【完結】姫の前

やまの龍

文字の大きさ
上 下
211 / 225
第六章 宇津田姫

第12話 名前

しおりを挟む
「構いませんよ」

 返ってきた言葉にヒミカは顔を上げる。

「それで構いません。私にとって、貴女は出逢った時からそういう貴女で、そういう貴女に心惹かれたのですから。どうぞそのままで居て下さい」


——そのまま?

「でも」

 言いかけたヒミカに軽く首を横に振って、具親は続けた。

「これは慈円殿が一条高能殿の所で聞いてきた話なのですが、一条殿の妻の一人に、比企殿にお味方した糟谷有季殿の妹君がいらしたそうで、その縁者が一条殿を頼って京にいるそうです。彼らが言うには、二代将軍である頼家公の長子は、比企氏が滅びた時に母か乳母に抱かれて逃げ延びたと。その後は行方知れずだったが、つい先日、攻め手の大将の江間義時が見つけ出して、家人のトウマだかトウゴだかいう男に刺し殺させたとのこと」

「え」

 ヒミカは思わず隣の邸へと目を飛ばしてしまう。ヨリは、一幡君は生きて京に。ここに居るのに。

 そして思い至る。コシロ兄は決着を付けてくれたのだ。もう二度と一幡君に目がいかないように。ヒミカに追手がかからないように。

 具親はヒミカの視線を追うように隣の邸を見ながら口を開いた。

「ヨリ、ですね」

 ヒミカは答えられずに、ただ黙って具親を見た。頼家の子だからヨリ。安易にそう呼んでいたことを僅か悔いるが、もう遅い。どうしよう。糟屋殿の縁者にヨリの話が伝わってしまったらヨリはどうなるのか。鎌倉に戻されるのか?それが彼にとって良いのか悪いのかヒミカには分からない。迷うヒミカの前で具親は続けた。

「ヨリは私が預かって、絵師である祖父に託そうと思っていますが、彼はその生き方を納得できるでしょうか?それとも鎌倉へ戻りたいと思うのでしょうか?」

 ヒミカは具親を見上げた。

「どうして、そこまで」

「私は単に貴女の気持ちに添いたいだけです」

「でも私は」

「ええ、江間殿を思い続けていただいて構いませんと先程口にした通りです。どうぞ今のまま、妻の振りをして私を助けてください。私は今それ以上望んでいませんから」

「具親様……」

 言葉が出て来ない。

 有難う御座います、と頭を下げて隣の邸へと向かう。これでヨリは京で生きていける。目の前で殺された母を、縁者らのことを忘れることは出来ないだろう。でもそれでも生きていって欲しい。彼らの分も。

 部屋の奥、小机に向かうヨリの背に話しかける。

「ヨリ、佐殿が貴方には絵の才があると仰っていました。絵師になるつもりはないかとお訊ねです。絵師になるには絵の勉強を熱心にせねばなりませんが、口を使わずとも筆で言いたいことを人に伝えることが出来るようになります。絵で人を喜ばせることが出来ます。辛いこともきっと沢山ありましょうが、もし貴方に絵を習う気があるのでしたら、佐殿にお願いしてみましょうか?佐殿の祖父上は絵師なのだそうです」

 ヨリはヒミカを振り返り、今まで向かっていた紙を一枚、サッと取り上げてヒミカに見せた。そこに描かれていたのはトモとシゲ。そして二人に撫でられ、気持ち良さそうに目を瞑っている黒猫。あたたかで優しい幸せな光景にヒミカは目を細めた。目尻から一筋涙が溢れる。

「貴方は人を幸せにする絵師になれるわ」

 ヨリは頷いて、にっこりと微笑んだ。アサ姫と頼家に少し似たメダカのような少し上がった目尻。その強くて真っ直ぐな眼差しで、見る者の心を捉える絵師になるだろうとヒミカは思った。




 ある日、ヒミカが具親の屋敷にて小物を片付けていたら、トモが駆けて来て具親に纏わりついた。

「ねぇねぇ、佐殿。あれ教えてよ、あれ」

「あれ?」

「ほら、戸を撫で撫でしながら、ハッて中の何かを飛ばしたあれ!」

「ああ」

 具親は立ち上がってトモの頭の上に手を置いた。

「教えるのは良いが、あれは容易ではないぞ。何の為に身につけたいのか、まずそこからだ」

「何の為?そんなの決まってら。強くなる為だよ」

「では、何の為に強くなりたいのかな?」

「父上と約束したんだ。母上やシゲ達を守るって」

 具親は微笑むと襷をかけて庭へと下りた。あの踏み固められた地の上に立ち、息を整える。それから両掌をそっと前に出した。

——リン。

 軽やかな鐘の音。どこからだろうと目をやれば、具親が差し出した手の前方の一本の木の枝に小さな鐘が掛かっていた。

「え、今の何?何もしてないじゃない」

「では、やってみますか?」

 具親の立っていた位置にトモが立つ。

「ハァッ!」

 トモも真似して両掌を前に押し出すが、何も音はしない。

「えいっ、やぁっ、とぉっ!」

 掛け声をかけて手や足を突き出すが、やはり何も起きない。

——リン。

 澄んだ音に眼をやれば、少し離れた所から具親が手を伸ばしていた。

「ええっ、今の何?風?狡いよ!俺も鳴らしたいのに!」

「では、先ず立ち方からです。大切なのは力を抜くこと」

「力を抜く?抜いたら立ってられないよ。ほら、蛸みたいに」

  きゃははと笑って具親に絡み付くトモに目をやりながら、すっかり具親に懐いてしまったなと思う。トモも次の年明けには十二になる。元服はどうなるのだろうかと考えてから首を横に振った。忘れよう。考えるな。考えない方がいい。


「それでは私はそろそろ出かけてきます」

 具親が庭から上がってくるのに合わせてヒミカが迎えに歩み寄った時、ドボンと音がした。

「トモ!」

 トモが庭の池に落ちていた。慌てて庭に降りようとするヒミカを具親が上衣をサッと脱いでヒミカに投げ寄せて留めた。

「彼は泳ぎは?」

 ヒミカは首を横に振る。

「湯を沸かしておいてください」

 言うなり具親は池に飛び込んだ。

 やがて、具親に押し出されてトモが池から上がってくる。続いて具親も。

「御免なさい。お着物が大変なことに」

 謝ったヒミカに具親はそっと首を横に振って笑った。

「男の子は元気で良い。トモは立派に育ってますよ。頼もしいことだ」

 そう言って単を脱いで絞るのを、ヒミカは受け取り、早く此方へと誘った。


「あったかぁい」

 共に湯に浸かり、笑顔を見せるトモに具親はお湯を肩からかけてやりながら笑った。

「泳ぐにはまだ寒いぞ。ほら、よくあったまって風邪を引き込まぬように。お母君や祖母上に風邪を移したら大変だからな。また夏になって暑くなったら、嵯峨辺りの川へ行くと水が澄んでいて気持ち良いぞ。そこで泳ぎを覚えるといい」

「へぇ、楽しそう。佐殿、連れて行ってくれるの?」

「いいとも」

 快諾した具親がヒミカを振り仰いで微笑む。

「嵯峨までは、のんびりと千代の道を往くのです。避暑にはうってつけの土地ですよ」

「千代の道?」

 ええと答えた具親は歌を口ずさみ出した。

——君が代は千代に八千代にさざれ石のいわおとなりて 苔むすまで

「何それ?また和歌ぁ?」

 文句を言うトモに具親は苦笑して言った。

「そう、古今集の歌。そんな顔をするではない。流れが良いだろう?」

 うーんと首を捻るトモの代わりにヒミカが応じる。

「ええ。響きが美しいです。どなたのお歌ですか?」

「読み人知らずです。これは愛の歌と言われています」

「愛の歌?恋の歌ではなくて?」

「ええ」

 その時トモがくしゃみをした。

「おや、いけない。姫の前殿、湯ざめしてしまう前に早く着替えさせてあげてください」

 そこで話は途切れてしまった。

 その夕方、火鉢に当たりながらくゆる炭をぼんやりと眺める。


「君が代は千代に八千代に」

 その響きを思い出しながら口ずさむ。愛の歌と言っていた。

 でも、愛ってなんだろう?

 形のないもの。見えぬもの。揺らぐもの。

 ううん、揺れているのはヒミカ自身。

──苦しい。息が苦しい。胸が。

 足元が覚束ない、そんな心地がしてヒミカは胸を押さえた。


──カサ

胸元にしまいこんだ紙が音を出す。

 でも、それをまた奥へとしまいこんでヒミカは立ち上がった。



 その夜のことだった。寝付けなかったヒミカは縁に出てぼんやりと朧月を見ていた。身体が冷えたら頭も冷えるような気がしたのだ。

「お方様?」

「はい。どなた?」

 声をかけられて、つい返事をしてしまう。ハッと思った時には遅かった。ヒミカは担ぎ上げられていた。

——攫われる。嫌だ!


咄嗟に呼んだ名は彼のものではなかった。

「具親様!」
しおりを挟む
感想 3

あなたにおすすめの小説

鎌倉最後の日

もず りょう
歴史・時代
かつて源頼朝や北条政子・義時らが多くの血を流して築き上げた武家政権・鎌倉幕府。承久の乱や元寇など幾多の困難を乗り越えてきた幕府も、悪名高き執権北条高時の治政下で頽廃を極めていた。京では後醍醐天皇による倒幕計画が持ち上がり、世に動乱の兆しが見え始める中にあって、北条一門の武将金澤貞将は危機感を募らせていく。ふとしたきっかけで交流を深めることとなった御家人新田義貞らは、貞将にならば鎌倉の未来を託すことができると彼に「決断」を迫るが――。鎌倉幕府の最後を華々しく彩った若き名将の清冽な生きざまを活写する歴史小説、ここに開幕!

黄金の檻の高貴な囚人

せりもも
歴史・時代
短編集。ナポレオンの息子、ライヒシュタット公フランツを囲む人々の、群像劇。 ナポレオンと、敗戦国オーストリアの皇女マリー・ルイーゼの間に生まれた、少年。彼は、父ナポレオンが没落すると、母の実家であるハプスブルク宮廷に引き取られた。やがて、母とも引き離され、一人、ウィーンに幽閉される。 仇敵ナポレオンの息子(だが彼は、オーストリア皇帝の孫だった)に戸惑う、周囲の人々。父への敵意から、懸命に自我を守ろうとする、幼いフランツ。しかしオーストリアには、敵ばかりではなかった……。 ナポレオンの絶頂期から、ウィーン3月革命までを描く。 ※カクヨムさんで完結している「ナポレオン2世 ライヒシュタット公」のスピンオフ短編集です https://kakuyomu.jp/works/1177354054885142129 ※星海社さんの座談会(2023.冬)で取り上げて頂いた作品は、こちらではありません。本編に含まれるミステリのひとつを抽出してまとめたもので、公開はしていません https://sai-zen-sen.jp/works/extras/sfa037/01/01.html ※断りのない画像は、全て、wikiからのパブリック・ドメイン作品です

密教僧・空海 魔都平安を疾る

カズ
歴史・時代
唐から帰ってきた空海が、坂上田村麻呂とともに不可解な出来事を解決していく短編小説。

聖女召喚されて『お前なんか聖女じゃない』って断罪されているけど、そんなことよりこの国が私を召喚したせいで滅びそうなのがこわい

金田のん
恋愛
自室で普通にお茶をしていたら、聖女召喚されました。 私と一緒に聖女召喚されたのは、若くてかわいい女の子。 勝手に召喚しといて「平凡顔の年増」とかいう王族の暴言はこの際、置いておこう。 なぜなら、この国・・・・私を召喚したせいで・・・・いまにも滅びそうだから・・・・・。 ※小説家になろうさんにも投稿しています。

札束艦隊

蒼 飛雲
歴史・時代
 生まれついての勝負師。  あるいは、根っからのギャンブラー。  札田場敏太(さつたば・びんた)はそんな自身の本能に引きずられるようにして魑魅魍魎が跋扈する、世界のマーケットにその身を投じる。  時は流れ、世界はその混沌の度を増していく。  そのような中、敏太は将来の日米関係に危惧を抱くようになる。  亡国を回避すべく、彼は金の力で帝国海軍の強化に乗り出す。  戦艦の高速化、ついでに出来の悪い四姉妹は四一センチ砲搭載戦艦に改装。  マル三計画で「翔鶴」型空母三番艦それに四番艦の追加建造。  マル四計画では戦時急造型空母を三隻新造。  高オクタン価ガソリン製造プラントもまるごと買い取り。  科学技術の低さもそれに工業力の貧弱さも、金さえあればどうにか出来る!

ハンリュウ! 〜隋帝国の野望〜

魔法組
歴史・時代
 時は大業8(西暦612)年。  先帝である父・文帝を弑し、自ら隋帝国2代皇帝となった楊広(後の煬帝)は度々隋に反抗的な姿勢を見せている東の隣国・高句麗への侵攻を宣言する。  高句麗の守備兵力3万に対し、侵攻軍の数は公称200万人。その圧倒的なまでの兵力差に怯え動揺する高官たちに向けて、高句麗国26代国王・嬰陽王は一つの決断を告げた。それは身分も家柄も低い最下級の将軍・乙支文徳を最高司令官である征虜大将軍に抜擢するというものだった……。  古代朝鮮三国時代、最大の激戦である薩水大捷のラノベーション作品。

地獄の業火に焚べるのは……

緑谷めい
恋愛
 伯爵家令嬢アネットは、17歳の時に2つ年上のボルテール侯爵家の長男ジェルマンに嫁いだ。親の決めた政略結婚ではあったが、小さい頃から婚約者だった二人は仲の良い幼馴染だった。表面上は何の問題もなく穏やかな結婚生活が始まる――けれど、ジェルマンには秘密の愛人がいた。学生時代からの平民の恋人サラとの関係が続いていたのである。  やがてアネットは男女の双子を出産した。「ディオン」と名付けられた男児はジェルマンそっくりで、「マドレーヌ」と名付けられた女児はアネットによく似ていた。  ※ 全5話完結予定  

さようなら竜生、こんにちは人生

永島ひろあき
ファンタジー
 最強最古の竜が、あまりにも長く生き過ぎた為に生きる事に飽き、自分を討伐しに来た勇者たちに討たれて死んだ。  竜はそのまま冥府で永劫の眠りにつくはずであったが、気づいた時、人間の赤子へと生まれ変わっていた。  竜から人間に生まれ変わり、生きる事への活力を取り戻した竜は、人間として生きてゆくことを選ぶ。  辺境の農民の子供として生を受けた竜は、魂の有する莫大な力を隠して生きてきたが、のちにラミアの少女、黒薔薇の妖精との出会いを経て魔法の力を見いだされて魔法学院へと入学する。  かつて竜であったその人間は、魔法学院で過ごす日々の中、美しく強い学友達やかつての友である大地母神や吸血鬼の女王、龍の女皇達との出会いを経て生きる事の喜びと幸福を知ってゆく。 ※お陰様をもちまして2015年3月に書籍化いたしました。書籍化該当箇所はダイジェストと差し替えております。  このダイジェスト化は書籍の出版をしてくださっているアルファポリスさんとの契約に基づくものです。ご容赦のほど、よろしくお願い申し上げます。 ※2016年9月より、ハーメルン様でも合わせて投稿させていただいております。 ※2019年10月28日、完結いたしました。ありがとうございました!

処理中です...