【完結】姫の前

やまの龍

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第六章 宇津田姫

第2話 起請文の代償

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 北からの冷たい風に乗って、甘い金木犀の香りが漂ってくる。三島大社に植わっている金木犀からだろうと察した。隣をゆく三郎に話しかける。

「三郎殿、少しだけ三嶋大社に旅の無事を祈って来ていいかしら?」

 彼は無言で顎をしゃくった。いいらしい。でもよくわからない人だ。馬を下りて、母に一声かけて歩き出したら

「尾藤三郎だ。尾三郎と呼んでくれ」

 そんな声が聞こえた。

「尾藤?では、尾藤太郎景綱殿の?」

「弟だ。血は繋がってないが」

「まぁ、そうでしたか」

尾藤太郎と次郎はコシロ兄の従者で、江間の屋敷で何度も世話になった。でももう一人弟がいるとは知らなかった。太郎と次郎の兄弟は筋骨隆々で快活な笑顔の、いかにもな武人だったが、この尾三郎は痩せぎすでどこか飄々として得体が知れない。でも先日の乱闘での姿を見る限り、腕はかなり立つのだろう。

拝殿に向かって手を合わせた時、佐殿のことが思い起こされた。


佐殿は言っていた。三島大社の金木犀は京に都が移った頃に植えられ、樹齢が四百年を超える大木なのだと。御家再興の祈願をしに大社に通った日々にいつも慰められ、励まされたと。本当に見事な大木だった。薄い黄色の花がこんもりと太い幹を彩っている。

  そっと近寄ってその太い幹を見上げる。

「金木犀って近付くと香りが薄れるのに、離れるとまた香ってくるのは不思議ね」

 でも物も人もそういうものなのかも知れない。近過ぎると時にわからなくなる。でも離れると伝わる気がする。それは心だろうか。木の心、人の心、神の心。

ヒミカは荷車に戻ると母に向かって手を差し出した。母が首を傾げる。

「何?」

「母さま。ほら、あれ。持ってくださってるのでしょう?」

「え?食べ物なら私は隠してないわよ」

 とぼけた顔の母に噴き出す。

「食事にはまだ早いわ。江間様にいただいた起請文です」

 言ったら、母は渋々懐に手を差し入れ、折り畳まれた紙を取り出してヒミカに渡してくれた。やはり大事に持ってくれていたのだ。

「それ、どうするの?」

 問われ、ヒミカは微笑んだ。

「こうするの」

 懐に忍ばせていた小刀を抜き、後ろに束ねていた髪を掴んで前に寄せ、刃を当てる。

ヒミカ!」

 母の咎める声が聞こえたけれど、ヒミカは迷わず手を動かした。

——ザッ!

 小気味良い音を立てて何かが吹っ切れる。


 すっきりした気分で天を見上げた。

「あら、本当。頭が軽いわ。心も軽くなるよう」

——サラリ。

 視界の端に、風になびく黒い髪の先端が映る。少女の頃を思い出す。櫛で梳かれるのが痛くて面倒で、母の手から逃げ回っていた。でも、もうそれ程面倒ではないだろう。

 切り落とした長い髪の束をその白い紙に挟んで、懐から取り出した布に包んだ。大社に向かって頭を下げる。

「私はこれをもって江間義時殿と離縁いたしました。神への誓いの代償として、この髪を捧げます」

 それから振り返って尾三郎を見た。包みを差し出す。

「尾藤三郎殿、江間様にお伝えくださいませ。先妻は既に亡き者として、この髪と起請文を供養して欲しいと」

 尾藤三郎は無表情のまま「承知」と短く答えると包みを受け取り、斜めに背負った袋に丁寧にそれを収めてくれた。

「有難う。感謝します」

 その時、

「え。姫姉ちゃん?」

 聞き覚えのある声がして振り返れば、五郎時房が立っていた。

「まぁ、時房様。大社に奉幣のお使いでいらしたのですか?」

 時房はううんと首を横に振った。


「いや、俺は別の使いで。いや、それより、その髪の毛どうしたの?」

「え。ああ、邪魔なので切りました。さっぱりしました」

「さっぱりって……」

 沈痛な面持ちになる時房に、そんなにみっともないのだろうかと落ち込みかける。けれど努めて明るく笑って見せた。

「では富士の浅間神社への奉幣でしょうか?」

 すると時房はヒミカに合わせて明るく答えてくれた。

「いいや、あそこは大蛇が出るんだろ?富士のお山は見て拝むだけのものだよ。近付くもんじゃない。って、そうじゃなくて、俺は京まで行くんだ」

「京まで?」

「そう、京の御所。だから、ついでに姫姉ちゃんたちを送って行こうと思ってね。追いつけて良かった」

「え、でも」

 自分は追われている立場なのにいいのだろうか。戸惑うヒミカに、時房はニッと笑った。

平気平気。尼御台様からのご命令のついでだから」

「尼御台様?」

「ほら。俺って蹴鞠が得意だろ?だから、同じ蹴鞠好きな主上に気に入られて京のことを色々探ってこいってさ。俺って面構えもいいし天賦の才に恵まれちゃってるから使い回されるんだよね。ああ、出来る男って辛いなぁ」

 その軽い口調に時房の思いやりが感じられる。それにアサ姫の心遣いも。自分を案じてくれる人たちがこんなにいる。自分は恵まれていると感じて胸が温まる。時房は笑顔で続けた。

「大姉上や小々姉上から色々預かってるけど、それは後で渡すね。まずは暗くなる前に次の駅まで向かおう」


 と、トモが悲鳴を上げた。

「ねぇ、まだなの?もうお腹空いて我慢出来ないよぉ」

 情けない声に皆が笑う。ヒミカは懐から小袋を出してトモに渡した。

「皆で分けて少しずつ食べなさい」


「尾三郎」

 時房が尾三郎に声をかける。

「ここから先は俺が彼女らを送っていくから、お前は先に鎌倉に戻っていてくれないか?」


 対し、尾三郎は顔を背けた。

「俺も京に用があるんでね」

 不遜な態度に、だが時房は笑って答えた。

「なるほど、了解。じゃあ彼女たちは俺に任せて先に京へ行け」

「ああ。そりゃ、どうも」

 言うなり、時房の馬を引き寄せ、代わりに荷車を引いていた馬の手綱を時房に渡すと、尾三郎はさっさと行こうとした。

「あの!」

 ヒミカの声に尾三郎が振り返る。

「前に仰っていた頼みたいこととは?」

 いつ尋ねようかと思っていた。


 尾三郎の切れ長の目に鈍い光が宿った。ヒミカの横に立ち、白い鉢巻のような物を差し出して口を開く。

「これを居所の庭か近隣の林の高い枝に縛り付け、たまに様子を見てくれ。で、近くに白い鳥がおったら、この笛で呼んでこれを一欠片食べさせて馴らすんや。その内、近くに寄るようになるから、その足に紙が巻き付けてあったら、それを外し、中をあらためて欲しい」

 
 共に渡された小袋を受け取ってヒミカは頷いた。尾三郎はひらりと馬に跨ってさっさとその場を去って行った。その背に向かって声を上げる。


「尾三郎殿。どうか、江間様をお守り下さいませ。お願いいたします」

深く頭を下げる。尾三郎は返事も振り返りもせずに駆け去って行った。




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