな心配はないでしょう?でもまぁ、貴女みたいな、困ったじゃじゃ馬さんだと男児と変わらなかったけどね。でもこうしてずっと一緒に居られた。最期の時を共に過ごせる。比企でも鎌倉でも江間でも京でも。私は貴女が居たから、どこでも楽しかったわ。何より嬉しかった。有難う。私の娘に産まれてくれて。具親殿と幸せに暮らすのよ」
「母さまったら、そんな気弱なこと言わないで。私、次こそ姫を産むから。だから、その子を抱いてよ。カグヤみたいに甘えさせてあげて」
カグヤと聞いて母は身体を起こそうとした。
「カグヤ」
ヒミカが思わず名を呼んだら、カグヤが隣の部屋から駆け込んで来る。母は枕元に膝をついたカグヤの手を握って微笑んだ。
「カグヤ。貴女は笑うと、とても愛らしい子なのよ。気が優しくて寂しがりなだけ。良い人に巡り逢って幸せにおなりなさい」
「ばばさま、やだ!置いてかないで!」
ヒミカは目を見張ってカグヤの顔を見つめた。泣き声ではないカグヤのはっきりした声を聞くのは初めてのように思ったからだ。自分は何を見ていたんだろう?何をしていたのか。母として何かカグヤに出来ていたことがあっただろうか。
その夜、母は息を引き取った。最期、「朝宗様」と一声、父の名を愛しげに呼んで。
幼い頃は嫌いだった。祖母に貶される姿を見ては呆れていた。コシロ兄との結婚を反対されて反発した。でも、ずっと側に居て支えてくれた。起請文を懐に入れてくれていた。コシロ兄と別れて鎌倉を出るのに文句も言わず、付いて来てくれた。大切な髪の毛を切ってまで。子らを愛してくれた。京へ来て、具親と結婚出来たのも、思えば母のおかげ。
——自分はずっと母に護られてきたのだ。
静かに眠る母の顔はとても穏やかで、恋する少女のようにあどけなく可愛らしかった。きっと父が迎えに来てくれたのだろうとヒミカは思った。
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