155 / 225
第五章 明石
第5話 遠い香り
しおりを挟む
ヒメコは単姿で大姫の床の中へと潜り込んだ。姫が眠っているかのように、長い髪を外の箱の中に入れる。
過去、義高殿が御所を出る時、海野幸氏はこうして髻を上掛けの外に出して息を潜めていたのだろう。すぐに見付かることは分かっていたけれど、それでも彼は主とその幼い妻の為に、黙してそこに留まった。
ヒメコは床の中で上掛けをすっぽり頭の上まで被り、部屋の中に充満する香木の匂いが上掛けの隙間から漏れくるのを嗅ぎながら遠い過去へ想いを馳せた。幼い頃のヒメコは佐殿の香りが好きだった。その膝の上に乗って美しい絵巻物語を広げ、説明を聞く時間が楽しみだった。佐殿の匂いはきつくて嫌いだと言ってからかいつつも、その後自分の着物に残った移り香を楽しんでいた。京の香りだと聞いて、京とはどんな所だろうと想像しながら日記などを読み耽った。牧の方のお供で訪れた京は、幼い頃に想像していた京とはどこか違ったけれど、今思い出すと香りは似ていたかもしれない。
そんなことをつらつらと考えている内にヒメコはいつの間にか寝入ってしまっていた。
「姫御前、姫御前ったら」
揺すられて目覚めたら、まだ辺りは暗かった。
「フジ、今日は曇りなの?暗いわね」
寝惚けたまま答えたら笑われる。
「姫御前ったらお寝惚けさんね。さ、身代わりはおしまいよ。起きてちょうだい。ほら、早く」
強く揺すぶられて、やっと頭が動き出す。
「え、姫さま?やだ、私ったら。御免なさい」
慌てて起き上がり、八幡姫の脱いだ女官服を受け取り、単になった八幡姫を床の中に押し込む。その身体は冷えていた。
八幡姫はいたずらな目をして、床の中から顔を覗かせた。
「ああ、あったかい。外は寒いわよ。だから姫御前は今日はここでこうして隣にずっと居てね。約束よ」
言って、にっこりと微笑む。ヒメコは頷くと、上掛けから出て来た八幡姫の冷えた手をさすってあたためる。やがて八幡姫はポツポツと話し始めた。
「言われた通り、夢を見て、見せて来たわ。一片の香木が燃え尽きる間だけの夢。でも行って良かった。お陰で踏ん切りがついたわ。ヒメコ、有難う」
礼を言われ、静かに首を横に振る。八幡姫が起き上がった。風が起こり、甘い匂いがふわりと広がる。八幡姫はその場に横座りしてヒメコを振り返るとそっと微笑んだ。それは一人の大人の女性の微笑だった。その女性は言った。
「私、京に行くわ。百鬼の棲家、古い都の御所へ。妃になりに」
静かだけれど決意をたたえた声。
何と返していいのか、ただ八幡姫を見つめるヒメコの前で、八幡姫は首にかかった長い髪を指でそっと横へ流した。
「私、思い出したの。約束をしたことを。いつか京を動かせるようになるって。それを助けて欲しいって。だから」
そこで言葉は切れ、八幡姫はと床へまた伏して上掛けの下に隠れた。
小さく鼻を啜る音が聞こえたのをヒメコは聞こえぬフリをした。小さく密やかに、姫にも届かぬように唄を口ずさむ。
まだ赤子だった八幡姫が夜泣きをした時に負ぶって歩きながら歌った唄。そうして過ごす長い夜が明け、雀が囀り始めるまで八幡姫の部屋は暗く静かなままだった。
翌日、大姫は一条高能殿に嫁ぐよう薦める御台所の言葉に、断固拒否の姿勢を見せた。
「そんなことをするくらいなら、池に身投げして石にかじりついて沈んでやる」
一条様との縁談は先方が断ってきて消えた。人々は、大姫様は亡き志水冠者義高殿のことをまだ慕っておられるのだと、貞女の鑑として賞賛した。
——貞女?
ふと思う。血生臭い筈の曽我兄弟の仇討ちは美談とされた。姫の我儘と言われて不思議ない筈の大姫の結婚拒否も美談にされようとしている。誰かが故意にそのように仕向けていないだろうか?その裏で何か暗躍する向きはないのか?
そう思ってからヒメコは首を横に振った。どうしたのだろう。いつの間に自分はこんなに物事を疑う癖がついてしまったのか。でも、どこか晴れない心の曇り。
「え、父が請文を書かされた?」
突然もたらされた報に、ヒメコはコシロ兄の腕にしがみついた。
「どうして?何の咎でです?」
「義父上がその昔、勧農使として越前に赴いてより、あの辺りは義父上の管理の元にあったのだが、どうも在地で召し抱えた中に不逞の輩が居たようで、横領をしていたらしい。それを取り締まるよう前々より命は出されていたのだが、最近になってまた狼籍が止まぬと最勝光院より重ねての訴えがあったとのこと」
「最勝光院?」
「後白河法王の后、建春門院様が建てた寺院だ」
「建春門院様の寺社」
「だが、最初の訴えより随分と年月が経っている。義父上も手は打っておられた筈。どうも不審だ」
「不審って、何かの企みということですか?」
「分からないが、とにかくお義父君は将軍に陳謝されて請文も出された。ただ恐らく、あの辺り含め、義父上の後始末を同じ比企一族である比企能員殿がつけるよう将軍様は取り計らわれるだろう」
「父はどうなるのですか?」
「既に請文を出され、将軍もお認めになった。これ以上は何もないだろう」
コシロ兄の言葉通り、それ以上の咎めはなかった。ただ、父は比企庄に続いて、北陸の土地も失った。
気力を無くした父は床に伏せるようになり、やがて軽い風邪をこじらせた数日後に亡くなった。あまりに呆気ない別れだった。
「トモに風邪が移るといけないから、早くお戻り。あと二日も寝ていれば治るから。そうしたらお前の作った煮物を食わせておくれ。そう、よく母が作ってくれた、干瓢の入ったあれがいい」
そう言って笑顔を見せてくれたのが最後だった。母が一人残された。祖母と父に頼りきりだった母。江間に引き取ることにする。
と、父の屋敷も理由をつけられて取り上げられた。御所に程近い良い所にあったからだ。母は何も言わなかった。コシロ兄が母の代わりに後家の権利を主張してくれたが、うやむやにされ、渡されたのは幾ばくかの金子のみ。
——どうして、こんなことが起きたのか。
幕府内で何かが歪み始めていた。
翌年の春、頼朝は、御台所、頼家、大姫に乙姫、大勢の御家人らを引き連れて上洛する。当然、コシロ兄もその列で将軍のすぐ側に連なる。見送りに出た頼時がそう教えてくれた。
「大層華やかな行列でした。私もいずれ京に行くことがあるのでしょうか」
無邪気で期待に満ちた頼時の声にヒメコは微笑んで答えた。
「ええ、きっとありましょう。そうしたら、和歌の師の藤原定家殿にもお会い出来ますね」
頼時は顔を輝かせて頷いた。
「はい!」
ヒメコはそんな頼時がに気付かれないそっと嘆息して庭の向こうの西の空を見上げた。薄く茜色が差し始めた空。その下では、今はどんな香りがしているのだろう?八幡姫はどんな気持ちでその香りを嗅いでいるのだろう?
母も同じ空を眺めていた。何も言わずに。庭に咲く梅の花から仄かに甘い香りが流れてくるけれど、誰も何も言わず、梅は静かにその花びらを地に落とした。
過去、義高殿が御所を出る時、海野幸氏はこうして髻を上掛けの外に出して息を潜めていたのだろう。すぐに見付かることは分かっていたけれど、それでも彼は主とその幼い妻の為に、黙してそこに留まった。
ヒメコは床の中で上掛けをすっぽり頭の上まで被り、部屋の中に充満する香木の匂いが上掛けの隙間から漏れくるのを嗅ぎながら遠い過去へ想いを馳せた。幼い頃のヒメコは佐殿の香りが好きだった。その膝の上に乗って美しい絵巻物語を広げ、説明を聞く時間が楽しみだった。佐殿の匂いはきつくて嫌いだと言ってからかいつつも、その後自分の着物に残った移り香を楽しんでいた。京の香りだと聞いて、京とはどんな所だろうと想像しながら日記などを読み耽った。牧の方のお供で訪れた京は、幼い頃に想像していた京とはどこか違ったけれど、今思い出すと香りは似ていたかもしれない。
そんなことをつらつらと考えている内にヒメコはいつの間にか寝入ってしまっていた。
「姫御前、姫御前ったら」
揺すられて目覚めたら、まだ辺りは暗かった。
「フジ、今日は曇りなの?暗いわね」
寝惚けたまま答えたら笑われる。
「姫御前ったらお寝惚けさんね。さ、身代わりはおしまいよ。起きてちょうだい。ほら、早く」
強く揺すぶられて、やっと頭が動き出す。
「え、姫さま?やだ、私ったら。御免なさい」
慌てて起き上がり、八幡姫の脱いだ女官服を受け取り、単になった八幡姫を床の中に押し込む。その身体は冷えていた。
八幡姫はいたずらな目をして、床の中から顔を覗かせた。
「ああ、あったかい。外は寒いわよ。だから姫御前は今日はここでこうして隣にずっと居てね。約束よ」
言って、にっこりと微笑む。ヒメコは頷くと、上掛けから出て来た八幡姫の冷えた手をさすってあたためる。やがて八幡姫はポツポツと話し始めた。
「言われた通り、夢を見て、見せて来たわ。一片の香木が燃え尽きる間だけの夢。でも行って良かった。お陰で踏ん切りがついたわ。ヒメコ、有難う」
礼を言われ、静かに首を横に振る。八幡姫が起き上がった。風が起こり、甘い匂いがふわりと広がる。八幡姫はその場に横座りしてヒメコを振り返るとそっと微笑んだ。それは一人の大人の女性の微笑だった。その女性は言った。
「私、京に行くわ。百鬼の棲家、古い都の御所へ。妃になりに」
静かだけれど決意をたたえた声。
何と返していいのか、ただ八幡姫を見つめるヒメコの前で、八幡姫は首にかかった長い髪を指でそっと横へ流した。
「私、思い出したの。約束をしたことを。いつか京を動かせるようになるって。それを助けて欲しいって。だから」
そこで言葉は切れ、八幡姫はと床へまた伏して上掛けの下に隠れた。
小さく鼻を啜る音が聞こえたのをヒメコは聞こえぬフリをした。小さく密やかに、姫にも届かぬように唄を口ずさむ。
まだ赤子だった八幡姫が夜泣きをした時に負ぶって歩きながら歌った唄。そうして過ごす長い夜が明け、雀が囀り始めるまで八幡姫の部屋は暗く静かなままだった。
翌日、大姫は一条高能殿に嫁ぐよう薦める御台所の言葉に、断固拒否の姿勢を見せた。
「そんなことをするくらいなら、池に身投げして石にかじりついて沈んでやる」
一条様との縁談は先方が断ってきて消えた。人々は、大姫様は亡き志水冠者義高殿のことをまだ慕っておられるのだと、貞女の鑑として賞賛した。
——貞女?
ふと思う。血生臭い筈の曽我兄弟の仇討ちは美談とされた。姫の我儘と言われて不思議ない筈の大姫の結婚拒否も美談にされようとしている。誰かが故意にそのように仕向けていないだろうか?その裏で何か暗躍する向きはないのか?
そう思ってからヒメコは首を横に振った。どうしたのだろう。いつの間に自分はこんなに物事を疑う癖がついてしまったのか。でも、どこか晴れない心の曇り。
「え、父が請文を書かされた?」
突然もたらされた報に、ヒメコはコシロ兄の腕にしがみついた。
「どうして?何の咎でです?」
「義父上がその昔、勧農使として越前に赴いてより、あの辺りは義父上の管理の元にあったのだが、どうも在地で召し抱えた中に不逞の輩が居たようで、横領をしていたらしい。それを取り締まるよう前々より命は出されていたのだが、最近になってまた狼籍が止まぬと最勝光院より重ねての訴えがあったとのこと」
「最勝光院?」
「後白河法王の后、建春門院様が建てた寺院だ」
「建春門院様の寺社」
「だが、最初の訴えより随分と年月が経っている。義父上も手は打っておられた筈。どうも不審だ」
「不審って、何かの企みということですか?」
「分からないが、とにかくお義父君は将軍に陳謝されて請文も出された。ただ恐らく、あの辺り含め、義父上の後始末を同じ比企一族である比企能員殿がつけるよう将軍様は取り計らわれるだろう」
「父はどうなるのですか?」
「既に請文を出され、将軍もお認めになった。これ以上は何もないだろう」
コシロ兄の言葉通り、それ以上の咎めはなかった。ただ、父は比企庄に続いて、北陸の土地も失った。
気力を無くした父は床に伏せるようになり、やがて軽い風邪をこじらせた数日後に亡くなった。あまりに呆気ない別れだった。
「トモに風邪が移るといけないから、早くお戻り。あと二日も寝ていれば治るから。そうしたらお前の作った煮物を食わせておくれ。そう、よく母が作ってくれた、干瓢の入ったあれがいい」
そう言って笑顔を見せてくれたのが最後だった。母が一人残された。祖母と父に頼りきりだった母。江間に引き取ることにする。
と、父の屋敷も理由をつけられて取り上げられた。御所に程近い良い所にあったからだ。母は何も言わなかった。コシロ兄が母の代わりに後家の権利を主張してくれたが、うやむやにされ、渡されたのは幾ばくかの金子のみ。
——どうして、こんなことが起きたのか。
幕府内で何かが歪み始めていた。
翌年の春、頼朝は、御台所、頼家、大姫に乙姫、大勢の御家人らを引き連れて上洛する。当然、コシロ兄もその列で将軍のすぐ側に連なる。見送りに出た頼時がそう教えてくれた。
「大層華やかな行列でした。私もいずれ京に行くことがあるのでしょうか」
無邪気で期待に満ちた頼時の声にヒメコは微笑んで答えた。
「ええ、きっとありましょう。そうしたら、和歌の師の藤原定家殿にもお会い出来ますね」
頼時は顔を輝かせて頷いた。
「はい!」
ヒメコはそんな頼時がに気付かれないそっと嘆息して庭の向こうの西の空を見上げた。薄く茜色が差し始めた空。その下では、今はどんな香りがしているのだろう?八幡姫はどんな気持ちでその香りを嗅いでいるのだろう?
母も同じ空を眺めていた。何も言わずに。庭に咲く梅の花から仄かに甘い香りが流れてくるけれど、誰も何も言わず、梅は静かにその花びらを地に落とした。
0
お気に入りに追加
14
あなたにおすすめの小説
鎌倉最後の日
もず りょう
歴史・時代
かつて源頼朝や北条政子・義時らが多くの血を流して築き上げた武家政権・鎌倉幕府。承久の乱や元寇など幾多の困難を乗り越えてきた幕府も、悪名高き執権北条高時の治政下で頽廃を極めていた。京では後醍醐天皇による倒幕計画が持ち上がり、世に動乱の兆しが見え始める中にあって、北条一門の武将金澤貞将は危機感を募らせていく。ふとしたきっかけで交流を深めることとなった御家人新田義貞らは、貞将にならば鎌倉の未来を託すことができると彼に「決断」を迫るが――。鎌倉幕府の最後を華々しく彩った若き名将の清冽な生きざまを活写する歴史小説、ここに開幕!
旧式戦艦はつせ
古井論理
歴史・時代
真珠湾攻撃を行う前に機動艦隊が発見されてしまい、結果的に太平洋戦争を回避した日本であったが軍備は軍縮条約によって制限され、日本国に国名を変更し民主政治を取り入れたあとも締め付けが厳しい日々が続いている世界。東南アジアの元列強植民地が独立した大国・マカスネシア連邦と同盟を結んだ日本だが、果たして復権の日は来るのであろうか。ロマンと知略のIF戦記。
勇者の如く倒れよ ~ ドイツZ計画 巨大戦艦たちの宴
もろこし
歴史・時代
とある豪華客船の氷山事故をきっかけにして、第一次世界大戦前にレーダーとソナーが開発された世界のお話です。
潜水艦や航空機の脅威が激減したため、列強各国は超弩級戦艦の建造に走ります。史実では実現しなかったドイツのZ計画で生み出された巨艦たちの戦いと行く末をご覧ください。


魅了が解けた貴男から私へ
砂礫レキ
ファンタジー
貴族学園に通う一人の男爵令嬢が第一王子ダレルに魅了の術をかけた。
彼女に操られたダレルは婚約者のコルネリアを憎み罵り続ける。
そして卒業パーティーでとうとう婚約破棄を宣言した。
しかし魅了の術はその場に運良く居た宮廷魔術師に見破られる。
男爵令嬢は処刑されダレルは正気に戻った。
元凶は裁かれコルネリアへの愛を取り戻したダレル。
しかしそんな彼に半年後、今度はコルネリアが婚約破棄を告げた。
三話完結です。
聖女召喚されて『お前なんか聖女じゃない』って断罪されているけど、そんなことよりこの国が私を召喚したせいで滅びそうなのがこわい
金田のん
恋愛
自室で普通にお茶をしていたら、聖女召喚されました。
私と一緒に聖女召喚されたのは、若くてかわいい女の子。
勝手に召喚しといて「平凡顔の年増」とかいう王族の暴言はこの際、置いておこう。
なぜなら、この国・・・・私を召喚したせいで・・・・いまにも滅びそうだから・・・・・。
※小説家になろうさんにも投稿しています。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる