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第六章 宇津田姫
第1話 「痛いのいたいの、とんでけ
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本当は共に行きたかった。生きたかった。でも。
「行け!」
その低い声はヒミカに抗うことを赦さない。追うことを許さない。
やがて道が開け、眼前に不二のお山がそびえる。
「まぁ、今日も美しいこと」
母が歓声を上げ、カグヤを懐から出して山を見せるように前を向かせる。
「ほら、カグヤ。あれが不死のお山ですよ。貴女が帝に不老不死の薬を燃やさせた霊山ですよ。でも貴女は月に還らないで、婆の側に居てね」
そう言って愛し気にカグヤを頬ずりする母。その姿をぼんやりと眺めたヒミカはふと気付いて声を上げた。
「やだ。母さまったら、いつの間に髪を!」
母は髪を肩の辺りで切り揃えた尼姿となっていた。よくよく見れば、その着物も青鈍色の地味なもの。
「そんな、いつの間に」
驚いてそれしか言えない。母は昔からずっと、自らの長く美しい黒髪を自慢にしていて、父が亡くなった後も出家せず、いつも櫛を通して大切にしていたのに。
「だって逃げなくてはいけないのでしょう?子らをこんなに連れて。ならば、野盗に狙われないようにしなくてはと思ってね。シマちゃんに切って貰ったの。頭が軽くなって風が心地良いこと。もっと前に切っておけば良かったわ」
そう言って愉しげに笑う母。
本当なら、今頃は孫に囲まれてのんびりとした時を過ごせていた筈の母。でも、これから馴染みのない土地へと向かわねばならない。
「ごめんなさい」
それしか言えない。母は笑って答えた。
「お義母上がよく言ってたでしょ。どれもこれもお計らいだって。どんと腹を据えて楽しむ余裕がお前には足りないねぇってよく叱られた。だから向こうに行ったら言ってやるの。いえいえ、私は孫と一緒に京の都で優雅な生活をしてきたんですのよ。本当に楽しかったこと。義母上様が憧れてたお歌の会にだって参加したんですからって。きっと悔しがるわ。そう思わない?」
おどけた母の物言いにヒミカは笑った。二人の掛け合いが目に浮かんで笑い、それからホッと息をつく。
「母さま、ありがとう」
幼い頃からわだかまっていた母への想いが解けていく。
気が抜けてしまったのか、頬をスルスルと流れ下る涙。その時、同時に大きな泣き声が響いた。
トモだった。トモは大声で泣きながら叫んでいた。
「くそーっ!皆んなみんな、俺がぶった斬ってやるからな!」
叫びながら隠しも拭いもせずに大粒の涙を零すトモ。コシロ兄の前では我慢をしていたのだろう。ヒミカは馬を止めてトモを抱き締めた。
「ごめんね、トモ。ありがとう。大丈夫よ。きっと全てうまくいくわ」
そう言いながらもヒミカも涙が止まらない。
シゲが立ち上がって背伸びをした。トモの背とヒミカの肩に手を置く。
「泣かないで」
小さくて温かい掌。
「痛いのいたいの、飛んでいけ」
「痛いのいたいの、飛んでいけ」
トモも拳で顔を乱暴に拭うと声を張り上げた。
「痛いのいたいの、飛んでいけ」
「痛いのいたいの、とんでけってば!」
幼い声に囲まれて、ヒミカの中で記憶が過去に繋がる。
「痛いのいたいの、飛んでいけ」
「痛いのいたいの、とんでけってば」
あどけない可愛らしい声と雨の音。雷が猫のように喉を鳴らす音。地響き。
——北条の館で子どもたちと祝詞を奏上した時に聴いた声。現れた龍と突然降り出した雨。雷。ぼんやりしてて、コシロ兄に怒鳴りつけられたっけ。思い出してそっと頬を緩ませる。
その時にふと思った。もしかしたら、時というものは本当はいつでもどこでも互いに通じ合っているのかもしれない。ちょっとしたきっかけで、その世界と繋がることがあるのかもしれない。
——ならば、自分もまたコシロ兄とまた、いつか何処かで逢えるかも知れない。
ヒミカは涙を拭いて立ち上がった。子らの頭を撫で、笑顔で皆の肩を抱く。
有難う。もう平気よ」
——うん、平気。大丈夫。私は女のマスラオになる。
「行け!」
その低い声はヒミカに抗うことを赦さない。追うことを許さない。
やがて道が開け、眼前に不二のお山がそびえる。
「まぁ、今日も美しいこと」
母が歓声を上げ、カグヤを懐から出して山を見せるように前を向かせる。
「ほら、カグヤ。あれが不死のお山ですよ。貴女が帝に不老不死の薬を燃やさせた霊山ですよ。でも貴女は月に還らないで、婆の側に居てね」
そう言って愛し気にカグヤを頬ずりする母。その姿をぼんやりと眺めたヒミカはふと気付いて声を上げた。
「やだ。母さまったら、いつの間に髪を!」
母は髪を肩の辺りで切り揃えた尼姿となっていた。よくよく見れば、その着物も青鈍色の地味なもの。
「そんな、いつの間に」
驚いてそれしか言えない。母は昔からずっと、自らの長く美しい黒髪を自慢にしていて、父が亡くなった後も出家せず、いつも櫛を通して大切にしていたのに。
「だって逃げなくてはいけないのでしょう?子らをこんなに連れて。ならば、野盗に狙われないようにしなくてはと思ってね。シマちゃんに切って貰ったの。頭が軽くなって風が心地良いこと。もっと前に切っておけば良かったわ」
そう言って愉しげに笑う母。
本当なら、今頃は孫に囲まれてのんびりとした時を過ごせていた筈の母。でも、これから馴染みのない土地へと向かわねばならない。
「ごめんなさい」
それしか言えない。母は笑って答えた。
「お義母上がよく言ってたでしょ。どれもこれもお計らいだって。どんと腹を据えて楽しむ余裕がお前には足りないねぇってよく叱られた。だから向こうに行ったら言ってやるの。いえいえ、私は孫と一緒に京の都で優雅な生活をしてきたんですのよ。本当に楽しかったこと。義母上様が憧れてたお歌の会にだって参加したんですからって。きっと悔しがるわ。そう思わない?」
おどけた母の物言いにヒミカは笑った。二人の掛け合いが目に浮かんで笑い、それからホッと息をつく。
「母さま、ありがとう」
幼い頃からわだかまっていた母への想いが解けていく。
気が抜けてしまったのか、頬をスルスルと流れ下る涙。その時、同時に大きな泣き声が響いた。
トモだった。トモは大声で泣きながら叫んでいた。
「くそーっ!皆んなみんな、俺がぶった斬ってやるからな!」
叫びながら隠しも拭いもせずに大粒の涙を零すトモ。コシロ兄の前では我慢をしていたのだろう。ヒミカは馬を止めてトモを抱き締めた。
「ごめんね、トモ。ありがとう。大丈夫よ。きっと全てうまくいくわ」
そう言いながらもヒミカも涙が止まらない。
シゲが立ち上がって背伸びをした。トモの背とヒミカの肩に手を置く。
「泣かないで」
小さくて温かい掌。
「痛いのいたいの、飛んでいけ」
「痛いのいたいの、飛んでいけ」
トモも拳で顔を乱暴に拭うと声を張り上げた。
「痛いのいたいの、飛んでいけ」
「痛いのいたいの、とんでけってば!」
幼い声に囲まれて、ヒミカの中で記憶が過去に繋がる。
「痛いのいたいの、飛んでいけ」
「痛いのいたいの、とんでけってば」
あどけない可愛らしい声と雨の音。雷が猫のように喉を鳴らす音。地響き。
——北条の館で子どもたちと祝詞を奏上した時に聴いた声。現れた龍と突然降り出した雨。雷。ぼんやりしてて、コシロ兄に怒鳴りつけられたっけ。思い出してそっと頬を緩ませる。
その時にふと思った。もしかしたら、時というものは本当はいつでもどこでも互いに通じ合っているのかもしれない。ちょっとしたきっかけで、その世界と繋がることがあるのかもしれない。
——ならば、自分もまたコシロ兄とまた、いつか何処かで逢えるかも知れない。
ヒミカは涙を拭いて立ち上がった。子らの頭を撫で、笑顔で皆の肩を抱く。
有難う。もう平気よ」
——うん、平気。大丈夫。私は女のマスラオになる。
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