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第六章 宇津田姫
第11話 神の手
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「はいはい、おりますよ」
具親がのんびりと返事をして立ち上がる。ふわりと漂う白檀の薫り。そう言えば、仙洞御所から戻って着替えてもいなかった。
トモはズカズカと上がり込み、具親の袖を引っ張る。
「お願い、来て!シゲが泣いてるの。仔猫が大変だって」
「仔猫?あの妹の部屋の仔猫ですか?まだ居たのですね」
「いいから早く!」
トモは具親の手を引っ張ると隣の屋敷まで引き摺るようにして引っ張って行く。庭に下りた具親を見たら裸足だった。ヒミカは慌てて草履を取ってくると二人を追い掛ける。
「仔猫の声が弱くなってるってシゲが言ってるんだ。あの戸を開けてあげてよ」
「母猫が連れて行ったのではないの?」
横からヒミカが口を出すが、具親は黙って部屋の前に立つと戸をグッと押した。だが戸は開かない。ガタガタと何度か試した後に具親は言った。
「妹はこの戸から普通に出て行ったので、中から関がかけられているわけではない。戸に何かがつっかえてしまっているのかも知れません」
それからシゲとトモに後ろに下がるよう指示し、上衣を脱ぐとヒミカに手渡した。中に着ていた上質な単の袖をぐいと捲り上げると、鍛えられた太い腕が剥き出しになる。それは武人の腕だった。初めて会った時のちぐはぐな恰好を思い出す。あれもきっと参内の帰途だったのだろう。でも何事かあったと駆け付けて来てくれたのだ。それは左兵衛佐だからなのか、それとも。
そう言えば、前に具親の邸の庭を掃除していた時に一箇所だけ土が固く滑らかになって丹念に踏み固められた所があるのに気付いた。また、ひどく擦り切れた草履も。村上源氏の血筋だと言っていた。今は歌人として殆ど戦には出ないとしても、武人なら鍛錬を怠ることはない筈。
具親は戸に両掌を当ててギシギシと押し始めた。でも戸は軋む音は立てるものの、開く気配を見せない。具親は両脚を肩幅に開いて真っ直ぐ立つと、フゥーと長く息を吐き切って目を閉じた。それからスウと息を吸い込み、静かに両掌を戸に当てる。
「ハッ!」
掛け声と共に戸をゆっくりと押した。いや、ただ優しく撫でただけのようにヒミカには見えた。でも。
——ガタン
部屋の中から何かが倒れる音がした。
——ギッ。
「開きましたよ」
細く開けられた隙間から真っ先に中に飛び込んで行ったのはシゲだった。それを追って具親が中へと入り、閉ざされていた蔀戸を開け放った。光と風が差し込んできて、灰色一色だった部屋が一気に色を持つ。ヒミカの目に飛び込んできたのは、床に散らばされた色鮮やかな絵巻の数々。また、和歌だろうか。書き散らされた白い紙片が風に飛ばされて舞い上がり、遠い過去に八幡宮で見た白い鳩のように飛び回る光景。
そして、その中を差し込む光に照らされながら此方に背を向ける立派な体躯の雅やかな男。降りしきる桜の花びらを眺めて和歌でも詠んでいるように見えて、やはり此処は京の都なのだなとぼんやり眺めてしまう。
やがてシゲがその手に一匹の黒い小さな仔猫を乗せて出て来た。
「やっぱり一匹いた。いたよ!」
「母猫はもう居ないようですね」
「この子だけ置いて行かれちゃったみたい。どうしよう。ね、母上?」
問われて、ヒミカはハッと意識を仔猫とシゲに戻す。
「大分弱ってるわね。でもまだ生きてるわ。よく気付いてあげたわね。とにかくすぐ温めて粥の上澄みを与えてみましょう」
「まぁ、貴女ったらまた猫を拾ってきて。本当にしようのない子ね」
顔を出してきた母はそう言ったが、その手には温石を抱えていて、それをシゲに渡すと、いそいそと炊事場へ向かって行った。ヒミカは具親の肩に付いた埃を払おうと彼の隣に並ぶ。具親はヒミカを見下ろして柔らかに微笑んだ。
「また?貴女は前にも仔猫を拾ったのですね」
具親の問いに、ええと頷く。
「出逢うのは縁があるからだと私の祖母は言ってました」
「縁、ですか」
「はい。だから私はなるべくやって来るものはそのまま受け入れるようにしています」
「やって来るものって、野盗や野犬もですか?」
からかう具親を軽く睨む。
「嫌なものは嫌です。精一杯抗います」
すると具親は快活に笑った。
「それは安心した。貴女が本気で抗うなら、盗賊団とて無傷では居られないでしょう」
「え?」
「初めて逢った時に物凄い力で車を引き摺っておられた。貴女は生まれつきの怪力の持ち主なのですか?」
「いえ、あのような力はごくたまにしか出てきません。出そうと思って出せる力ではないようです。私は神がお助け下さったのだと思っています」
すると具親は、ああと頷いた。
「東国よりも北、遥か東北の地には、『神の手』と呼ばれる古からの秘術があると聞きました」
「神の手?」
「ええ。自らに神を降ろし、人ならぬ力や速さを生みだす秘術だと。いざの時に王を護る為に存る技で、何度もは使えぬ危うい禁術として封じられているとか。貴女の怪力はそのような類いのものなのかも知れませんね」
二度と使うんじゃないよと言っていた祖母の顔を思い出す。具親は続けた。
「貴女は先程、出逢うのは縁だと言った。正直にお話しします。私は貴女を一目見た時に浅からぬ縁を感じた。いえ、もっと下世話な言い方をさせていただくと貴女に一目惚れしたのです。貴女が欲しいと思った。それで攫った。私は野盗と同じだ」
ヒミカは黙って具親を見つめた。
好意を寄せられていることに気付かなかったとは言わない。そう、気付いていて自分はそれを利用した。母や子らの為だと言い訳しながら胸の内をグルグルと巡る毒のような感情に苛まれていた。でも——。
「御免なさい。私はまだ先の夫を忘れることが出来ません」
正直に口にして頭を下げる。
この人は悪い人ではない。だからこれ以上甘えてはいけない。期待させては。
そして、期待をしても。
具親がのんびりと返事をして立ち上がる。ふわりと漂う白檀の薫り。そう言えば、仙洞御所から戻って着替えてもいなかった。
トモはズカズカと上がり込み、具親の袖を引っ張る。
「お願い、来て!シゲが泣いてるの。仔猫が大変だって」
「仔猫?あの妹の部屋の仔猫ですか?まだ居たのですね」
「いいから早く!」
トモは具親の手を引っ張ると隣の屋敷まで引き摺るようにして引っ張って行く。庭に下りた具親を見たら裸足だった。ヒミカは慌てて草履を取ってくると二人を追い掛ける。
「仔猫の声が弱くなってるってシゲが言ってるんだ。あの戸を開けてあげてよ」
「母猫が連れて行ったのではないの?」
横からヒミカが口を出すが、具親は黙って部屋の前に立つと戸をグッと押した。だが戸は開かない。ガタガタと何度か試した後に具親は言った。
「妹はこの戸から普通に出て行ったので、中から関がかけられているわけではない。戸に何かがつっかえてしまっているのかも知れません」
それからシゲとトモに後ろに下がるよう指示し、上衣を脱ぐとヒミカに手渡した。中に着ていた上質な単の袖をぐいと捲り上げると、鍛えられた太い腕が剥き出しになる。それは武人の腕だった。初めて会った時のちぐはぐな恰好を思い出す。あれもきっと参内の帰途だったのだろう。でも何事かあったと駆け付けて来てくれたのだ。それは左兵衛佐だからなのか、それとも。
そう言えば、前に具親の邸の庭を掃除していた時に一箇所だけ土が固く滑らかになって丹念に踏み固められた所があるのに気付いた。また、ひどく擦り切れた草履も。村上源氏の血筋だと言っていた。今は歌人として殆ど戦には出ないとしても、武人なら鍛錬を怠ることはない筈。
具親は戸に両掌を当ててギシギシと押し始めた。でも戸は軋む音は立てるものの、開く気配を見せない。具親は両脚を肩幅に開いて真っ直ぐ立つと、フゥーと長く息を吐き切って目を閉じた。それからスウと息を吸い込み、静かに両掌を戸に当てる。
「ハッ!」
掛け声と共に戸をゆっくりと押した。いや、ただ優しく撫でただけのようにヒミカには見えた。でも。
——ガタン
部屋の中から何かが倒れる音がした。
——ギッ。
「開きましたよ」
細く開けられた隙間から真っ先に中に飛び込んで行ったのはシゲだった。それを追って具親が中へと入り、閉ざされていた蔀戸を開け放った。光と風が差し込んできて、灰色一色だった部屋が一気に色を持つ。ヒミカの目に飛び込んできたのは、床に散らばされた色鮮やかな絵巻の数々。また、和歌だろうか。書き散らされた白い紙片が風に飛ばされて舞い上がり、遠い過去に八幡宮で見た白い鳩のように飛び回る光景。
そして、その中を差し込む光に照らされながら此方に背を向ける立派な体躯の雅やかな男。降りしきる桜の花びらを眺めて和歌でも詠んでいるように見えて、やはり此処は京の都なのだなとぼんやり眺めてしまう。
やがてシゲがその手に一匹の黒い小さな仔猫を乗せて出て来た。
「やっぱり一匹いた。いたよ!」
「母猫はもう居ないようですね」
「この子だけ置いて行かれちゃったみたい。どうしよう。ね、母上?」
問われて、ヒミカはハッと意識を仔猫とシゲに戻す。
「大分弱ってるわね。でもまだ生きてるわ。よく気付いてあげたわね。とにかくすぐ温めて粥の上澄みを与えてみましょう」
「まぁ、貴女ったらまた猫を拾ってきて。本当にしようのない子ね」
顔を出してきた母はそう言ったが、その手には温石を抱えていて、それをシゲに渡すと、いそいそと炊事場へ向かって行った。ヒミカは具親の肩に付いた埃を払おうと彼の隣に並ぶ。具親はヒミカを見下ろして柔らかに微笑んだ。
「また?貴女は前にも仔猫を拾ったのですね」
具親の問いに、ええと頷く。
「出逢うのは縁があるからだと私の祖母は言ってました」
「縁、ですか」
「はい。だから私はなるべくやって来るものはそのまま受け入れるようにしています」
「やって来るものって、野盗や野犬もですか?」
からかう具親を軽く睨む。
「嫌なものは嫌です。精一杯抗います」
すると具親は快活に笑った。
「それは安心した。貴女が本気で抗うなら、盗賊団とて無傷では居られないでしょう」
「え?」
「初めて逢った時に物凄い力で車を引き摺っておられた。貴女は生まれつきの怪力の持ち主なのですか?」
「いえ、あのような力はごくたまにしか出てきません。出そうと思って出せる力ではないようです。私は神がお助け下さったのだと思っています」
すると具親は、ああと頷いた。
「東国よりも北、遥か東北の地には、『神の手』と呼ばれる古からの秘術があると聞きました」
「神の手?」
「ええ。自らに神を降ろし、人ならぬ力や速さを生みだす秘術だと。いざの時に王を護る為に存る技で、何度もは使えぬ危うい禁術として封じられているとか。貴女の怪力はそのような類いのものなのかも知れませんね」
二度と使うんじゃないよと言っていた祖母の顔を思い出す。具親は続けた。
「貴女は先程、出逢うのは縁だと言った。正直にお話しします。私は貴女を一目見た時に浅からぬ縁を感じた。いえ、もっと下世話な言い方をさせていただくと貴女に一目惚れしたのです。貴女が欲しいと思った。それで攫った。私は野盗と同じだ」
ヒミカは黙って具親を見つめた。
好意を寄せられていることに気付かなかったとは言わない。そう、気付いていて自分はそれを利用した。母や子らの為だと言い訳しながら胸の内をグルグルと巡る毒のような感情に苛まれていた。でも——。
「御免なさい。私はまだ先の夫を忘れることが出来ません」
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