【完結】姫の前

やまの龍

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第五章 明石

第9話 澱みと薫り

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 結局、ヒメコはコシロ兄とトモと共に鎌倉に戻ることにした。気がかりは母のことだったが、意外にもあっさり承諾してくれた。

「あら、どうぞ。三人は鎌倉にお戻りなさい。私が江間で留守番してるから安心してね」

「え、母さまは江間に残るの?」

「ええ。いいでしょう?シマちゃんの赤さんのお世話を手伝いながら、ここでのんびり隠居してるわよ。また貴女が女の子を産む時には迎えを寄越して頂戴。お世話しに行ってあげるからね」

「はぁ」

 お世話しに来るというより、お世話されに来そうだけれど、でもとりあえず大人しく頷く。

「寂しくない?困らない?」

 母はいいえと首を横に振った。

「シマちゃんのご飯は美味しいし、村の皆は親切で楽しいし、私のことを大奥様って呼んで大切にしてくれるんですもの。やっと江間に慣れたのに、また馬に乗って遠い鎌倉に戻るなんて嫌。どうぞ私のことは気にしないで置いて行って頂戴。全然寂しくないから」

  その時、赤子の泣き声がした。母が立ち上がり、笑顔で駆けて行く。

「あらあらあら、どうしたの?おむつかしら?お腹空いたの?待って待って。今抱っこしてあげるからね」

 確かに元気だ。別に意地を張ってるわけでもなさそう。コシロ兄と顔を見合わせて頷く。

「じゃあ母さま、寂しくなったり困ったりしたら、いつでも呼んで下さいね」

「はいはい。私のことはいいから貴女は早く次の子を産みなさい。自分の子は何かと大変だったけど、他人の子はただただ可愛くていいものねぇ。特に女の子は別格。お義母上の気持ちがやっとよく分かったわ」

 そういうものなのだろうか。ヒメコは僅か迷いつつも、明るい笑顔の母を信じることにして、翌日に江間を発った。最低限の荷だけ持って身軽に馬に跨る。

「重時殿、シンペイ、シマさん、面倒を増やしてしまって御免なさいね。母が何か困ったことをしましたら、いつでも文を下さいね。叱りに戻りますから」

 シマが近付いてきて、そっと囁いた。

「お方様、またいつでも戻っていらして下さいまし。女の子を身授かる秘法などもお伝え出来ますからね」

——女の子を授かる秘法?そんなものあるの?

 少しばかり後ろ髪を引かれたヒメコだったが、コシロ兄を追って慌てて馬を駆けさせた。トモは暴れて落ちないように帯でがんじがらめにされてコシロ兄の馬に乗せられていた。ヒメコではああはいかない。父親の強さを思い、共に鎌倉に戻れることにホッとする。


 久しぶりの鎌倉は変わっていなかった。一見はそう思われた。でも、どこか空気が重くて澱んでいるように感じる。

 まだ新春の行事が終わったばかりで、いつもなら華々しくおめでたい雰囲気が残っている筈なのに、どこかよそよそしく冷たい感じがした。でも小路を抜けて江間の屋敷へと戻れば、江間の屋敷は変わらない佇まいでそこにあったのでホッとする。

「お方様、若君、よくお戻りになられました。若君はまた背がグンとお伸びになりましたね」

 迎えてくれた藤五やフジらに囲まれて、トモは得意げに背のびをしてみせる。

「本当だ、大きくなったな。後で背丈を測ってやろう」

 頼時の声にトモが飛び跳ねた。

「あにうえー」

 叫ぶなり、草鞋も脱がずに頼時に飛び付く。

「わぁ、ずっしり重くなったな。後で相撲をやろう。でも先ずは手と足を洗って仏様に手を合わせてからだぞ」

 頼時の言葉にトモは素直に従う。

「頼時殿、有難う。貴方も背が伸びたのではない?」

 頼時は柔らかに微笑んだ。

「はい、お陰様で一つ年を取りましたから。母上様、お帰りなさいませ。母上もお変わりなくて何よりです」

「鎌倉に何か変わったことはありませんでしたか?」

 ヒメコが尋ねたら、頼時は、ええと頷いたが、ほんの僅か間が空いた気がして少し気にかかる。でもトモが割って入ってきて背丈を計れと頼時の手を引いて行ってしまう。コシロ兄は屋敷に着いてすぐに御所に顔を出しに行ってしまって戻って来たのはその晩の遅くだった。

「お帰りなさいませ。伊豆からそのまま御所へお通いで、さぞくたびれたことでしょう。お湯を沸かしましょうか?手足だけでも温めたら楽になるのでは」

 そう提案するが、コシロ兄は黙ったまま首を横に振った。

「明日も御所に参内されるのですか?」

 問うたら、ああと返事があった。

「では、私も共にお連れいただけませんか?御台さまと阿波局様にご挨拶したいのです」

 だがコシロ兄は首を横に振った。

「明日は駄目だ」

 はっきりとした否定の言葉にヒメコは首を傾げた。珍しい。コシロ兄の顔を見つめる。コシロ兄は目を横に流してから口を開いた。

「明後日なら連れて行こう。それより」

 言ってヒメコの手を引く。引き倒され、その唇を受けながら、ヒメコは微かな違和感を感じていた。

 奇妙に張り詰めた気配。性急に進む事。どこか江間の時のコシロ兄とは何かが違っていた。脱いだ着物が投げ捨てられた時に部屋の中に舞い散った薫り。これはどこかで嗅いだことのあるような気がする。でもどこだったのか。
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