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第五章 明石
※外伝 一夜の夢、一塵の香、一生の瑕 3
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「ええ、分かってるわ。声なんて上げないわよ。だって一夜だけの夢なのだから」
挑戦的な口調で自分を睨み上げる人。その目を睨み返し、試すように顔を近付ける。それでもし目を逸されたなら、少しでも拒む色を見せたなら、すぐに離れようとそう思っていた。だが彼女は真っ直ぐこちらを見て、それからそっとその瞼を下ろした。その静かな動きに導かれるようにして撫子色の唇にそっと口付ける。それから幾度か重ねられる口付け。目の前には白く細い首と透き通るような薄桃色の頰。その頰に自らの穢れた指で触れるのは気が引けて、ただそっと頰を寄せる。と、彼女がくすぐったそうに笑った気配がした。それに誘われるようにして彼女が纏っていた着物を脱がせていく。着物に焚きしめられた香か、くすんだ甘い匂いがうざったい。そんなものより彼女自身を感じたかった。彼女との間を阻む邪魔な布を取り払い、白い肌に自分の身を寄せる。あたたかい。柔らかくてしっとりとしている。そう感じた瞬間に、彼女が折れてしまいはしないかと危ぶむ気持ちが何処かに飛んで行ってしまいそうになる。この香のせいだ。頭を振り払って息を詰めながら、それでも彼女がどこかに消えてしまわないように彼女をしっかりと抱き締める。
——トクトクトクトク。
早鐘のように打ち鳴らされている彼女の胸の鼓動が伝わってくる。それは自身の身体を駆け巡る血の流れとまるで同じ速さだった。そう感じた刹那、身体中の血がドッと湧き返るような心地がした。同じ律を奏で、共鳴し合う二人の鼓動。振動。それはまるで、この世には今、自分と彼女しかいないと勘違いしてしまいそうな不思議な感覚だった。
でも、なんだろう?この感覚には覚えがある気がする。心の奥を探りに行く。ふと心に浮かぶ、見慣れた木曽の山並み。
——そうだ、狩り場だ。愛馬を駆けさせ、急峻な山道を獲物を追って空を飛ぶ。人馬一体。それぞれの呼吸がぴたりと揃い、鼓動が美しく重なり、山の神に赦しを乞いて供物を捧げる。
——供物。それはいつも得た獣の首だった。
スッと意識が引き戻される。大切な宝玉のような穢れなき存在。それが彼女。このような事態になっていることが知れたらどうなるか。間違いなく自分は縛り首にされて獄門に晒される。父や兄達のように。その光景がありありと浮かぶ。
——自分は一体何をしているのか。彼女のいつもの気紛れに振り回されて、やっと繋いだ自分の生を棄てるつもりか。家人や同郷の仲間達の身を危うくさせるつもりか。そう自問する。離れろ。今ならまだ間に合う。そう、今ならまだ。何事もなかったように振る舞って、彼女を送って行けばいい。
だが身を起こしかけた所で気付く。黒々とした大きな瞳が自分を見つめていた。
いつもその視線は感じていた。御簾の向こう、桟敷の上から、流鏑馬を行なう自分をじっと窺う視線。初めは私が失敗をしないか案じているのかと思っていた。だから失敗など出来なかった。初めての流鏑馬で、どうにか矢を的に皆中させ、馬の首を巡らせて戻ろうとした時、安堵の息を吐く彼女が見えたような気がした。
——自分を案じて見てくれている。
じわりと胸に広がっていく甘く熱い塊。
自分は鎌倉に逆らう存在だった氏族の生き残り。味方の少ないこの鎌倉で、流鏑馬の射手という大役に急遽抜擢された自分にとって、彼女が見てくれていることは何よりもの支えになった。その後、何度も神事で流鏑馬の射手を務めるようになり、やがて一人前の御家人として認められるようになる。それを彼女は殊の外喜んでくれた。たまに神事の場に彼女の気配が感じられない日もあった。それでも変わらずに役目を果たした。
だが気付く。全て違わず射終わって喝采を浴びても、彼女の気配がない日は心がどこか虚しいことに。
弓の上達ぶりを母に褒めて貰おうとする幼い子どものようだと苦笑した。
でも、そう考えるのも無理はなかった。彼女は私にとって庇護者だった。頼朝公と相対して滅びた武将の嫡男という立場の自分が今も生き残り、御家人として重用されているのは彼女のおかげ。彼女が自分の主の許婚者であったから、彼女は夫の家臣である私を守ろうとしてくれた。それだけのこと。なのに、いつの間にか彼女は私の中で一際大きな存在となっていた。いつからか、目が彼女を探し求めるようになっていた。見られていると感じると胸が高鳴った。しくじりなど許されなかった。もし一度でもしくじれば、射手の役を外されるかもしれない。彼女の姿を見る機を失ってしまう。
「最近、お前、鬼気迫ってるよな」
同郷の友に言われた。
「いい加減、俺に流鏑馬の射手を譲ってくれよ」
ふざけ半分、本気半分の友の言葉に対して、極めて冷徹に返した。
「自分の力で役を手に入れろよ」
傲慢だと自覚していたが、他の有力御家人らに比べて、この役以外では目立つ活躍の出来なかった自分にとって、流鏑馬でのし上がる以外に道がなかった。若公の狩の手伝いもし、弓のこととなったら、諏訪か下河辺か新田か、または、と頼朝公挙兵以来の重鎮と並べて名が上げられるようになり、頼朝公の信を得られるようになった。そして、いつかもっと力をつけたら、もしや彼女と、と叶わぬ夢を見た。
だが、そんな浅はかな夢は、彼女が京の公卿と見合いをしたことで簡単に砕け散る。
なのに、打ちのめされたその日に彼女はやって来た。一夜だけの妻にしてくれと。許されないことなのは明白。でも離したくなかった。あの時、少女だった彼女はいつの間にか乙女になっていた。そして自分を受け入れようとしてくれている。
苦痛に眉を顰めた彼女。でも声は上げなかった。気丈な彼女のこと、堪えたのだろう。ただ、逃された熱い息が胸にぶつかり、彼女の香りとなって自分を包む。彼女が潰れてしまわないように腕で身を支えながら彼女を見下ろす。彼女は自分を見上げていた。もう怯えの色はなく、薄っすら蒸気した頰は笑んでいるように見えた。
「っと」
微かな声で言われ、何と言われたのかわからず、その口元に耳を近付ける。
「もっと」
彼女の声がはっきりと耳に届いた。
「もっと見ていたいのに。貴方を。感じていたいのに。生きているって」
——生きている?
その瞬間、冷水を浴びせられたように感じる。果たして彼女は自分を見ているのか?それとも……。
その答えを自分は冷静に出した。
——何を言っている。お前は身代わりだ。
挑戦的な口調で自分を睨み上げる人。その目を睨み返し、試すように顔を近付ける。それでもし目を逸されたなら、少しでも拒む色を見せたなら、すぐに離れようとそう思っていた。だが彼女は真っ直ぐこちらを見て、それからそっとその瞼を下ろした。その静かな動きに導かれるようにして撫子色の唇にそっと口付ける。それから幾度か重ねられる口付け。目の前には白く細い首と透き通るような薄桃色の頰。その頰に自らの穢れた指で触れるのは気が引けて、ただそっと頰を寄せる。と、彼女がくすぐったそうに笑った気配がした。それに誘われるようにして彼女が纏っていた着物を脱がせていく。着物に焚きしめられた香か、くすんだ甘い匂いがうざったい。そんなものより彼女自身を感じたかった。彼女との間を阻む邪魔な布を取り払い、白い肌に自分の身を寄せる。あたたかい。柔らかくてしっとりとしている。そう感じた瞬間に、彼女が折れてしまいはしないかと危ぶむ気持ちが何処かに飛んで行ってしまいそうになる。この香のせいだ。頭を振り払って息を詰めながら、それでも彼女がどこかに消えてしまわないように彼女をしっかりと抱き締める。
——トクトクトクトク。
早鐘のように打ち鳴らされている彼女の胸の鼓動が伝わってくる。それは自身の身体を駆け巡る血の流れとまるで同じ速さだった。そう感じた刹那、身体中の血がドッと湧き返るような心地がした。同じ律を奏で、共鳴し合う二人の鼓動。振動。それはまるで、この世には今、自分と彼女しかいないと勘違いしてしまいそうな不思議な感覚だった。
でも、なんだろう?この感覚には覚えがある気がする。心の奥を探りに行く。ふと心に浮かぶ、見慣れた木曽の山並み。
——そうだ、狩り場だ。愛馬を駆けさせ、急峻な山道を獲物を追って空を飛ぶ。人馬一体。それぞれの呼吸がぴたりと揃い、鼓動が美しく重なり、山の神に赦しを乞いて供物を捧げる。
——供物。それはいつも得た獣の首だった。
スッと意識が引き戻される。大切な宝玉のような穢れなき存在。それが彼女。このような事態になっていることが知れたらどうなるか。間違いなく自分は縛り首にされて獄門に晒される。父や兄達のように。その光景がありありと浮かぶ。
——自分は一体何をしているのか。彼女のいつもの気紛れに振り回されて、やっと繋いだ自分の生を棄てるつもりか。家人や同郷の仲間達の身を危うくさせるつもりか。そう自問する。離れろ。今ならまだ間に合う。そう、今ならまだ。何事もなかったように振る舞って、彼女を送って行けばいい。
だが身を起こしかけた所で気付く。黒々とした大きな瞳が自分を見つめていた。
いつもその視線は感じていた。御簾の向こう、桟敷の上から、流鏑馬を行なう自分をじっと窺う視線。初めは私が失敗をしないか案じているのかと思っていた。だから失敗など出来なかった。初めての流鏑馬で、どうにか矢を的に皆中させ、馬の首を巡らせて戻ろうとした時、安堵の息を吐く彼女が見えたような気がした。
——自分を案じて見てくれている。
じわりと胸に広がっていく甘く熱い塊。
自分は鎌倉に逆らう存在だった氏族の生き残り。味方の少ないこの鎌倉で、流鏑馬の射手という大役に急遽抜擢された自分にとって、彼女が見てくれていることは何よりもの支えになった。その後、何度も神事で流鏑馬の射手を務めるようになり、やがて一人前の御家人として認められるようになる。それを彼女は殊の外喜んでくれた。たまに神事の場に彼女の気配が感じられない日もあった。それでも変わらずに役目を果たした。
だが気付く。全て違わず射終わって喝采を浴びても、彼女の気配がない日は心がどこか虚しいことに。
弓の上達ぶりを母に褒めて貰おうとする幼い子どものようだと苦笑した。
でも、そう考えるのも無理はなかった。彼女は私にとって庇護者だった。頼朝公と相対して滅びた武将の嫡男という立場の自分が今も生き残り、御家人として重用されているのは彼女のおかげ。彼女が自分の主の許婚者であったから、彼女は夫の家臣である私を守ろうとしてくれた。それだけのこと。なのに、いつの間にか彼女は私の中で一際大きな存在となっていた。いつからか、目が彼女を探し求めるようになっていた。見られていると感じると胸が高鳴った。しくじりなど許されなかった。もし一度でもしくじれば、射手の役を外されるかもしれない。彼女の姿を見る機を失ってしまう。
「最近、お前、鬼気迫ってるよな」
同郷の友に言われた。
「いい加減、俺に流鏑馬の射手を譲ってくれよ」
ふざけ半分、本気半分の友の言葉に対して、極めて冷徹に返した。
「自分の力で役を手に入れろよ」
傲慢だと自覚していたが、他の有力御家人らに比べて、この役以外では目立つ活躍の出来なかった自分にとって、流鏑馬でのし上がる以外に道がなかった。若公の狩の手伝いもし、弓のこととなったら、諏訪か下河辺か新田か、または、と頼朝公挙兵以来の重鎮と並べて名が上げられるようになり、頼朝公の信を得られるようになった。そして、いつかもっと力をつけたら、もしや彼女と、と叶わぬ夢を見た。
だが、そんな浅はかな夢は、彼女が京の公卿と見合いをしたことで簡単に砕け散る。
なのに、打ちのめされたその日に彼女はやって来た。一夜だけの妻にしてくれと。許されないことなのは明白。でも離したくなかった。あの時、少女だった彼女はいつの間にか乙女になっていた。そして自分を受け入れようとしてくれている。
苦痛に眉を顰めた彼女。でも声は上げなかった。気丈な彼女のこと、堪えたのだろう。ただ、逃された熱い息が胸にぶつかり、彼女の香りとなって自分を包む。彼女が潰れてしまわないように腕で身を支えながら彼女を見下ろす。彼女は自分を見上げていた。もう怯えの色はなく、薄っすら蒸気した頰は笑んでいるように見えた。
「っと」
微かな声で言われ、何と言われたのかわからず、その口元に耳を近付ける。
「もっと」
彼女の声がはっきりと耳に届いた。
「もっと見ていたいのに。貴方を。感じていたいのに。生きているって」
——生きている?
その瞬間、冷水を浴びせられたように感じる。果たして彼女は自分を見ているのか?それとも……。
その答えを自分は冷静に出した。
——何を言っている。お前は身代わりだ。
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