162 / 225
第五章 明石
第12話 歯痛
しおりを挟む「おや、久しいの。何やら大変だったようだな」
数日後、炊事場の女達の様子を伺いに問注所へと向かったヒメコの前に飄々とした顔で声をかけてきたのは、中原兄弟の兄、親能——山伏の方だった。
「大変だったというか、まだ大変なのですが。一体どこにいらしたのですか?」
つい咎めの口調になってしまう。そうだ、この山伏殿が鎌倉にいてくれたら、こんなことにはなってなかった筈なのに。でもそれを言ったら自分もそうだった。子育てや江間行きなどで鎌倉から目が離れたのは確かなこと。
「悪いな。京にずっといた。あっちはもっと大変だったもんでな」
「中宮様と女御様に皇女と皇子がお生まれになったことは聞きました」
すると親能は、いいやと首を横に振った。
「中宮は既に宮中から追い出され、九条の関白殿は失脚させられ、京はいまや源通親殿の思いのままになってしまっている」
「源通親殿?」
「土御門殿とも言われているがな。村上源氏の血筋で藤原の出ではないから、自らが摂関の地位に就くことは遠慮したようだが、息のかかったものを配置して、自らの娘の産んだ皇子を東宮にして、ゆくゆくは帝にと狙っているのがありありと見える、かなりの野心家だ。後ろに丹後局がついてるからな。近く、ヤツの思う通りになってしまうだろう。大姫の入内は危ういぞ」
「丹後局」
何度も聞いたその名前。そして何故か村上源氏という言葉もヒメコの中に引っかかって残った。
「それで?御台さまは戻せたんだな?」
問われ、ヒメコは頷いた。
「はい。水を大量に飲んでいただき、また炭も細かく砕き、粉にして黒い薬湯として、日に何何度か飲んでいただきました所、殆ど抜けたようで落ち着かれました」、
「大姫様、乙姫様は?」
「お二人は汁物の臭いが嫌いだと召し上がられなかったそうで、ご無事でした」
「そうか、それは良かった」
親能が傍目にも分かるくらいに安堵した顔を見せたのでヒメコも共にホッとする。親能は三幡姫の乳母夫だ。ヒメコが大姫を心配するように親能は乙姫を心配しているのだろう。
「しかし、大姫は食欲が増したのだろう?その怪しいキノコのせいではなかったのか?」
「ええ。姫さま方があまりにキノコ汁を嫌がるので、御台さまが『きちんと食事をを取るのなら、この汁を勘弁してあげますよ』と仰ったそうで、その汁を飲まされるくらいなら、といつもの倍くらい召し上がられたそうです」
「成る程そういうことか。大姫は敏い所があるゆえ、毒だと嗅ぎ分けたのかと思ったのだが、そういうわけではないんだな」
ヒメコは頷いた。
「ならば残る問題は、あの人だけだな」
——あの人。頼朝だ。
「やはり私は、いい加減に抜歯を断行すべきかと思いますが」
ヒメコが言ったら、親能は頷いた。
「だよな。前々から皆でそう言ってるのだが、絶対に嫌だと駄々を捏ねるばかりでどうしようもないのだ」
その遣り取りはヒメコもしている。過去に何度かヒメコは楊枝で頼朝の歯の治療をした。
「これで痛みが治まる時もありますが、次にひどく痛んだ時には抜歯をした方が良いですよ。でないと歯を傷めている毒が身体中を蝕んでしまい、命を取られることも多々あるのですからね」
そう脅したのだが、忙しいとか時間がないとか言って逃げ回っていた。
「塩でのうがいと、固めの食物をよく噛んで口の中でドロドロにしてから呑み込むことを習慣づけていれば、唾液が歯を守ってくれて歯を抜かずに保つことが出来ます。どうか、それらとうがいだけはお願いしますね」
せめても、と、祖母から教えられたことを繰り返し伝えてもきたが、これまた忙しいを理由に柔らかい食べ物を丸呑みしていた。だから、いずれ抜歯せねばならないだろうと考えていた。
「しかし抜歯はかなり痛いらしいからな。同意するかどうか」
親能はそう言ったが、京から呼び寄せた歯の名医も治すことが出来ずに戻っていったのだ。時が経つほど状況は悪くなるだろう。痛みを麻痺させるキノコに依存するまでになってしまったのだから。
「とにかく一度お顔を見て参ります。その様子によって、御台さまにご相談いたしましょう」
ああ、宜しく。そう軽やかに答えた親能が、あ、とヒメコを引き留めた。
「くれぐれも真正直にあのキノコは毒だと言うなよ。昔より更に頭が固く頑固になってる上に近頃は歯の痛みばかり気にして他のことに気が回っていないからな。京の情勢はそれどころではないというのに。だから鎮痛作用のあるあのキノコをおいそれと手放す筈がない。頑固にさせずに、しれっと抜歯の許しだけ貰おう」
ヒメコは頷いて歩き出した。
——でも、あのキノコはどうしたって危険過ぎる。どうにかして全て回収することは出来ないだろうか?
そう頭を悩ませながら小御所の中の頼朝の居室に向かう。
「将軍様、ヒメコにございます。ご無沙汰しておりました」
声をかけて部屋に入る。と、先客がいた。比礼御前だった。
「おや、ヒメコ。江間に下がったと聞いていたが、鎌倉に戻っていたのか」
はい、と頭を下げてから人払いを求めようとしたら、頼朝は先んじて
「これは比礼御前という。今は私の身体の具合を診て貰ったり食事の毒味をしたりしてくれている。構わぬから用件を話せ」
そう言って、頼朝は比礼御前の膝の上に頭を乗せ、口を開いた。比礼御前は慣れた様子で楊枝を摘んで、その口の中を覗き込む。豊かな胸が頼朝の頭の上に覆い被さっている。頼朝はすっかりご機嫌な様子で比礼御前の腰に手を回している。ヒメコが歯を見た時にはあんなことしたことはない。ヒメコは呆れた。
——どうせ、私の胸は貧弱ですよ。
出産前後に身体が丸くなった時には、それなりに嵩が増えたが、落ち着いたと同時に元通りになってしまった。コシロ兄は何も言わないけれど、男性はやはりあのような豊満な胸に惹かれるものなのだろうとは思う。
——でも。
そう思った時、戸がパァンと大きく開かれた。
0
お気に入りに追加
14
あなたにおすすめの小説
鎌倉最後の日
もず りょう
歴史・時代
かつて源頼朝や北条政子・義時らが多くの血を流して築き上げた武家政権・鎌倉幕府。承久の乱や元寇など幾多の困難を乗り越えてきた幕府も、悪名高き執権北条高時の治政下で頽廃を極めていた。京では後醍醐天皇による倒幕計画が持ち上がり、世に動乱の兆しが見え始める中にあって、北条一門の武将金澤貞将は危機感を募らせていく。ふとしたきっかけで交流を深めることとなった御家人新田義貞らは、貞将にならば鎌倉の未来を託すことができると彼に「決断」を迫るが――。鎌倉幕府の最後を華々しく彩った若き名将の清冽な生きざまを活写する歴史小説、ここに開幕!


いや、婿を選べって言われても。むしろ俺が立候補したいんだが。
SHO
歴史・時代
時は戦国末期。小田原北条氏が豊臣秀吉に敗れ、新たに徳川家康が関八州へ国替えとなった頃のお話。
伊豆国の離れ小島に、弥五郎という一人の身寄りのない少年がおりました。その少年は名刀ばかりを打つ事で有名な刀匠に拾われ、弟子として厳しく、それは厳しく、途轍もなく厳しく育てられました。
そんな少年も齢十五になりまして、師匠より独立するよう言い渡され、島を追い出されてしまいます。
さて、この先の少年の運命やいかに?
剣術、そして恋が融合した痛快エンタメ時代劇、今開幕にございます!
*この作品に出てくる人物は、一部実在した人物やエピソードをモチーフにしていますが、モチーフにしているだけで史実とは異なります。空想時代活劇ですから!
*この作品はノベルアップ+様に掲載中の、「いや、婿を選定しろって言われても。だが断る!」を改題、改稿を経たものです。
浅葱色の桜
初音
歴史・時代
新選組の局長、近藤勇がその剣術の腕を磨いた道場・試衛館。
近藤勇は、子宝にめぐまれなかった道場主・周助によって養子に迎えられる…というのが史実ですが、もしその周助に娘がいたら?というIfから始まる物語。
「女のくせに」そんな呪いのような言葉と向き合いながら、剣術の鍛錬に励む主人公・さくらの成長記です。
時代小説の雰囲気を味わっていただくため、縦書読みを推奨しています。縦書きで読みやすいよう、行間を詰めています。
小説家になろう、カクヨム、エブリスタでも載せてます。
大東亜戦争を有利に
ゆみすけ
歴史・時代
日本は大東亜戦争に負けた、完敗であった。 そこから架空戦記なるものが増殖する。 しかしおもしろくない、つまらない。 であるから自分なりに無双日本軍を架空戦記に参戦させました。 主観満載のラノベ戦記ですから、ご感弁を
四代目 豊臣秀勝
克全
歴史・時代
アルファポリス第5回歴史時代小説大賞参加作です。
読者賞を狙っていますので、アルファポリスで投票とお気に入り登録してくださると助かります。
史実で三木城合戦前後で夭折した木下与一郎が生き延びた。
秀吉の最年長の甥であり、秀長の嫡男・与一郎が生き延びた豊臣家が辿る歴史はどう言うモノになるのか。
小牧長久手で秀吉は勝てるのか?
朝日姫は徳川家康の嫁ぐのか?
朝鮮征伐は行われるのか?
秀頼は生まれるのか。
秀次が後継者に指名され切腹させられるのか?
鷹の翼
那月
歴史・時代
時は江戸時代幕末。
新選組を目の敵にする、というほどでもないが日頃から敵対する1つの組織があった。
鷹の翼
これは、幕末を戦い抜いた新選組の史実とは全く関係ない鷹の翼との日々。
鷹の翼の日常。日課となっている嫌がらせ、思い出したかのようにやって来る不定期な新選組の奇襲、アホな理由で勃発する喧嘩騒動、町の騒ぎへの介入、それから恋愛事情。
そんな毎日を見届けた、とある少女のお話。
少女が鷹の翼の門扉を、めっちゃ叩いたその日から日常は一変。
新選組の屯所への侵入は失敗。鷹の翼に曲者疑惑。崩れる家族。鷹の翼崩壊の危機。そして――
複雑な秘密を抱え隠す少女は、鷹の翼で何を見た?
なお、本当に史実とは別次元の話なので容姿、性格、年齢、話の流れ等は完全オリジナルなのでそこはご了承ください。
よろしくお願いします。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる