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第五章 明石
第31話 泰平の世
しおりを挟む「え?頼の字を返上?」
返上って誰に、と聞いてしまいそうになったが、察する。
「頼家殿に、ですか」
「はい」
「お父上は何と?」
「それでいいと仰って下さいました。代わりの字をどうしようかと問われたので、使いたい字があることを伝え、了承いただきました」
「使いたい字?」
「はい。泰の字を用いたいとお願いし、私はこれより泰時と名乗ることになりました」
そう言って、泰時は頭を下げた。
「江間太郎泰時と申します。以後、宜しくお願い致します」
「やすとき」
そう口ずさんでからヒメコは微笑んだ。
「美しくて澄んだ響きのお名前ですね。貴方に似つかわしいわ。良い名を冠されましたね」
途端、頼時、改め泰時は顔を綻ばせた。
「母上がそう言って下さるなら、佐殿が目指していた泰平の世に、少しでも近付くお手伝いがきっと出来ましょう」
「泰平の世」
「覚えておいでですか?鎌倉の大火があった後、比企のお婆様の所に暫く身を寄せさせていただきました。その折に、お婆さまが教えてくれた言葉です。私は泰平の世を目指したい。佐殿が目指して居られたその国を私は見たいのです」
ああ、とヒメコは思い出す。
「ただ、比企のお婆様が教えてくださったもう一つの言葉、『沈黙を友にして生きろ』を私は破ってしまった。蹴鞠に夢中になる御所様が気になり、ついその側近に零してしまったのです。天変地異は身を愼む機だと。諸国が飢饉に憂える中、蹴鞠を続けるのはどうなのか。貴方も側近であれば諫言すべきではないですか、と。それで御所様のお怒りを買ってしまいました」
「まぁ」
ヒメコはそれで成り行きを理解した。頼家にとって、頼の字を取り上げることは、父である頼朝を取り戻すに似たこと。幼い頃からの遺恨を晴らす機となってしまったのだろう。ヒメコは泰時の口惜しさ、寂しさをひしひしと感じながら、敢えて微笑んで言った。
「泰時殿。では、これからは改めて私のこの顔を忘れないように、猫のようにお生きなさい」
ヒメコは両掌を顔の横でくるんと丸めて猫の手を作り、ニャアオと鳴いた。泰時が口を開けて笑い出す。
「そうでした。お婆様はそうも仰っておられましたね。猫のように生きて仲間を増やし、泰平の世の先駆けとなれと」
ヒメコは頷いた。
「泰時殿、祖母のことを覚えていてくれて有難う」
その身は既にこの世になくても、その生きた証は心の中に残って、生きる力をくれる。そんな祖母を、ヒメコは改めて誇らしく、また羨ましく感じた。
「母上、もう一つお願いがあるのです。昨年、今年と悪天候の為に不作が続きました。昨年貸し付けた出挙米の貸付期限はこの秋ですが、返済の見込みが立たぬと、田畑を放棄して逃げる民が出そうとの噂を聞きました。それで、昨年のその貸付は無かったことにしたいのです。今後、豊作になったとしても追及せぬと。だから田畑を捨てずに土地に留まって今この苦境を耐えて欲しいと訴えるつもりでこちらに戻って参りました」
ヒメコは頷いた。
「ええ、稲を育てて下さる人々あっての我らです。貴方の思う通りになさいませ」
泰時は早速、所領の作人らを集めて、以前に貸し付けた稲の種籾の返還を今年は求めないことなどを伝え、彼らの目の前で債務の証文を焼き捨てた。歓喜し、涙を零す人々に囲まれる泰時を見ながら、ヒメコは改めて、泰時ならばきっと、泰平の世の先駆けとなってくれるだろうと、その日を夢想して涙を零した。
きっと頼朝も加勢してくれる。金剛力士——仁王様に護られたこの子を。
「ねぇ、母上。兄上は何故紙を燃やしてるの?そして、皆は何故あんなに喜んでるの?」
皆に囲まれている泰時を見て、トモが尋ねる。
「貴方のお兄上は出挙米の貸しを無しとされたのです」
「貸しが無しになるとどうなるの?」
「家族や大切な人たちが食べる物を得られて、皆が笑顔で生き延びることが出来るようになるのです」
トモがパンと手を叩いて言った。
「ああ、それで嬉しいから皆は泣いてるんだね。父上が言ってた、男でも泣いていいってそういうことなんだね」
ヒメコは微笑んで頷いた。
やがて泰時は馬に乗って、手を挙げた。
「それでは母上、私は鎌倉に戻ります。トモとシゲを宜しくお願いいたします」
「ええ。泰時殿もお励み下さい」
頭を下げて駆け去る泰時。それを駆けて見送るトモ。シゲはヒメコの腕に大人しく抱かれながら、遠ざかる馬をずっと見つめていた。
——この兄弟が揃って仲良く泰平の世を生き延びていってくれますように。
ヒメコは東の空に昇りつつある上弦の月を眺めながら、そう祈った。
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