【完結】姫の前

やまの龍

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第五章 明石

第20話 重ねる思い

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 やがて夏が近付き、腹の子が落ち着いた頃合いを見てヒメコは御所に参内した。懐妊の祝いが届いたので、その礼をしにコシロ兄と共に赴いたのだった。コシロ兄は文でいいのではないかと渋ったが、あまり動かないでいると却って難産になるというお産婆さんの言葉を伝えて何とか了承して貰う。

 二人が通された広間には、頼朝とアサ姫、また一人の御家人がいた。アサ姫がヒメコの膨れた腹を見て顔をほころばせる。

「順調な様子で安心したわ。男の子かしら、女の子かしら?」

 笑顔のアサ姫の隣で頼朝は上機嫌で「そりゃあ男児だろう」と言い切った。

「姫も良いが、いずれ手放さなければならぬもの。この所、鎌倉では男児が多く生まれておるし、きっと男児だ」

 そう言って、頼朝は同席していた御家人を振り返った。

「のぅ、重忠。そなたの所はまた男児が生まれたとか。相婿の時連の所も昨年男児が産まれてるし、義時の所もきっとまた男児だ。重忠、そなたに負けず劣らずの勇猛な男児が産まれると良いのぅ」

 あくまでも男児と決めてかかる頼朝を諌めてくれたのはアサ姫だった。

「姫でも男児でもどちらでも良いではありませんか。男ばかりでは世の中は成り立ちませぬ。それとも女は不要とでも仰るおつもりですか?」

 キラリと目を光らせるアサ姫に頼朝は慌てて手を振る。

「いやいや、この重忠のように丈夫な子であればいいと願っただけだ」

 苦し紛れにそう言った頼朝は、場の空気を取り繕うように、パンと手を叩いて口を開いた。

「それではどうだ?男児なら、この重忠のように勇猛果敢な武将に育つように、将来の元服の折には重忠に加冠役を頼めばいい。また、姫ならば病一つせず健やかに沢山の男児を産めるように名をシゲと付ければ良いではないか」

——え、シゲ?姫に?

固まったヒメコの前でアサ姫が扇で床を叩いた。

「殿!貴方はまたそんな勝手に!名はとても大切なものですよ。男児なら良いですが、姫ならばもっと可愛らしい美しい名を付けてやりたいもの。お改め下さい!」

 アサ姫の剣幕に頼朝はたじろいたが、姫の健やかな成長を祈っただけなのだ、と言葉を濁して有耶無耶にしようとした。どう返すべきかと悩んだヒメコの横でコシロ兄が深く頭を下げた。

「将軍様の御心、有り難く頂戴いたします。幼名として大切にお預かりします」

 それから、重忠と呼ばれていた御家人に向かって軽く頭を下げる。

「畠山殿、男児であれば将来は烏帽子親として助けてやって下さい」

 あ。ヒメコはやっと気付いた。畠山重忠。頼朝の気に入りで、行列の際には常に先陣を務めている名高い御家人。ヒメコは遠くから眺めるばかりで、その顔を間近で見るのは初めてだった。その重忠がコシロ兄に頭を下げる。

「こちらこそ。私の嫡男は江間殿の甥。今後とも末永いお付き合いをお願い致す」

 コシロ兄と重忠殿。体格も風貌もまるで雰囲気の異なる二人。でも真面目そうで言に信が置けそうな所は似通っている気がする。静かに目を交わす二人の間に友情のを灯を見た気がしてヒメコは嬉しかった。

「済まなかったな」

 帰り道、コシロ兄に謝られ、何のことかと首を傾げる。

「姫の名でシゲはやはり可愛げがないか」

 少しばかり落ち込んでいるようなコシロ兄の斜め後ろからそっとその袖を掴み、ヒメコはいいえと首を横に振った。

「シゲ。良い名前です。きっとあらゆる幸せがこの子に重ねて訪れましょう」

 コシロ兄は歩みを留めて、そっとヒメコの腹を撫でた。

「そうだな。美女と名高い建春門院様は滋子という御名だった。きっとそれに比する美しい子に育とう」

 腹の中の子はとても大人しかった。トモの時にはあれだけ激しかった胎動が嘘のように、ごくごく稀にムクリとお腹の中で何かが動く気配があるくらい。それは男児ではなく姫だからなのだろうと、ヒメコもコシロ兄も疑うことはなかった。

 だが、そうのんびりしていたら突然陣痛がやって来た。お産婆さんの見立てではまだ二十日ばかり先だったのに。早産かとヒメコは慌てる。折り悪しくコシロ兄は参内していた。ヒメコはフジと頼時に抱えられて産所へと向かう。藤五はお産婆さんを呼びに駆け出し、尾藤の太郎は御所へコシロ兄を呼びに行ってくれた。

「おや、あんたかい。まだ少し早いね。破水は?」

「まだです。でも陣痛みたいな痛みが来たので」

「なんだい。そんなら慌てて呼ばないどくれよ」

「でも、まだ予定の日より大分早いので早産になるのではと心配になったのです。早産は良くないと聞いたのですが、どう良くないのですか?」

「あんまり早くに出てきてしまうと、赤子の体がまだ完全に出来上がってないってことだよ」

「出来上がってない?」

「未熟ってことさ。体が小さくて栄養を摂りにくかったり、風邪をひきやすかったりする」

「そんな。ではまだお腹の中に居た方がいいのですね」

 ヒメコはお腹に手を当てて祈った。

——もう少し待ってて。まだもうちょっとお腹の中で育ってから出てきて。

「何してるんだい?」

 お産婆さんに問われて顔を上げる。

「もう少しお腹の中で待っていてねと話しかけているのです」

 お産婆さんは笑い出した。

「あんたは神功皇后かね。でもま、確かに無駄ではないかもしれないね。たまに聞くよ。『母ちゃんがまだ出て来ちゃだめって言ったから少しだけ我慢したんだ』って子どもが言ったって話は。もう耳は出来てるだろうし、母と子は言葉なんか介しなくても意思の疎通が出来るもんだからね」

「そうなんですか」

  そう答えたらお産婆さんはまた笑い出した。

「あんた、二人目だろう?一人目の子はどう育てたんだい?ああ、お武家さんは乳母任せか」

 言われて、トモの時のことを思い出そうとする。

「いえ、乳母は頼まずに自分の乳で育てましたが、あの子はせっかちで話す間もなくて」

 でも確かに会話はあまり成り立たなかったけれど考えていることはわかった。どこで何をしているのかも。

「で、今はお腹の張りはどうだい?」

 問われてお腹に意識を向ける。

「今はそんなに」

「そうかい。やっぱり今日は無さそうだね。恐らく明後日だろう。満月だしね。じゃあ、あたしは帰るから説得を頑張りな。あとは動いちゃダメだよ。ひたすら寝て我慢してな。じゃあ今度は、破水して陣痛の間隔が限界と思うくらい短くなるまで呼ばないどくれよ。あんた、母なんだからしゃんとしな!万一、小っちゃくて猿みたいな子が産まれても、それもまた一つの命なんだ。親として育て切る覚悟を持って産むんだね」

 厳しい言葉。でもその通りだと思った。小さくても弱くても一つの大事な命。精一杯育てなくては。

 そうしてお腹をさすり、語り続ける。

 お産婆さんの言葉通り、ヒメコは翌々日に破水して出産した。

 生まれてきたのは男児だった。
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