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第五章 明石
第25話 うつほの時
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頼朝の死後、鎌倉を、幕府を統制したのは、その後家のアサ姫だった。
アサ姫は頼朝が出家したと同時に髪を下ろし、尼御台として御所を取り仕切っていた。頼朝の葬儀の準備を整えつつ、早々に中原兄弟らを従えて京との折衝を繰り返しているようだった。
「尼御台さまがお倒れにならないでしょうか?」
心配するヒメコに
「何かをしている方が気が紛れるというから平気だろう」
コシロ兄は淡々とそう答えた。恐らくコシロ兄自身もそうなのだろうとヒメコは思った。
やがて、頼家は右近中将に任官し、頼朝が率いていた御家人らを率いて、引き続き、諸国守護を奉じるようにとの宣旨が頼家に下る。
「これでとりあえず、鎌倉の幕府は存続を容認された」
安堵したコシロ兄の顔にヒメコもホッとする。頼朝の願いは、この鎌倉を護ることだった。頼家がそのまま後を引き継ぐのなら大きな混乱はないだろう。
それにしても気になるのは比礼御前だった。彼女は何故、自分の真名を知っていたのか。そして、自分はライカだと名乗った。それが彼女の真名とは思えないけれど、何故彼女はああまでヒメコに敵意を向けるのか。
——ライカに会わなきゃ。
ライカは比企能員殿の養女で、頼家殿の長子の乳母をしていた筈。と言うことは、比企ヶ谷に居るのだろう。でも普通に行って会ってくれるものかどうか分からない。悩みつつ、とりあえず近くまで行ってみようと笠を被って外へ出る。歩いても四半刻もかからない距離にある比企能員の館は大きくて立派だった。こんな館を持っているなら、父の屋敷を取り上げる必要なんてなかっただろうに、などと愚痴めいたことをつい考えてしまう。父の屋敷は、今は比企能員の息子らが時々使用しているようだった。
「あれ。姫姉ちゃん、何処に行くの?」
覚えのある声に振り返れば、五郎時連が馬上からヒメコを見下ろしていた。
「はい、ちょっと比企殿のお屋敷へ」
答えたら、時連はその綺麗な顔を顰めて見せた。
「それ、小四郎兄は知ってるの?」
首を横に振る。
「だろうね。俺なら絶対行かせないよ」
「え、何故ですか?」
「何故って。北条と比企が今どういう状態かわかってないの?」
「何か問題でも起こってるのですか?」
問うたら、時連は苦笑した。
「それ、姫姉ちゃんらしいけど、危ういなぁ。まだ問題までは起きてないけど、どっちもピリピリしてるよ。だって次の将軍後継は北条が後ろ盾の千幡君か、比企の娘が産んだ一幡君か、微妙な所だもの。姫姉ちゃんは確かに比企の姫だけど、どっちかと言うと、もう北条側の立場でしょ?迂闊に比企に近付かない方がいいと思うよ」
「そうなのですか」
ヒメコはそっと嘆息する。頼朝が亡くなり、頼家がやっとその後を継ごうという所なのに、もう次の後継争いの火種。帝位を巡って、誰を次の東宮にするかで争う京。鎌倉では将軍職を巡ってそれが起きるだけ。今も昔も貴人も平民もどこも同じ。そうして争いはなくならない。
佐殿が帝の武を一つにして争いを無くそうと武士の都をつくっても、今度はその武士の都を巡って争いが起きるのだ。
「大体、比企の屋敷なんかに何の用さ?」
「比礼御前様に喧嘩を売られているので、その理由を聞きに」
「喧嘩ぁ?」
素っ頓狂な声を上げた時連に、ヒメコはつい笑う。
「はい、喧嘩です。子どもみたいですよね。でも何故かがとても気になったので確かめたかったのです」
時連は、比礼御前ねぇ、と呟いた後に、わかった、何とか引っ張りだしてみるよ、と言ってくれた。
「俺、今、若殿、いや、頼家殿の近習になってるんだ」
「近習に?」
「父に言われてね。ま、早い話が、比企の内情を探る役を与えられたってワケさ。俺、そういうの得意だから。佐殿に蹴鞠も仕込まれてるから重宝されてるよ」
ふと思い出す。昔、阿波局が同じようなことを言っていた。何故、北条殿はいつもそこまで周りを警戒しているのだろう?何かあったのだろうか?それとも、武家とはそうやって常に気を張っているべきなのだろうか。
時連が姿を消して四半刻程。中からは楽しげで賑やかな声が聞こえてくる。おそらく蹴鞠だろう。頼朝もたまに御所の中庭で御家人らにやらせていた。でも、まだ頼朝が薨じて間もなくで、しめやかに法要も行なわれている最中に、こうあからさまに愉しげな声を張り上げている様子には違和感を覚えてしまう。
その時、チリンという軽い鈴の音と共に、白いフワフワとした猫が茂みの中から飛び出してきた。続いて、誰かが生け垣から姿を現わす。
「メル、戻っておいで!だから紐で結わえておきたかったのに」
そう言って白猫の去った方に足を向けたのは比礼御前だった。
「メル?」
マルの間違いかと思った。
ヒメコの声に比礼御前がハッと振り返り、ヒメコをまじまじと見て、笠の中を覗こうとする。化粧気はなく、素顔の比礼御前。
——あ。見たことがある。
そう思った。確かに会ったことがある。そして、マルそっくりの白猫。ヒメコの中で記憶が繋がる。ヒメコが巫女をやめた後に見習いとして祖母が引き取った少女の姿。
「河越重頼殿の妹姫、ですよね。祖母の元に巫女見習いとして入った」
それで、自分の名も知っていたのかと腑に落ちる。名は知らない。でも、ライカと偽の名を名乗った。それが、頼花から音を取ったのだとしたら?
比礼御前はヒメコを忌々しげに見て口を開いた。
「だったら何?何の用さ。御所には出入りさせないって言ったでしょ?」
「はい、だから御所ではない所でお会いしたくて」
「会って何をしたいのさ?殺されに来たの?それとも弁解でもしに?」
「弁解も何も、貴女が私をそこまで嫌う理由がわからないので、話を聞きに来たのです」
「話を聞く?こっちは話なんかしたくないんだよ!あんたのそういう所が憎くてたまらない。殺してやりたい。前に言った通りさ。殺されに来たのかい?」
「え?」
「比企の婆さんがのせいで、婆さんの死後、吉見観音に屯ってた奴らに私がどんな目に遭わされたと思ってんの。警護の者らは、あっという間に殺されて、屋敷内は滅茶苦茶に荒らされて、あたしは食うものもなく雨露をしのぐ場もなく、破れた床の下で鼠みたいに生きてたんだ。あんたが鎌倉でのうのうと北条の嫁になってる間にさ」
「あの、ヨリカ」
声をかける。彼女はその名にピクリと反応した。
——ああ、やっぱり。
「ごめんなさい」
謝った途端に、小石を投げつけられる。肩に当たって地へと落ちる丸い小石。
「姫姉ちゃん!」
時連の声がしたけれど、ヒメコは振り返らずにヨリカへと向かった。
アサ姫は頼朝が出家したと同時に髪を下ろし、尼御台として御所を取り仕切っていた。頼朝の葬儀の準備を整えつつ、早々に中原兄弟らを従えて京との折衝を繰り返しているようだった。
「尼御台さまがお倒れにならないでしょうか?」
心配するヒメコに
「何かをしている方が気が紛れるというから平気だろう」
コシロ兄は淡々とそう答えた。恐らくコシロ兄自身もそうなのだろうとヒメコは思った。
やがて、頼家は右近中将に任官し、頼朝が率いていた御家人らを率いて、引き続き、諸国守護を奉じるようにとの宣旨が頼家に下る。
「これでとりあえず、鎌倉の幕府は存続を容認された」
安堵したコシロ兄の顔にヒメコもホッとする。頼朝の願いは、この鎌倉を護ることだった。頼家がそのまま後を引き継ぐのなら大きな混乱はないだろう。
それにしても気になるのは比礼御前だった。彼女は何故、自分の真名を知っていたのか。そして、自分はライカだと名乗った。それが彼女の真名とは思えないけれど、何故彼女はああまでヒメコに敵意を向けるのか。
——ライカに会わなきゃ。
ライカは比企能員殿の養女で、頼家殿の長子の乳母をしていた筈。と言うことは、比企ヶ谷に居るのだろう。でも普通に行って会ってくれるものかどうか分からない。悩みつつ、とりあえず近くまで行ってみようと笠を被って外へ出る。歩いても四半刻もかからない距離にある比企能員の館は大きくて立派だった。こんな館を持っているなら、父の屋敷を取り上げる必要なんてなかっただろうに、などと愚痴めいたことをつい考えてしまう。父の屋敷は、今は比企能員の息子らが時々使用しているようだった。
「あれ。姫姉ちゃん、何処に行くの?」
覚えのある声に振り返れば、五郎時連が馬上からヒメコを見下ろしていた。
「はい、ちょっと比企殿のお屋敷へ」
答えたら、時連はその綺麗な顔を顰めて見せた。
「それ、小四郎兄は知ってるの?」
首を横に振る。
「だろうね。俺なら絶対行かせないよ」
「え、何故ですか?」
「何故って。北条と比企が今どういう状態かわかってないの?」
「何か問題でも起こってるのですか?」
問うたら、時連は苦笑した。
「それ、姫姉ちゃんらしいけど、危ういなぁ。まだ問題までは起きてないけど、どっちもピリピリしてるよ。だって次の将軍後継は北条が後ろ盾の千幡君か、比企の娘が産んだ一幡君か、微妙な所だもの。姫姉ちゃんは確かに比企の姫だけど、どっちかと言うと、もう北条側の立場でしょ?迂闊に比企に近付かない方がいいと思うよ」
「そうなのですか」
ヒメコはそっと嘆息する。頼朝が亡くなり、頼家がやっとその後を継ごうという所なのに、もう次の後継争いの火種。帝位を巡って、誰を次の東宮にするかで争う京。鎌倉では将軍職を巡ってそれが起きるだけ。今も昔も貴人も平民もどこも同じ。そうして争いはなくならない。
佐殿が帝の武を一つにして争いを無くそうと武士の都をつくっても、今度はその武士の都を巡って争いが起きるのだ。
「大体、比企の屋敷なんかに何の用さ?」
「比礼御前様に喧嘩を売られているので、その理由を聞きに」
「喧嘩ぁ?」
素っ頓狂な声を上げた時連に、ヒメコはつい笑う。
「はい、喧嘩です。子どもみたいですよね。でも何故かがとても気になったので確かめたかったのです」
時連は、比礼御前ねぇ、と呟いた後に、わかった、何とか引っ張りだしてみるよ、と言ってくれた。
「俺、今、若殿、いや、頼家殿の近習になってるんだ」
「近習に?」
「父に言われてね。ま、早い話が、比企の内情を探る役を与えられたってワケさ。俺、そういうの得意だから。佐殿に蹴鞠も仕込まれてるから重宝されてるよ」
ふと思い出す。昔、阿波局が同じようなことを言っていた。何故、北条殿はいつもそこまで周りを警戒しているのだろう?何かあったのだろうか?それとも、武家とはそうやって常に気を張っているべきなのだろうか。
時連が姿を消して四半刻程。中からは楽しげで賑やかな声が聞こえてくる。おそらく蹴鞠だろう。頼朝もたまに御所の中庭で御家人らにやらせていた。でも、まだ頼朝が薨じて間もなくで、しめやかに法要も行なわれている最中に、こうあからさまに愉しげな声を張り上げている様子には違和感を覚えてしまう。
その時、チリンという軽い鈴の音と共に、白いフワフワとした猫が茂みの中から飛び出してきた。続いて、誰かが生け垣から姿を現わす。
「メル、戻っておいで!だから紐で結わえておきたかったのに」
そう言って白猫の去った方に足を向けたのは比礼御前だった。
「メル?」
マルの間違いかと思った。
ヒメコの声に比礼御前がハッと振り返り、ヒメコをまじまじと見て、笠の中を覗こうとする。化粧気はなく、素顔の比礼御前。
——あ。見たことがある。
そう思った。確かに会ったことがある。そして、マルそっくりの白猫。ヒメコの中で記憶が繋がる。ヒメコが巫女をやめた後に見習いとして祖母が引き取った少女の姿。
「河越重頼殿の妹姫、ですよね。祖母の元に巫女見習いとして入った」
それで、自分の名も知っていたのかと腑に落ちる。名は知らない。でも、ライカと偽の名を名乗った。それが、頼花から音を取ったのだとしたら?
比礼御前はヒメコを忌々しげに見て口を開いた。
「だったら何?何の用さ。御所には出入りさせないって言ったでしょ?」
「はい、だから御所ではない所でお会いしたくて」
「会って何をしたいのさ?殺されに来たの?それとも弁解でもしに?」
「弁解も何も、貴女が私をそこまで嫌う理由がわからないので、話を聞きに来たのです」
「話を聞く?こっちは話なんかしたくないんだよ!あんたのそういう所が憎くてたまらない。殺してやりたい。前に言った通りさ。殺されに来たのかい?」
「え?」
「比企の婆さんがのせいで、婆さんの死後、吉見観音に屯ってた奴らに私がどんな目に遭わされたと思ってんの。警護の者らは、あっという間に殺されて、屋敷内は滅茶苦茶に荒らされて、あたしは食うものもなく雨露をしのぐ場もなく、破れた床の下で鼠みたいに生きてたんだ。あんたが鎌倉でのうのうと北条の嫁になってる間にさ」
「あの、ヨリカ」
声をかける。彼女はその名にピクリと反応した。
——ああ、やっぱり。
「ごめんなさい」
謝った途端に、小石を投げつけられる。肩に当たって地へと落ちる丸い小石。
「姫姉ちゃん!」
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