【完結】姫の前

やまの龍

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第五章 明石

第14話 父と娘

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「あら、スッキリした顔してるじゃない。頑張って良かったわね、父上」

 軽やかな声に、ヒメコはそちらを振り返る。八幡姫が戸の所に立って微笑んでいた。頼朝が苦い顔をして頰を押さえる。

「何が良いものか。苦しかったのだぞ。まだ痛いし沁みるし、何より心許ない。歯がないと力を入れることも出来ぬではないか」

「あら、義歯は?」

「作成中なのです」

 ムッツリと押し黙る頼朝の代わりにヒメコが答える。

「元の歯はかなり傷んでいたので、抜歯の際にバラバラになってしまって。柘植の木で細工師が微調整しておりますから、もう少しお待ち下さいね」

 実は予め作っておいたものを嵌めて試してみたのだが噛み合わせが悪いと作り直しを繰り返していた。歯軋りが酷かったせいで他の歯にも悪い影響が出てしまっていた。

「あら、大変。ま、これに懲りてお身体を大事になさいませ」

 アサ姫そっくりの顔で八幡姫が言うのを頼朝は僅かに頰を緩めて見つめた。

「それは、そなたこそだぞ。八幡」

 対し、八幡姫が微苦笑をして頼朝を見遣る。

「あら、言われちゃったわ。でも私は平気よ。適当に怠けてますから」

「京に行ったら慣れるまではなかなか気が休まらぬだろう。だが三条家にはお前の従姉妹も嫁いだからな。何か困ったことがあれば、そこを頼れよ。他にも何人か頼りになりそうな伝手を作っておくからな」

 ヒラヒラと手を振り、はいはいと適当に返事をする八幡姫。三条家には、阿波局が産んだ阿野全成の娘が嫁いだらしい。

「済まぬな」

 そう呟いた頼朝の声には微かな湿り気があり、ヒメコは驚いて顔を上げる。

「そなたには幼い頃から苦労をかけてきた」

「それ、義高様のこと?」

 あっさりと返す八幡姫に頼朝は苦笑した。

「そうだな。それもある」

「それも?じゃあ他は?戦ばっかりで家族を顧みなかったこととか?」

「ああ。確かにそなたが三つになって以降は戦に明け暮れた」

 八幡姫は肩を竦めた。
「そうね。でもしょんないでしょ。父さまは鬼で、私はその娘に産まれてしまったんだから。もう覚悟決めてるから別にいいわよ。ただ、次に生まれてくる時には将軍の家だけは絶対選ばないけどね」

 頼朝が眉を上げる。

「今度は普通の平民の娘として生まれたい。そうして、山で茸を取って川で魚を獲って暮らすの」

「それは良いな。その時は私は山で竹取の翁にでもなろう」

「どうかしら?怪しい毒茸を採ってきて、輝夜姫が生まれたって幻を見ちゃうんじゃないの?」

 からかいの言葉に頼朝は噴き出した。

「その時はアサに目を醒まして貰おう。きっとアサは山の主になれるぞ」

「山の主?それって山姥ってこと?母さまが聞いたらひどく怒るわよ」

 八幡姫はクスクスと笑ってから遠い目をした。

「昔、私が小さくて、皆で走湯権現に隠れていた時には、私が父さま父さま母さまを独り占めしてたんでしょ?全く覚えてないけど。でもきっとすごく幸せだったのだと思うわ。有難う」

 直に嫁ぐ娘の、労りと感謝の言葉に頼朝はそっと顔を背けた。北条時政が京から戻ってから結婚を許されるまで、ヒメコが比企に戻されていた数年間の家族三人の暮らし。きっとその幸せな日々があったから、頼朝はその後に以仁王の令旨を受けた際に伊豆で挙兵する覚悟を決められたのだろう。家族を置いて奥州に逃げるのではなく、家族を守る為にその場に踏み止まる決断を。

「入内なんて、別に大したことないわよ」

 八幡姫はそう言って腕を組んだ。

「鬼の娘らしく睨みをきかせてくるわ」

 父と娘の遣り取りを聞きながら、ヒメコもまた遠い伊豆の日々を思い出していた。二十年間の軌跡。もし時が戻るなら、違う道も選べたのだろうか?でも、それでもきっと皆同じ道をゆくのだろう。何かに導かれるように。

 そう考えながら部屋を後にしたヒメコは呼び止められる。

「あ、姫御前。やっと会えたわね。将軍様の抜歯をしてたのですって?」

 阿波局だった。

「はい。阿波局様は京においでだったとか」

「そうなの。娘が三条殿に嫁いだので、その付き添いに。やっと鎌倉に戻れてホッとしたわ」

 ああ、疲れた。と伸びをする阿波局。久々の再会にヒメコは笑顔になる。

「あら、姫御前ったら少し痩せた?」

 言われて自らの頰に手を当てる。

「いえ、そんな事は」

「その左手は怪我したの?」

「あ、はい。ちょっと水甕を割ってしまって」

「水甕を?それはまた豪毅ね。無理しないのよ」

 礼を言って別れてから、ハッと気付く。

——いけない。急いで帰らなくては。


「ごめんなさい。遅くなりました」

 目の前にはムッツリ顔のコシロ兄。今日は早く帰れると聞いていたのに頼朝の抜歯後の処置が長引いた上に父と娘の会話に引き込まれ、御所を出るのが遅くなってしまった。

「いい。一度出るとなかなか戻らないのはもう慣れてる。鎌倉に戻ったらそうなるだろうと思ってた。鎌倉にいるなら、俺が居ようが居まいがどうせ淋しくないのだろう」

 その口調に、あれと思う。もしかして拗ねてる?


「ちちうえー、お馬に乗せて乗せてー」

 飛び付いてきたトモを抱え上げるとコシロ兄は黙ったまま出て行ってしまった。

——やっぱり怒ってる。


「御免なさい」

 夜に改めて頭を下げる。でもなかなか返事がない。チラと目を上げたら、コシロ兄はムッツリ顔のまま床についたヒメコの手を見ていた。

「怪我はもう治ってるのか?」

「あ、はい。おかげさまですっかり」

 答えて顔を上げたら、コシロ兄の顔がすぐ間近にあった。ヒメコの左手が取られる。

「嘘をつけ。まだ血が滲んでるじゃないか。ちゃんと手当てしてるのか?」
 言って、包帯を外していくコシロ兄。

「傷の治りが遅いようだ。もっと栄養をつけろ。フジが心配していたぞ。近頃あまり食事も休みもしっかり取れていないようだと」

 言われて、そうだったかも知れないと思う。江間から帰って来てからキノコのことがあり、頼朝の抜歯があり、御所に通い詰めていた。

「御免なさい。明日からはしっかり食べて休むようにします」

コシロ兄の目を真っ直ぐて見てそう言ったら、コシロ兄の気配が穏やかなものへと変わった。

——心配してくれていたんだ。

 胸がじんわりあったかくなる。

「まったく。お前は手許に置いたつもりでも、気付くと飛び出してる」

 優しい手付きで湿布をあてがわれ、新しい包帯を巻かれる。手当てされた左手をまじまじと見つめながらヒメコは言った。

「あの。これは少し大袈裟では?」

 大仰に布が巻かれた左手は鍋つかみのように丸く膨らんでいた。

「お前はそれくらいでいい。俺がいいと言うまで外すなよ」

 言って、コシロ兄はヒメコの左肘を掴んで持ち上げ、腰を抱くと褥の上へと押し倒した。鼻先に鼻先がぶつかり、額が擦れ合う。

「お前は言ったな。淋しいのだと。俺が淋しくないとでも思ってたのか?」

「え、いえ、あの」

 首を横に振って、コシロ兄の首に抱きつこうと腕を伸ばす。でもぐるぐる巻きにされた左手がもどかしい。

「あの。これ、外していいですか?」

 そうしたら、コシロ兄は意地悪な顔をして答えた。

「駄目だ」
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