157 / 225
第五章 明石
第7話 江間の方
しおりを挟む
その年の冬の初め、ヒメコは伊豆の江間へと身を移した。頼時やフジ、藤五らは鎌倉に残るので、ヒメコとトモ、そして母の道行きになった。母は生まれて初めての馬に興奮していた。
「これでお義母上に馬鹿にされずに済みますわ。私も馬に乗りましたよってね」
得意げに話す母だが、数刻しない内に泣き言を言い出す。
「もう疲れたわ。江間はまだなの?トモも疲れて可哀想だから休みましょうよ」
トモは初の遠出ではしゃいでいる。疲れてるのは明らかに母だけだったが仕方ない。何度も休みを取りながら、ゆるゆると伊豆に向かう。将軍が何度か上洛し、使者の往き来も増えている為、道は大幅に整備されて宿も増えたお陰で昔にヒメコがコシロ兄と馬で通ったよりは格段に快適な旅だった。江間に着いたのは日が暮れてしばらくしてからだった。
「殿、お帰りなさいませ」
館の前で松明を掲げて迎えてくれたのはシンペイだった。
「殿、お方様、皆々様、夕餉の支度が出来ております。どうぞ」
案内してくれるシンペイの脇に控える若いふくよかな女性。
「よくおいで下さいました。お身体が冷えたことでしょう。さ、此方へ」
その若い女性に中に通される。その後ろを荷物を抱えたシンペイが追った。
「お方様のお母君のお部屋はこちらで御座います。さ、どうぞ。あ、ちょっと、あんた。それは殿のお部屋に運ぶ分ずら。まだ覚えらんないのかい?」
突如声の調子を変えた若い女性に驚く。
「おまいはいちいち煩いんだら。こっちはもういいけん食事の支度をしろ」
シンペイが言い返したことでやっと気付く。
「もしかして彼女はあなたの?」
シンペイが頭をかいた。
「はい。女房のシマです。あの通り、口と見てくれは今一ですが、力持ちで料理は得意なので、そこは期待してやってください」
「まぁ、楽しみです。宜しくお願いしますね」
山木攻めの折、高い木立の上で寝かかっていた小さなシンペイが、お嫁さんを貰っていたなんて。
一行は温かな汁をいただいて、やっと人心地ついた。
「殿は暫くこちらにいらっしゃれるのですか?」
ヒメコが尋ねたら、シロ兄はそうだなと曖昧な返事をした。
「鎌倉から急ぎの使いが来なければ、今の予定では五日程こちらにいられる」
「五日」
短いと思ってしまうのは甘えだろうか。だがその三日後、鎌倉から文が届く。ドキリとするが、コシロ兄宛ではなく、ヒメコ宛の阿波局からの文だった。
鎌倉を出る前に御所に挨拶に行ったのだが、その日は阿波局は不在だったので文を渡してもらえるよう頼んでおいたその返事だった。
「江間に移られたとのこと。そろそろ落ち着かれた頃かしら?こちらは寂しいわ。大姉上も大姫様も寂しがっているわよ。結局、京では中宮様が皇女をお産みになったし、女御様も皇子をお産みになったとか。将軍様はがっかりして歯の病が再発するし、御所内も雰囲気が悪くて、大姫様のお具合もまた悪くなってしまったの。もう入内の話はなくなるんじゃないかという噂よ」
皇女に皇子。それでは京に行っても大姫は辛い想いをするばかりではないか。入内の話が無くなるのなら、それが一番いいのに、とヒメコは思った。コシロ兄に尋ねてみる。
「大姫様の入内のお話はどうなるのでしょうか?」
コシロ兄は首を横に振った。
「分からん。それは将軍様がお決めになること。皇女、皇子がお生まれになったとて、いつ何があるとも分からない。既に話が進んでいる以上、入内の話が止まることはないかと思うが」
「そうなのですか」
それでいいのだろうか?仕方ないのだろうか?でも、何だろう。嫌な感じがする。ヒメコは立ち上がろうとして気付いた。ここは鎌倉ではない。おいそれと御所に駆け付ける訳にいかないのだ。
その数日後、コシロ兄が鎌倉に向かう。
「何かあれば、すぐに使いを寄越せ」
言ってコシロ兄はヒメコの左手をそっと取った。
——私も鎌倉に。
その言葉を飲み込んで、ヒメコは胸元に入れていた包みをコシロ兄に託した。
「これを大姫様にお渡し願えませんか?」
それから、馬屋に向かうコシロ兄を追いかけ、その背の上部、風門の辺りをそっと手で払った。邪鬼が入らないよう祈りを込めて。
——またすぐにお会い出来ますよう。
だが、コシロ兄はなかなか江間に戻らず、そのまま年が明ける。
「年始の行事が済み次第、江間に戻る」
やがて、それだけの文が届いた。
「まぁ、これだけ?まったく、婿殿はなんて無愛想なんでしょう!こちらは年越しの準備をして待ってましたのに」
憤慨する母を見ながら、シマとこっそり顔を見合わせる。
「歳の瀬だからゆっくり温泉に行っちゃいましょう」
と、女だけで古奈の湯を占領し、
「きっと御所で御馳走にありついてるわよ」
と、シマが準備してくれた御馳走をペロリと平らげた母なのだ。
「殿はお独りの時から殆ど食べ物を口になさらないお方でしたから、私は腕を振るえず残念でしたが、こうして皆さんがたっぷり食べて下さるので作り甲斐があります。うちの人もあんまり食べないので、作り過ぎた分をつい自分で平らげてたらこうなってしまって」
そう言ってお腹をポンと叩く。
皆が笑った所で、急にそのシマがお腹を抱えてうずくまった。
「シマ?どうしたの?シマ!」
何が起きたのか分からず、とにかくシマの背中をさすって横にさせようとした時、トモに手を引かれたシンペイが駆け込んで来た。
「シマ!産まれるのか?」
「え?じゃあ、まさかシマは」
シマに手を当てたままシンペイを振り仰げば、シンペイは頷いた。
「へぇ、こいつ、腹ボテで。でもまだだって言ってたのに」
「お産婆さんは?」
「呼んで来ます!」
シンペイは駆け出して行った。それを追いかけて行くトモ。
「あ、トモ!貴方はここにいなさい!」
叫ぶも、犬のようにシンペイを追って行く後ろ姿はあっという間に見えなくなる。息を切らしながら街道に出たヒメコの前に馬影が止まった。
「何をやっている」
低い声に顔を上げたら、コシロ兄だった。
「これでお義母上に馬鹿にされずに済みますわ。私も馬に乗りましたよってね」
得意げに話す母だが、数刻しない内に泣き言を言い出す。
「もう疲れたわ。江間はまだなの?トモも疲れて可哀想だから休みましょうよ」
トモは初の遠出ではしゃいでいる。疲れてるのは明らかに母だけだったが仕方ない。何度も休みを取りながら、ゆるゆると伊豆に向かう。将軍が何度か上洛し、使者の往き来も増えている為、道は大幅に整備されて宿も増えたお陰で昔にヒメコがコシロ兄と馬で通ったよりは格段に快適な旅だった。江間に着いたのは日が暮れてしばらくしてからだった。
「殿、お帰りなさいませ」
館の前で松明を掲げて迎えてくれたのはシンペイだった。
「殿、お方様、皆々様、夕餉の支度が出来ております。どうぞ」
案内してくれるシンペイの脇に控える若いふくよかな女性。
「よくおいで下さいました。お身体が冷えたことでしょう。さ、此方へ」
その若い女性に中に通される。その後ろを荷物を抱えたシンペイが追った。
「お方様のお母君のお部屋はこちらで御座います。さ、どうぞ。あ、ちょっと、あんた。それは殿のお部屋に運ぶ分ずら。まだ覚えらんないのかい?」
突如声の調子を変えた若い女性に驚く。
「おまいはいちいち煩いんだら。こっちはもういいけん食事の支度をしろ」
シンペイが言い返したことでやっと気付く。
「もしかして彼女はあなたの?」
シンペイが頭をかいた。
「はい。女房のシマです。あの通り、口と見てくれは今一ですが、力持ちで料理は得意なので、そこは期待してやってください」
「まぁ、楽しみです。宜しくお願いしますね」
山木攻めの折、高い木立の上で寝かかっていた小さなシンペイが、お嫁さんを貰っていたなんて。
一行は温かな汁をいただいて、やっと人心地ついた。
「殿は暫くこちらにいらっしゃれるのですか?」
ヒメコが尋ねたら、シロ兄はそうだなと曖昧な返事をした。
「鎌倉から急ぎの使いが来なければ、今の予定では五日程こちらにいられる」
「五日」
短いと思ってしまうのは甘えだろうか。だがその三日後、鎌倉から文が届く。ドキリとするが、コシロ兄宛ではなく、ヒメコ宛の阿波局からの文だった。
鎌倉を出る前に御所に挨拶に行ったのだが、その日は阿波局は不在だったので文を渡してもらえるよう頼んでおいたその返事だった。
「江間に移られたとのこと。そろそろ落ち着かれた頃かしら?こちらは寂しいわ。大姉上も大姫様も寂しがっているわよ。結局、京では中宮様が皇女をお産みになったし、女御様も皇子をお産みになったとか。将軍様はがっかりして歯の病が再発するし、御所内も雰囲気が悪くて、大姫様のお具合もまた悪くなってしまったの。もう入内の話はなくなるんじゃないかという噂よ」
皇女に皇子。それでは京に行っても大姫は辛い想いをするばかりではないか。入内の話が無くなるのなら、それが一番いいのに、とヒメコは思った。コシロ兄に尋ねてみる。
「大姫様の入内のお話はどうなるのでしょうか?」
コシロ兄は首を横に振った。
「分からん。それは将軍様がお決めになること。皇女、皇子がお生まれになったとて、いつ何があるとも分からない。既に話が進んでいる以上、入内の話が止まることはないかと思うが」
「そうなのですか」
それでいいのだろうか?仕方ないのだろうか?でも、何だろう。嫌な感じがする。ヒメコは立ち上がろうとして気付いた。ここは鎌倉ではない。おいそれと御所に駆け付ける訳にいかないのだ。
その数日後、コシロ兄が鎌倉に向かう。
「何かあれば、すぐに使いを寄越せ」
言ってコシロ兄はヒメコの左手をそっと取った。
——私も鎌倉に。
その言葉を飲み込んで、ヒメコは胸元に入れていた包みをコシロ兄に託した。
「これを大姫様にお渡し願えませんか?」
それから、馬屋に向かうコシロ兄を追いかけ、その背の上部、風門の辺りをそっと手で払った。邪鬼が入らないよう祈りを込めて。
——またすぐにお会い出来ますよう。
だが、コシロ兄はなかなか江間に戻らず、そのまま年が明ける。
「年始の行事が済み次第、江間に戻る」
やがて、それだけの文が届いた。
「まぁ、これだけ?まったく、婿殿はなんて無愛想なんでしょう!こちらは年越しの準備をして待ってましたのに」
憤慨する母を見ながら、シマとこっそり顔を見合わせる。
「歳の瀬だからゆっくり温泉に行っちゃいましょう」
と、女だけで古奈の湯を占領し、
「きっと御所で御馳走にありついてるわよ」
と、シマが準備してくれた御馳走をペロリと平らげた母なのだ。
「殿はお独りの時から殆ど食べ物を口になさらないお方でしたから、私は腕を振るえず残念でしたが、こうして皆さんがたっぷり食べて下さるので作り甲斐があります。うちの人もあんまり食べないので、作り過ぎた分をつい自分で平らげてたらこうなってしまって」
そう言ってお腹をポンと叩く。
皆が笑った所で、急にそのシマがお腹を抱えてうずくまった。
「シマ?どうしたの?シマ!」
何が起きたのか分からず、とにかくシマの背中をさすって横にさせようとした時、トモに手を引かれたシンペイが駆け込んで来た。
「シマ!産まれるのか?」
「え?じゃあ、まさかシマは」
シマに手を当てたままシンペイを振り仰げば、シンペイは頷いた。
「へぇ、こいつ、腹ボテで。でもまだだって言ってたのに」
「お産婆さんは?」
「呼んで来ます!」
シンペイは駆け出して行った。それを追いかけて行くトモ。
「あ、トモ!貴方はここにいなさい!」
叫ぶも、犬のようにシンペイを追って行く後ろ姿はあっという間に見えなくなる。息を切らしながら街道に出たヒメコの前に馬影が止まった。
「何をやっている」
低い声に顔を上げたら、コシロ兄だった。
0
お気に入りに追加
14
あなたにおすすめの小説
幕末レクイエム―士魂の城よ、散らざる花よ―
馳月基矢
歴史・時代
徳川幕府をやり込めた勢いに乗じ、北進する新政府軍。
新撰組は会津藩と共に、牙を剥く新政府軍を迎え撃つ。
武士の時代、刀の時代は終わりを告げる。
ならば、刀を執る己はどこで滅ぶべきか。
否、ここで滅ぶわけにはいかない。
士魂は花と咲き、決して散らない。
冷徹な戦略眼で時流を見定める新撰組局長、土方歳三。
あやかし狩りの力を持ち、無敵の剣を謳われる斎藤一。
schedule
公開:2019.4.1
連載:2019.4.19-5.1 ( 6:30 & 18:30 )
幕末レクイエム―誠心誠意、咲きて散れ―
馳月基矢
歴史・時代
幕末、動乱の京都の治安維持を担った新撰組。
華やかな活躍の時間は、決して長くなかった。
武士の世の終わりは刻々と迫る。
それでもなお刀を手にし続ける。
これは滅びの武士の生き様。
誠心誠意、ただまっすぐに。
結核を病み、あやかしの力を借りる天才剣士、沖田総司。
あやかし狩りの力を持ち、目的を秘めるスパイ、斎藤一。
同い年に生まれた二人の、別々の道。
仇花よ、あでやかに咲き、潔く散れ。
schedule
公開:2019.4.1
連載:2019.4.7-4.18 ( 6:30 & 18:30 )
7番目のシャルル、狂った王国にうまれて【少年期編完結】
しんの(C.Clarté)
歴史・時代
15世紀、狂王と淫妃の間に生まれた10番目の子が王位を継ぐとは誰も予想しなかった。兄王子の連続死で、不遇な王子は14歳で王太子となり、没落する王国を背負って死と血にまみれた運命をたどる。「恩人ジャンヌ・ダルクを見捨てた暗愚」と貶される一方で、「建国以来、戦乱の絶えなかった王国にはじめて平和と正義と秩序をもたらした名君」と評価されるフランス王シャルル七世の少年時代の物語。
歴史に残された記述と、筆者が受け継いだ記憶をもとに脚色したフィクションです。
【カクヨムコン7中間選考通過】【アルファポリス第7回歴史・時代小説大賞、読者投票4位】【講談社レジェンド賞最終選考作】
※表紙絵は離雨RIU(@re_hirame)様からいただいたファンアートを使わせていただいてます。
※重複投稿しています。
カクヨム:https://kakuyomu.jp/works/16816927859447599614
小説家になろう:https://ncode.syosetu.com/n9199ey/
陸のくじら侍 -元禄の竜-
陸 理明
歴史・時代
元禄時代、江戸に「くじら侍」と呼ばれた男がいた。かつて武士であるにも関わらず鯨漁に没頭し、そして誰も知らない理由で江戸に流れてきた赤銅色の大男――権藤伊佐馬という。海の巨獣との命を削る凄絶な戦いの果てに会得した正確無比な投げ銛術と、苛烈なまでの剛剣の使い手でもある伊佐馬は、南町奉行所の戦闘狂の美貌の同心・青碕伯之進とともに江戸の悪を討ちつつ、日がな一日ずっと釣りをして生きていくだけの暮らしを続けていた……

魅了が解けた貴男から私へ
砂礫レキ
ファンタジー
貴族学園に通う一人の男爵令嬢が第一王子ダレルに魅了の術をかけた。
彼女に操られたダレルは婚約者のコルネリアを憎み罵り続ける。
そして卒業パーティーでとうとう婚約破棄を宣言した。
しかし魅了の術はその場に運良く居た宮廷魔術師に見破られる。
男爵令嬢は処刑されダレルは正気に戻った。
元凶は裁かれコルネリアへの愛を取り戻したダレル。
しかしそんな彼に半年後、今度はコルネリアが婚約破棄を告げた。
三話完結です。
織田信長 -尾州払暁-
藪から犬
歴史・時代
織田信長は、戦国の世における天下統一の先駆者として一般に強くイメージされますが、当然ながら、生まれついてそうであるわけはありません。
守護代・織田大和守家の家来(傍流)である弾正忠家の家督を継承してから、およそ14年間を尾張(現・愛知県西部)の平定に費やしています。そして、そのほとんどが一族間での骨肉の争いであり、一歩踏み外せば死に直結するような、四面楚歌の道のりでした。
織田信長という人間を考えるとき、この彼の青春時代というのは非常に色濃く映ります。
そこで、本作では、天文16年(1547年)~永禄3年(1560年)までの13年間の織田信長の足跡を小説としてじっくりとなぞってみようと思いたった次第です。
毎週の月曜日00:00に次話公開を目指しています。
スローペースの拙稿ではありますが、お付き合いいただければ嬉しいです。
(2022.04.04)
※信長公記を下地としていますが諸出来事の年次比定を含め随所に著者の創作および定説ではない解釈等がありますのでご承知置きください。
※アルファポリスの仕様上、「HOTランキング用ジャンル選択」欄を「男性向け」に設定していますが、区別する意図はとくにありません。
【完結】転生7年!ぼっち脱出して王宮ライフ満喫してたら王国の動乱に巻き込まれた少女戦記 〜愛でたいアイカは救国の姫になる
三矢さくら
ファンタジー
【完結しました】異世界からの召喚に応じて6歳児に転生したアイカは、護ってくれる結界に逆に閉じ込められた結果、山奥でサバイバル生活を始める。
こんなはずじゃなかった!
異世界の山奥で過ごすこと7年。ようやく結界が解けて、山を下りたアイカは王都ヴィアナで【天衣無縫の無頼姫】の異名をとる第3王女リティアと出会う。
珍しい物好きの王女に気に入られたアイカは、なんと侍女に取り立てられて王宮に!
やっと始まった異世界生活は、美男美女ぞろいの王宮生活!
右を見ても左を見ても「愛でたい」美人に美少女! 美男子に美少年ばかり!
アイカとリティア、まだまだ幼い侍女と王女が数奇な運命をたどる異世界王宮ファンタジー戦記。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる