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第五章 明石
※外伝 一夜の夢、一塵の香、一生の瑕 4
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分かっていた筈。ずっと昔から。自分は、かの人の身代わりでしかないと。
「生きていますよ」
そう答える。彼女は笑って頷いた。
「ええ、知ってるわ。あたたかいもの。触れられるもの」
そうして、その細い指をまた私の腕に絡ませる。
「お願い。私も貴方も今この瞬間、生きてるって感じさせて」
腕に食い込む爪の痛みから、生にしがみつこうとする彼女の必死さが伝わってきた。歯を食いしばる。
身代わりでもいい。それで彼女の気が済むなら。一夜の夢と彼女は言ったのだから。
だが彼女にとっては一夜の夢でも、自分にとっては生涯の深手となろう。それを承知しながら、目を強く瞑って覚悟を決める。
自身の我を消して、かの人を思い浮かべる。かの人ならどうするか。彼女をどう愛するか。抱き留めるか。自分の中に残るかの人となり、彼女の震える身体を安心させるように優しく抱き締め、零れ落ちる涙をそっと拭い、黒々と流れる髪の毛を丁寧に掬い、その手を緩くあたたかく握り締め、全身全霊かけて彼女の生を愛でる。
——生きて。
そう願ったのは、私か、それとも。
幼い彼女は自分たちの双六の邪魔をした。ひいな遊びをしようと碁盤の上の碁石を散らばせた。それをムッとした顔で睨んでいた俺と、愛おしそうに微笑んで眺めていたかの人。彼女はかの人の隣にちょこんと可愛らし気に座りながら、ひどく生意気な顔をして、ひいな遊びをしろと俺に命令してきた。無視してやったら碁石を投げつけてきた。怒ったら泣き真似をしてかの人の後ろに逃げ込み、そこから俺にあかんべをして笑った。その顔がとても生意気で、とても可愛かった。愛おしかった。でも……。
やがて終わりが来る。
ジジと燈明が掻き消え、夢から醒めたら彼女は起き上がっていた。微かに漏れる月明かりの下で白い肌を晒した彼女は天女のようだった。
天女は俺を見上げて微笑んだ。
「私は京に行くわ。帝の后になりに」
「帝の后?」
京の公卿と見合いをしたのではなかったのか?
事の桁外れの大きさに言葉を失った自分に、何てこともないような顔をして笑って見せる彼女。
「ええ、そうよ。やっとその時が来たの。だって前に約束したでしょう?」
「約束?」
「いつか京をも動かせるようになって見せるからって」
その瞬間、頭に鈍い痛みが走る。
——彼女は誰と話をしているのか?約束をしたのか?
その約束は、かの人、自分の主人との間に為されたものではない。監禁されていた自分の前に突如現れて一方的に彼女が告げた約束。
彼女は俺に、かの人の身代わりを求めてやって来たのではなかったのか?
「生きてね。私の分も。皆の分も」
その言葉もそうだ。襲いくる既視感に頭が割れそうになり、吐き気を催してその場に膝をつく。その横に彼女が立った。
「一夜の夢を有難う。ずっとずっと大好きよ、幸氏」
呼ばれた名に身体が反応する。彼女を捕まえようと腕が伸びる。
——もう一度。もう一度だけ触れさせてくれ。確かにそこに居ると感じさせてくれ。
無我夢中で衣を掴み、手繰り寄せる。
だが、彼女はするりと闇に紛れて消えた。残されたのは、くすんだ甘ったるい香りと重く気だるい自分の身体。そして淡色をした薄手の袿。
これが天女の羽衣だったら良かったのに。そうしたら誰にも見つからぬ所に埋めて隠して、天になど還さないのに。
「どうして!」
——どうして?
それに応える声はない。
彼女は行ってしまった。
「生きていますよ」
そう答える。彼女は笑って頷いた。
「ええ、知ってるわ。あたたかいもの。触れられるもの」
そうして、その細い指をまた私の腕に絡ませる。
「お願い。私も貴方も今この瞬間、生きてるって感じさせて」
腕に食い込む爪の痛みから、生にしがみつこうとする彼女の必死さが伝わってきた。歯を食いしばる。
身代わりでもいい。それで彼女の気が済むなら。一夜の夢と彼女は言ったのだから。
だが彼女にとっては一夜の夢でも、自分にとっては生涯の深手となろう。それを承知しながら、目を強く瞑って覚悟を決める。
自身の我を消して、かの人を思い浮かべる。かの人ならどうするか。彼女をどう愛するか。抱き留めるか。自分の中に残るかの人となり、彼女の震える身体を安心させるように優しく抱き締め、零れ落ちる涙をそっと拭い、黒々と流れる髪の毛を丁寧に掬い、その手を緩くあたたかく握り締め、全身全霊かけて彼女の生を愛でる。
——生きて。
そう願ったのは、私か、それとも。
幼い彼女は自分たちの双六の邪魔をした。ひいな遊びをしようと碁盤の上の碁石を散らばせた。それをムッとした顔で睨んでいた俺と、愛おしそうに微笑んで眺めていたかの人。彼女はかの人の隣にちょこんと可愛らし気に座りながら、ひどく生意気な顔をして、ひいな遊びをしろと俺に命令してきた。無視してやったら碁石を投げつけてきた。怒ったら泣き真似をしてかの人の後ろに逃げ込み、そこから俺にあかんべをして笑った。その顔がとても生意気で、とても可愛かった。愛おしかった。でも……。
やがて終わりが来る。
ジジと燈明が掻き消え、夢から醒めたら彼女は起き上がっていた。微かに漏れる月明かりの下で白い肌を晒した彼女は天女のようだった。
天女は俺を見上げて微笑んだ。
「私は京に行くわ。帝の后になりに」
「帝の后?」
京の公卿と見合いをしたのではなかったのか?
事の桁外れの大きさに言葉を失った自分に、何てこともないような顔をして笑って見せる彼女。
「ええ、そうよ。やっとその時が来たの。だって前に約束したでしょう?」
「約束?」
「いつか京をも動かせるようになって見せるからって」
その瞬間、頭に鈍い痛みが走る。
——彼女は誰と話をしているのか?約束をしたのか?
その約束は、かの人、自分の主人との間に為されたものではない。監禁されていた自分の前に突如現れて一方的に彼女が告げた約束。
彼女は俺に、かの人の身代わりを求めてやって来たのではなかったのか?
「生きてね。私の分も。皆の分も」
その言葉もそうだ。襲いくる既視感に頭が割れそうになり、吐き気を催してその場に膝をつく。その横に彼女が立った。
「一夜の夢を有難う。ずっとずっと大好きよ、幸氏」
呼ばれた名に身体が反応する。彼女を捕まえようと腕が伸びる。
——もう一度。もう一度だけ触れさせてくれ。確かにそこに居ると感じさせてくれ。
無我夢中で衣を掴み、手繰り寄せる。
だが、彼女はするりと闇に紛れて消えた。残されたのは、くすんだ甘ったるい香りと重く気だるい自分の身体。そして淡色をした薄手の袿。
これが天女の羽衣だったら良かったのに。そうしたら誰にも見つからぬ所に埋めて隠して、天になど還さないのに。
「どうして!」
——どうして?
それに応える声はない。
彼女は行ってしまった。
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