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第五章 明石
第27話 狭間
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ヒメコは慌てて頭を下げる。
「あら、貴方はもう鎌倉殿なのですから、御所にお留まりなさい」
「いえ、比企谷に戻ります。一幡や若狭が待っておりますので」
言った声がふとこちらを向く。
「姫御前か。参内してるのか?」
ヒメコは額を床に擦りつけた。
「いえ、尼御台様にご挨拶に伺っただけです」
「ふぅん、姫御前が出仕してるなら、御所に留まっても良いが、違うのか」
ヒメコは黙ったまま平伏していた。頼家が近付いてくる足音がする。
「では、近い内に女房として御所へ出仕致せ」
——え、女房として?
ヒメコはその場で硬直した。確かにヒメコは過去に部屋付きの女房として御所に出仕していた。でも、頼家は頼朝とは違う。違う意図で呼ばれている気がして背筋に冷たい物が走る。
——どう断ればいいのか。でも、コシロ兄の立場を悪くするわけにはいかない。どうしよう?
助け舟を出してくれたのはアサ姫だった。
「頼家殿、我が儘を申すのではありません。姫御前はまだお子も小さい。出仕出来るとしても、まだまだ先の話」
「では、代わりに若狭を此方へ入れて良いですか?御台所として」
アサ姫がため息をついた。
「頼家殿、貴方の正室は賀茂の姫。側室を御所に入れることは出来ません」
「だが、あの姫は話が合わなくてつまらぬ。まだ子どもで疲れる」
「それでも、亡き将軍様がお定めになった正室です。その御遺志に逆らうおつもりか?」
睨むアサ姫に頼家は口を片側だけ上げて肩を竦めた。
「分かりましたよ。賀茂の姫はきちんと正室として扱いますよ。子を孕ませれば良いのでしょう?でも御台所になるのは若狭ですよ。だって母上だって本来は正室ではなかった。運良く私が産まれたから、北条時政が無理に正室に祀り上げただけでしょう?」
「頼家殿!一体誰が貴方にそんなことを吹き込んだのです!」
アサ姫の剣幕に頼家は薄く嗤うだけで首を横に軽く倒して口を開いた。
「嫡男なんて、別に正室の子でなくてもいいじゃないですか。家長が一番気に入った子が家を継げばいい。そう、父上お気に入りの頼時や千幡でも構わないのではないですか?」
——カツン。
物音にヒメコが顔を上げたら、頼家の脇に扇が落ちていた。アサ姫が投げつけたのだろう。阿波局が静かに立って、それを取りに行く。
「亡き将軍様は、貴方が生まれてよりずっと、貴方に後を継がせる為に苦心されて来ました。良き師をつけ、鎌倉殿として相応しいようにと立派にお育てした。そのお気持ちが汲めぬのなら、中将の官位も返上して一御家人におなりなさい。出家して僧になったっていいのよ!」
頼家は一瞬鼻白んだが、ややしてゆっくりと口を開いた。
「へぇ、やはりそれが母上の本音なのですね。素直で可愛い千幡を将軍にして、何もかも北条の思いのままにする気なのだ」
頼家は冷たい声でそう言うと、首を回して阿波局を見た。
「妹に乳母をさせ、褒めて可愛がって甘やかして育てた。そんな奴にこの鎌倉を渡すものか!」
そう言い放ち、頼家は立ち上がって部屋を後にした。アサ姫が呼び止めたが足音は戻って来なかった。
単に愛情がすれ違っただけの、よくある親子喧嘩、兄弟喧嘩の種は、でも武家においては戦火の火種となる。そして鎌倉において、それを消し止めることの出来る人は既に無かった。
「御所に行っていたそうだな」
その日帰宅したコシロ兄の固い声にヒメコは項垂れた。
「御免なさい。尼御台様や阿波局様にお会いしたかったのと、少し気になることがあったので、勝手に外出してしまいました」
「それで満足したのか?」
「え?」
「気にしていたことは解消したのか?」
「あ、はい。比礼御前様は河越重頼殿の妹姫でした」
「そうか」
短く答えたコシロ兄が、僅か間を取ってからヒメコを見た。
「殿に女房として出仕するよう言われたそうだな」
ヒメコはあの時の頼家の声と、同時に感じた気分の悪さを思い出して唇を噛む。
「はい。でも尼御台様が止めて下さいました。申し訳ありません。私にも何か出来ることがあればと御所へ行ってしまったのです。このままでは鎌倉が二つに割れてしまう気がして。佐殿はそれを避ける為に私たちを娶せて下さったのに、私は何のお役にも立てそうにないのが辛くて」
コシロ兄はため息をついた。
「今、鎌倉は特に落ち着かない。姉や鎌倉を心配する気持ちはわかるが、下手に動けば、それが却って別の災いを呼びかねない。とても不安定な状態なんだ。亡き将軍を追って、安達殿や佐々木殿など、何人かが出家した。大半の御家人は頼家公に従う意を示しているが、この機に勢力を伸ばそうと考える向きが出てこないとも限らない。実際、京では色々起き始めている。それら全てを抑えられるか、また争乱の世に戻るか、今この時にかかっているんだ。そんな時にお前に何かあったらどうなる?それこそ比企も北条も動き出すぞ」
「軽率でした。御免なさい」
コシロ兄の手がヒメコの肩にかかった。抱き寄せられる。
「確かに亡き将軍は北条と比企の架け橋のおつもりで、俺に起請文を書かせてお前と娶せた。元より俺にはお前を離縁するつもりは毛頭ないが、北条の父や比企のお義母上の為にと書いた。何らかの抑止力になるならば、と。だが本当はそんな狭間にお前を置きたくなかった」
耳元で聞こえる苦しそうな声。婚儀の夜のコシロ兄の様子が思い出されてヒメコも苦しくなる。ヒメコはコシロ兄の手を取り、口の端を上げて彼の顔を覗き込んだ。
「私は大丈夫です。オオマスラオですから」
そう言ったら、コシロ兄は少しだけ微笑んだ。
「俺は大丈夫ではない。常に揺らいでいる。佐殿の死にもまだ心が追い付けていないし、父の言葉にも翻弄されっぱなしだ」
「お父上の言葉?」
そうだった。時連の言葉を思い出す。今日コシロ兄は名越に行っていた筈。何かあったのだろうか?
コシロ兄はヒメコの手を握り直して目を合わせた。
「一つ、俺の我が儘を聞いてくれないか?」
ヒメコは首を頷かせた。
「明日より。子らを連れて伊豆の江間へ行っていて欲しい」
「え、殿は?」
「俺はすぐは行けないが、鎌倉が落ち着いたらすぐに行く」
——鎌倉が落ち着いたら?それは、どのくらいかかるのだろう?でもヒメコは頷くしかなかった。
「はい。江間でお待ちしています」
笑顔を作ってそう答えたら、コシロ兄は安堵したように微笑んで頷いた。
「頼時が供をする。お義母上に宜しく伝えてくれ」
「はい。母はトモとシゲの顔を見たら、さぞ喜んでくれましょう」
「そうだな。シゲは初の顔見せだ。女の子と間違えられるかも知れんな」
何気なさそうに笑ってそう言うコシロ兄に、ヒメコも何気ない顔で母の話をおどけてしてみせる。
その日のコシロ兄はやはり何か重い塊を呑み込んだままのようだった。でもヒメコは聞けぬまま、ただその背を撫でて過ごした。
——どうか、早く落ち着きますように。
「あら、貴方はもう鎌倉殿なのですから、御所にお留まりなさい」
「いえ、比企谷に戻ります。一幡や若狭が待っておりますので」
言った声がふとこちらを向く。
「姫御前か。参内してるのか?」
ヒメコは額を床に擦りつけた。
「いえ、尼御台様にご挨拶に伺っただけです」
「ふぅん、姫御前が出仕してるなら、御所に留まっても良いが、違うのか」
ヒメコは黙ったまま平伏していた。頼家が近付いてくる足音がする。
「では、近い内に女房として御所へ出仕致せ」
——え、女房として?
ヒメコはその場で硬直した。確かにヒメコは過去に部屋付きの女房として御所に出仕していた。でも、頼家は頼朝とは違う。違う意図で呼ばれている気がして背筋に冷たい物が走る。
——どう断ればいいのか。でも、コシロ兄の立場を悪くするわけにはいかない。どうしよう?
助け舟を出してくれたのはアサ姫だった。
「頼家殿、我が儘を申すのではありません。姫御前はまだお子も小さい。出仕出来るとしても、まだまだ先の話」
「では、代わりに若狭を此方へ入れて良いですか?御台所として」
アサ姫がため息をついた。
「頼家殿、貴方の正室は賀茂の姫。側室を御所に入れることは出来ません」
「だが、あの姫は話が合わなくてつまらぬ。まだ子どもで疲れる」
「それでも、亡き将軍様がお定めになった正室です。その御遺志に逆らうおつもりか?」
睨むアサ姫に頼家は口を片側だけ上げて肩を竦めた。
「分かりましたよ。賀茂の姫はきちんと正室として扱いますよ。子を孕ませれば良いのでしょう?でも御台所になるのは若狭ですよ。だって母上だって本来は正室ではなかった。運良く私が産まれたから、北条時政が無理に正室に祀り上げただけでしょう?」
「頼家殿!一体誰が貴方にそんなことを吹き込んだのです!」
アサ姫の剣幕に頼家は薄く嗤うだけで首を横に軽く倒して口を開いた。
「嫡男なんて、別に正室の子でなくてもいいじゃないですか。家長が一番気に入った子が家を継げばいい。そう、父上お気に入りの頼時や千幡でも構わないのではないですか?」
——カツン。
物音にヒメコが顔を上げたら、頼家の脇に扇が落ちていた。アサ姫が投げつけたのだろう。阿波局が静かに立って、それを取りに行く。
「亡き将軍様は、貴方が生まれてよりずっと、貴方に後を継がせる為に苦心されて来ました。良き師をつけ、鎌倉殿として相応しいようにと立派にお育てした。そのお気持ちが汲めぬのなら、中将の官位も返上して一御家人におなりなさい。出家して僧になったっていいのよ!」
頼家は一瞬鼻白んだが、ややしてゆっくりと口を開いた。
「へぇ、やはりそれが母上の本音なのですね。素直で可愛い千幡を将軍にして、何もかも北条の思いのままにする気なのだ」
頼家は冷たい声でそう言うと、首を回して阿波局を見た。
「妹に乳母をさせ、褒めて可愛がって甘やかして育てた。そんな奴にこの鎌倉を渡すものか!」
そう言い放ち、頼家は立ち上がって部屋を後にした。アサ姫が呼び止めたが足音は戻って来なかった。
単に愛情がすれ違っただけの、よくある親子喧嘩、兄弟喧嘩の種は、でも武家においては戦火の火種となる。そして鎌倉において、それを消し止めることの出来る人は既に無かった。
「御所に行っていたそうだな」
その日帰宅したコシロ兄の固い声にヒメコは項垂れた。
「御免なさい。尼御台様や阿波局様にお会いしたかったのと、少し気になることがあったので、勝手に外出してしまいました」
「それで満足したのか?」
「え?」
「気にしていたことは解消したのか?」
「あ、はい。比礼御前様は河越重頼殿の妹姫でした」
「そうか」
短く答えたコシロ兄が、僅か間を取ってからヒメコを見た。
「殿に女房として出仕するよう言われたそうだな」
ヒメコはあの時の頼家の声と、同時に感じた気分の悪さを思い出して唇を噛む。
「はい。でも尼御台様が止めて下さいました。申し訳ありません。私にも何か出来ることがあればと御所へ行ってしまったのです。このままでは鎌倉が二つに割れてしまう気がして。佐殿はそれを避ける為に私たちを娶せて下さったのに、私は何のお役にも立てそうにないのが辛くて」
コシロ兄はため息をついた。
「今、鎌倉は特に落ち着かない。姉や鎌倉を心配する気持ちはわかるが、下手に動けば、それが却って別の災いを呼びかねない。とても不安定な状態なんだ。亡き将軍を追って、安達殿や佐々木殿など、何人かが出家した。大半の御家人は頼家公に従う意を示しているが、この機に勢力を伸ばそうと考える向きが出てこないとも限らない。実際、京では色々起き始めている。それら全てを抑えられるか、また争乱の世に戻るか、今この時にかかっているんだ。そんな時にお前に何かあったらどうなる?それこそ比企も北条も動き出すぞ」
「軽率でした。御免なさい」
コシロ兄の手がヒメコの肩にかかった。抱き寄せられる。
「確かに亡き将軍は北条と比企の架け橋のおつもりで、俺に起請文を書かせてお前と娶せた。元より俺にはお前を離縁するつもりは毛頭ないが、北条の父や比企のお義母上の為にと書いた。何らかの抑止力になるならば、と。だが本当はそんな狭間にお前を置きたくなかった」
耳元で聞こえる苦しそうな声。婚儀の夜のコシロ兄の様子が思い出されてヒメコも苦しくなる。ヒメコはコシロ兄の手を取り、口の端を上げて彼の顔を覗き込んだ。
「私は大丈夫です。オオマスラオですから」
そう言ったら、コシロ兄は少しだけ微笑んだ。
「俺は大丈夫ではない。常に揺らいでいる。佐殿の死にもまだ心が追い付けていないし、父の言葉にも翻弄されっぱなしだ」
「お父上の言葉?」
そうだった。時連の言葉を思い出す。今日コシロ兄は名越に行っていた筈。何かあったのだろうか?
コシロ兄はヒメコの手を握り直して目を合わせた。
「一つ、俺の我が儘を聞いてくれないか?」
ヒメコは首を頷かせた。
「明日より。子らを連れて伊豆の江間へ行っていて欲しい」
「え、殿は?」
「俺はすぐは行けないが、鎌倉が落ち着いたらすぐに行く」
——鎌倉が落ち着いたら?それは、どのくらいかかるのだろう?でもヒメコは頷くしかなかった。
「はい。江間でお待ちしています」
笑顔を作ってそう答えたら、コシロ兄は安堵したように微笑んで頷いた。
「頼時が供をする。お義母上に宜しく伝えてくれ」
「はい。母はトモとシゲの顔を見たら、さぞ喜んでくれましょう」
「そうだな。シゲは初の顔見せだ。女の子と間違えられるかも知れんな」
何気なさそうに笑ってそう言うコシロ兄に、ヒメコも何気ない顔で母の話をおどけてしてみせる。
その日のコシロ兄はやはり何か重い塊を呑み込んだままのようだった。でもヒメコは聞けぬまま、ただその背を撫でて過ごした。
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