【完結】姫の前

やまの龍

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第五章 明石

第21 話 逆境の松

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  生まれた子は確かに産声も弱々しく、トモと比べて身体が小さく、また乳の飲みも悪かった。やっと飲んだと思ってもすぐに吐き出してしまう。気を揉む毎日が続くが、秋風が吹く頃には少しずつ乳も飲めるようになり、やっと重くなってきた。苦労する母を見てか、トモはいつの間にか兄らしくなって、進んでシゲをあやしてくれるようになっていた。下女達へのいたずらは相変わらずだったが、その快活な性質ゆえによく可愛がられてもいた。また、頼時も十五も年の離れたこの小さな弟を溺愛し、屋敷に居るときには常に側について、教え込むように和歌を口ずさんでいた。

「そろそろ一度顔を見せに来いと将軍様が仰っているが、行けそうか?」

 コシロ兄に聞かれ、ヒメコは頷いた。

「ええ、寒くなる前にご挨拶に伺いましょう」

 真新しい産着を着せたシゲを連れてコシロ兄と御所へ参内したのは、シゲが生まれて二月ばかり経った頃だった。

「男児だったとは残念なことだな、ヒメコ」

 頼朝はそう言ってニヤリと笑った。

「はぁ、お陰様でシゲという名の姫にはなりませんでした」

 少し口を尖らせてそう答えたら頼朝は呵々大笑した。

「名が気に食わぬからと生まれる時機を見合わせるとは、さすがはヒメコの子だな。名へのこだわりが強い。これは桔梗や撫子とでも言っておけば良かったか」

 そう言って可笑しそうに笑う頼朝をヒメコは軽く恨めし気に睨んでやる。

「殿、からかうのはいい加減になさいませ。折角顔を見せに来てくれたのに」

 アサ姫がとりなしてくれるのを聞きながら、こっそり嘆息する。生まれる直前には、シゲ姫でも、小さくても無事であればそれでいいと思ったのに、無事に産まれてみれば、早くもっと大きく育たないか、この小ささではやはり男の子より女の子の方が良かったのではないかとつい思ってしまい、自分の欲深さと忘れっぽさに呆れてしまう。

「では、その子の名は時重か重時だな。元服が楽しみだ」

——重時

 覚えのある名に、あ、と思い出す。コシロ兄の家人となっている河越重頼殿の次男は元服時に重時と名乗り始めた筈。それを思い出した時、同時に何かを思い出しかけたが、それが形になる前に頼朝が手を叩いて人を中に呼び入れる。

 二人の男が何かを抱えて入って来て、コシロ兄の前にそれを置いて下がっていった。頭を下げるコシロ兄に倣ってヒメコも頭を下げる。

「祝いに松を贈らせて貰おうと思ってな」

 顔を上げれば、二人の前には松の盆栽があった。

「兜にしようかと思ったのだが、ヒメコは姫を望んでおったようだし、松なら障りないかと。どうだ、見事だろう?」

 ヒメコは目の前に置かれた松を眺めた。どっしりとした鉢の中央にゴツゴツとした太い枝が僅か斜めに傾ぎながら植わっていて、緑の葉が彩りを添えている。先端の方に尖った緑の葉がチョビチョビと上向きに伸びている様子が、トモがまだ小さかった頃の姿を思い起こさせて自然と頰が緩む。それに、ヒメコが姫を望んでいたことを見抜いていて、それを慰めるように選ばれた贈り物。そのさりげない頼朝の心遣いがヒメコには何より嬉しかった。大姫入内に奔走していた頃に比べて、強張っていた身体の力が抜けて、少しだけ昔の佐殿に戻ったような気がする。

「堂々としていながら、どこか愛嬌があってとても愛らしい松ですね」

 素直な感想を述べたヒメコに、頼朝はああ、と嬉しそうに頷いた。

「松は冬の寒さの中でも青々として逆境に耐え抜く強い樹だ。芽を沢山出し、好みの形に整えることも出来る。自由で生命力に溢れていると思わぬか?だから私は松が一番好きなのだ。子と同様に上手く育てて立派な樹にしてくれよ。後で屋敷まで送らせるからな」

 それから頼朝はヒメコを手招きした。

「では、その子の顔をよく見せてくれ」

 ヒメコはややこを抱いたまま立ち上がり、頼朝の側へ寄る。

「元服するまではシゲだな。小さく生まれたと聞いていたが、なんと可愛らしい子ではないか。千幡が生まれた時のことを思い出す。優しくて利発そうな顔をしている。兄の頼時やトモと一緒に、頼家と千幡を支えて鎌倉を守ってくれよ」

 そう言って頼朝はシゲの頭をそっと撫で、アサ姫を振り返る。アサ姫が立ち上がってシゲの顔を覗き込んだ。

「まぁ、本当に。男児にはもったいないくらいに優しく愛らしい子ですこと。さすがはヒメコの子ね。将来が楽しみだわ。ちょっと抱かせてくれる?まだ首は座ってないのよね。このフニャフニャした感覚は久しぶりだわ。頼家などは生まれた子を見せにも来ないし。全く何をしているやら困ったものだわ」

 アサ姫は文句を言いながらシゲを抱いて奥へと消えて行った。

 アサ姫が去ると、頼朝は脇の水差しから水を汲んでグビリとひと口飲んだが、途端にゲホンとむせる。

「穴を間違えた」

 言ってケホケホと軽い咳を繰り返す。

 だが、むせりはなかなか止まず、ヒメコは頼朝の脇へと寄って、その背中を摩った。

「悪いな。近頃むせやすくてな。尼君に言われた通り、急いで飲み食いするのが悪いんだろうな」

 そう言って苦笑する。

「そう言えば昨晩、尼君が夢にお出ましになったのだ。何を話したかは忘れてしまったが、まだお若い頃の尼君で、そりゃあ優しかった。私にとっては尼君が母のようなものだったからな。産みの母は厳しくて恐ろしかったが尼君は」

 そしてまたむせこむ。ヒメコは「の」の字を描くようにして背を摩り続けた。そうして、ふと気付く。

 背から見て右側の胸に僅かに感じる水の気配。頼朝の咳はなかなか止まらない。

「佐殿、お胸の具合があまり良くないのでは?」

 問うたら、頼朝は首を横に振った。

「ただのむせりだ。今、この時に病になど罹っておられるか」

 そうして身体をつと前のめりにさせてコシロ兄を扇で近くに寄せる。でもその指先が微かに震えているのにヒメコは気付いてしまった。

——なんだろう?何かおかしい。

「昨年は土御門通親と丹後局にしてやられ、後手を踏んでしまった。だが、先の関白の九条殿に詫びを入れた。もう一度彼と手を取り合い、共に朝廷に食い込む算段をつけている。乙姫の女御宣下も直に下る。ついては年明け早々に私は密かに京に入るつもりだ。その際には供を頼むぞ」

——え、密かに京へ?

 コシロ兄は表情を変えずに頭を下げた。

「承知致しました」

 ヒメコは向かい合う二人を不安な気持ちで見つめる。密かに京に入るなど、そんなこと出来るのだろうか?邪魔が入ったり奇襲を受けたりしないのだろうか?それに何より頼朝の胸の状態はあまり良いとは言えないように感じる。じわじわと広がる不安。どうしよう?止めるなら今しかない。止めて聞く人ではない。咎めを受けるかも知れない。もう少し待って様子を見て、頼朝が耳を貸してくれそうな人に頼んで。そう思ったが、胸に迫る切迫感。

——言おう。咎めを受けるかもしれないけど言わねば。
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