【完結】姫の前

やまの龍

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第六章 宇津田姫

第14話 虜

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  翌日、トモを連れて具親の所に御礼と謝罪に出向く。具親は珍しく少し地味な色合いの簡素な狩衣に着替えていた。

「おや、おはようございます。少しは眠れましたか?」

 具親はヒミカにそう声を掛けてからトモに向かう。

「怪我はなかったかな?」

 にっこり笑いかけた具親にトモは安心したのだろう。素直に頭を下げて謝った。
「昨晩は御免なさい。俺、盗賊だと思っちゃって」

「ええ、分かってますよ。お母君を守る為に刀を手にしたのでしょう。勇敢な姿でした。足も速くて驚いた。力も強い。俯瞰ふかん出来るようになれば、もっと強くなるでしょう」

「フカン?何?それ」

「戦闘の状況を正しく観るのに必要な目のことですよ」

 トモは、へぇ、と呟き、ニヤッと笑った。

「じゃあ、今日はそのフカンってヤツと、あとこの前の鐘を鳴らすヤツの二つを教えてね」

「やれやれ、わかりましたよ。ただ、今日は急ぎ出掛けねばならぬ所があるので、そこから戻ってからですね。それまではこれで稽古していてくれるかな」

 そう言って具親はトモに小さな鐘を渡した。

「あの枝にでも吊るして鳴らしてみてください。コツは風を呼ぶことだそうですよ」

「風?」

「ええ。風は龍の化身。その力を借りて鐘を鳴らすのだそうです」

 ヒミカは驚いて具親を見つめる。

具親もヒミカを見返して口を開いた。

「昨晩は私を呼んで下さって有難う御座いました」

 そう言ってふわりと微笑む。そこに亡き父の面影をみて、思わずヒミカは目線を落とした。

「嬉しかったです。貴女にあのように名を呼ばれるのは二度目だ」

「え、二度目?」

 既に何度も名で呼んでる筈。そう言おうとしたが具親が先に言葉を紡いだ。

「最初に出逢った日、貴女が車を引きながら「トモ!」と叫んだ時、私のことを呼んでるのでないことは分かっていました。でも私の胸は貴女の声に応じて突如動き出したのです。貴女の声をもっと聞きたいと、私に「動け」と命じた。気付いたら、私は牛車から飛び降りて駆け出していた。声の持ち主を確かめる為に。そして気を失った貴女を抱えて自分の牛車へと乗せた。咎められたらとか誰か知り合いに見られて噂されたらとか、そのような考えが浮かぶのを私の心は全て打ち消して、貴女を優先させた。その時、心奪われるとは、誰かの虜になるとはこの事かと、やっと私は理解した。生まれて初めてのことでした」

「あの、でも」

 ヒミカが言いかけるが、具親はサッと立ち上がると足早に出掛けて行った。残されたヒミカはぼんやりと呟いた。

「龍」

 風や水を司るのは、確かに龍。でもそんなことを口にするのは山伏などの修験者だけではないだろうか。とても都人の言葉とは思えない。そう言えば、具親は京言葉を使ったり止めたりと使い分けているようだった。やはり不思議な人だと思いながら具親の去った屋敷をぼんやりと眺める。具親が次に戻って来たら尋ねてみよう。

 それに彼に聞きたいことは他にも幾つかあった。君が代のこと、神の手のこと、そして阿波局からの文にあった「源佐兵衛佐 具親殿内室」のこと。妻の振りだと言っていたのに、どうして鎌倉にはヒミカが源具親の妻になったと伝わってしまっているのか。阿波局がこう書いてきたということは、コシロ兄もそう思っている筈。それで継室を娶ることになったのではないか?

 でも、それから数日、具親は屋敷に戻って来なかった。その間、ヒミカはぼんやりと文を眺めて過ごしていた。やっぱりどこか呑み込めない。信じられない。嘘だと思いたかった。拒もうとしていた。涙も流れず、ただ送られた文の字面を目で追うばかり。立ち上がる気力も出ずにへたり込んでいた。でも幼い子らはそれを許してくれない。

「母上ぇ、カグヤが邪魔するよぉ。ほら見て。絵巻がグチャグチャ」

 シゲが言ったかと思うと、カグヤに筆を奪われたヨリがカグヤから筆を取り返し、カグヤが大泣きする。するとトモがやってきて、カグヤを宥めようとするのだが、彼は周りを見ずに歩き回るから、シゲが大切に眺めていた絵巻や書を蹴散らし、ヨリが向かっていた絵まで踏んで色筆を蹴り飛ばして部屋の中を荒らして回り、終いには母が飛んで来て、子らは皆一斉に庭に放り出された。

「子どもは風の子。外で遊んでらっしゃい。さ、今の内に部屋の中を片付けるわよ。ほら、ヒミカ。あなたもぼんやりしてないで」

 母に急かされ、仕方なく立ち上がる。庭はと見れば、初めは寒い寒いと不平を漏らしていた子らが、もう笑顔で駆け回り始めていてミカは目元を緩めた。

——幸せな光景だ。そう、少なくとも今この時だけは子らが笑っていて、母が側に居てくれて、この夜の心配をせずに生きていられる。そう、それだけで充分に幸せなこと。ぼんやりしていたらもったいない。

「よし!」

ヒミカは袖をまくって襷をかけると庭へ下りた。具親がトモに渡した小さな鐘に手を差し伸べる。アサ姫の上に落ちてきた龍の姿を思い浮かべながら。

——リン。

「あ、鳴った!」

 シゲが歓声を上げる。

「えっ、どうやったの?」

 問うたトモにヒミカは微笑んだ。

「さぁ、どうかしら。よくわからなかったわ。龍が空から降りてきて、からかって鳴らしてくれたのではないかしら」

そう、ヒミカにはわからない。ただ、誰かがくすりと笑ったような気配がしただけ。

「あ、母上、お護りが落ちたよ」

 シゲがヒミカの袂から落ちた護り袋を拾って手渡してくれる。

——全てはお計らいだよ。

 そんな祖母の声が聴こえた気がした。その時、色々なことが急にすとんと腑に落ちた気がした。

鎌倉には、もうヒミカの居場所はない。京に来て、とにもかくにも居場所を見つけられたということは、そういうことだったのかも知れないと。

「あ、あれ何?白い鳥!」

 トモの声に空を見上げたヒミカは、見覚えのある白い鳥を認めた。確かあれは尾三郎の鳥。ヒミカは急いで部屋に上がると、仕舞い込んでいた白い細布と、共に渡されていた笛、あと恐らく餌なのだろう小袋を取り出して庭へと戻った。


「ここよ」

 声を上げて笛を吹き、白い布をハタハタと振るヒミカに子らが驚いて駆け寄ってくる。

「母上、何してるの?」

 問うたシゲに、笑顔で答える。

「内緒のお仕事」

 鳥はサァッと降りてきて、少し離れた縁の端にチョンチョンと軽く爪を立てて着地すると羽を休めた。ヒミカはそっと近付いていって小袋の口を開けた。中の物を幾つか床に転がそうとしたが、出て来たのはカエルだった。ギョッとして小袋を放り出してしまう。白い鳥はチョンチョンと羽ばたきながらそれらを残らず啄ばみ、またサァッと羽を広げて飛んで行ってしまった。

「わぁ、母上。すごいね。鳥さんと仲良しだ」

「鳥の餌ってカエルなの?」

「え、だって今のは狩に使う鷹か隼でしょ?ネズミとか蛙を食べるって父上が言ってたよ」

 トモの言葉に青くなる。

「ネズミを捕まえないといけないの?」

 小袋で渡されたから木の実だと思い込んでいた。

「冬だから蛙は冬眠してるしね。でもネズミなら炊事場で張ってたら捕まえられるから、俺に任せてよ」

 力強いトモの言葉にホッとする。

「その代わり、今度あの鳥が来たら、俺に懐かせていい?」

 ヒミカは大きく頷いた。

「是非にもそうしてくれると嬉しいわ」


 それからまた数日後にやっと戻ってきた具親はひどく疲れた顔をしていた。

「お帰りなさいませ」

頭を下げて出迎えたら繁々と見つめられる。

「どうかなさいましたか?」

 具親は、いいえと首を横に振った後に小さく微笑んだ。

「妹が亡くなりました」

「え」

「もう覚悟していたので平気です。ただ明日からまた少し屋敷を開けるので、留守をお願いいたします。無用心になりますので、犬らは放したままにしておきます。庭にお出になられませんよう。今の内にお隣までお送り致します。さ、行きましょう」

 手を差し伸べられ、その手を掴む。冷たく冷えた手。具親の哀しみが伝わってくるようで、ヒミカはもう片方の手も添えると静かにさすった。

「痛いのいたいの飛んでいけ」

 心の中だけで静かに唱える。でも具親の足が留まった。そう気付いた次の瞬間、強く抱き締められていた。

「すみません。今だけ。今だけ堪忍しておくれやす」

 ヒミカは答えの代わりに具親の背をさすって歌を口ずさんだ。

「痛いのいたいの飛んで行け。痛いのいたいの飛んで行け」

 震える肩。彼に心がないなんて、そんなことあるわけない。何故そんなことを言うのか。もしや気付いてないだけ、または気付かない振りをしているだけではないのか。でもヒミカは何も言わずに、ただ具親の背をさすり続けた。




「では、行って参ります」

 翌朝、黒の衣装で出かける具親を見送る。

「行っていらっしゃいませ」

 そう頭を下げたら、具親が振り返って口を開いた。

「戻りましたら、改めて乞いたいことがあります」

 ヒミカは頷いた。

「はい、私もお聞きしたいことがございます」
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