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第五章 明石
※外伝 一夜の夢、一塵の香、一生の瑕 1
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これが業というものなのだろうか。
私はいつも人を見送る役を与えられる。死出の旅に出る人を。
「小太郎。あの子を頼むわね」
言い遺して息を引き取った姉。
「小太郎。しっかと若殿をお護りするのだぞ。我らは御大将について、見事平家を打ち滅ぼして戻るからな」
馬上で手を振った父と兄達。
「小太郎、私は行く。身代わりを頼んで済まない」
頭を下げて部屋を飛び出して行った、同じ歳の主人。
——そして。
「開けて。入れて頂戴」
聞こえる筈のないその人の声に、跳ね起きて戸を開ける。中に飛び込んで来たのは女官姿に身をやつしたその人だった。その後ろに、良からぬ輩でもいるのでは、と咄嗟に脇の刀に手をかける。
「何故、こんな所に。お一人で居らしたのですか?」
息を切らした彼女を左腕で支え、右手で刀の柄を握る。彼女は、ええと答えて、支える為に伸ばしていた左腕から自分の胸の中へと飛び込んで来た。風と共に立ち昇る香りに鼻腔をくすぐられ、思考が停止しかかる。
「一体何事があったのです?貴女がこんな所に来るなんて」
ここは鎌倉でも外れの山際の崖の突端に位置する小さな平地。有力御家人らは、崖の谷間の、ヤツ(谷)と呼ばれる要害の地をそれぞれ与えられていたが、自分が与えられたのは使い勝手のあまり良くない崖が張り出した際の一画。与えられたその小さな平地に小さな館を構えて数人の家臣だけ置いていた。彼女がここに来たのは初めてのこと。ここに自分がいることを知っていたとすら思いもよらなかった。
「何事もないわ。ただ貴方に会いに来ただけよ。一夜の夢を見せて欲しくて」
「夢?」
繋がらぬ話に戸惑うが、思えば彼女はいつも唐突だった。風のように現れて、そして跡も残さずにまた去って行く。まるで夢を見ていたのではないかと思う程に。だから今回もそうなのかもしれないと、そう思いかける。だが、この香り。そして胸に伝わってくる熱が、彼女が夢や幻ではなく事実その人であることを教えてくれる。胸に押し当てられた柔らかくあたたかな温もりがそっと動き、それにつられて長い黒髪がサラリと艶めかしく首元に纏わりつく。
——コクリ。
思わず鳴らしてしまった喉に背から汗が噴き出る。高鳴る胸の音が彼女に聞こえはしないかと懸命に身を離そうとするが、彼女はその両腕を自分の背まで回して離れてくれようとしない。もしかして何かに怯えているのだろうか?努めて冷静に言葉を紡ぐ。
「馬で遠駆けでもしていて迷われたのか?お送りしましょう。早く戻らねば」
だが、その言葉は途中で遮られた。塞がれた口。塞いでいたのは彼女の唇だった。そうと気付いたのは、目の前にあった彼女の長い睫毛が離れていって、その口が次の言葉を紡いだ時。
「抱いて」
紅を差していない、でも撫子色のふっくらとした唇がそう発した音。信じられない思いで目の前の女人を見つめる。聞き間違えだと思おうとした耳元で更に言われる。
「お願いだから、夢だと思って私を貴方の妻にしてください。今だけ、今夜一晩だけの妻に。貴方に会いたくて馬で駆けて来たの。お願い。一生のお願いだから、どうか今だけ、一夜だけの夢を見させて。私がまだ私である内に」
震える声。背に回された腕にこもる力。愛おしく想ってきた女に懇願され、抗う心の余裕は残されてなかった。彼女を抱え上げ、奥の部屋へと向かう。一枚だけ敷かれた畳の上に横たえて腕を押さえつける。だが目の端に彼女から滑り落ちた淡い色の薄手の袿が映った。その色は主人が好んで身につけていた直垂の色に似ていた。
私はいつも人を見送る役を与えられる。死出の旅に出る人を。
「小太郎。あの子を頼むわね」
言い遺して息を引き取った姉。
「小太郎。しっかと若殿をお護りするのだぞ。我らは御大将について、見事平家を打ち滅ぼして戻るからな」
馬上で手を振った父と兄達。
「小太郎、私は行く。身代わりを頼んで済まない」
頭を下げて部屋を飛び出して行った、同じ歳の主人。
——そして。
「開けて。入れて頂戴」
聞こえる筈のないその人の声に、跳ね起きて戸を開ける。中に飛び込んで来たのは女官姿に身をやつしたその人だった。その後ろに、良からぬ輩でもいるのでは、と咄嗟に脇の刀に手をかける。
「何故、こんな所に。お一人で居らしたのですか?」
息を切らした彼女を左腕で支え、右手で刀の柄を握る。彼女は、ええと答えて、支える為に伸ばしていた左腕から自分の胸の中へと飛び込んで来た。風と共に立ち昇る香りに鼻腔をくすぐられ、思考が停止しかかる。
「一体何事があったのです?貴女がこんな所に来るなんて」
ここは鎌倉でも外れの山際の崖の突端に位置する小さな平地。有力御家人らは、崖の谷間の、ヤツ(谷)と呼ばれる要害の地をそれぞれ与えられていたが、自分が与えられたのは使い勝手のあまり良くない崖が張り出した際の一画。与えられたその小さな平地に小さな館を構えて数人の家臣だけ置いていた。彼女がここに来たのは初めてのこと。ここに自分がいることを知っていたとすら思いもよらなかった。
「何事もないわ。ただ貴方に会いに来ただけよ。一夜の夢を見せて欲しくて」
「夢?」
繋がらぬ話に戸惑うが、思えば彼女はいつも唐突だった。風のように現れて、そして跡も残さずにまた去って行く。まるで夢を見ていたのではないかと思う程に。だから今回もそうなのかもしれないと、そう思いかける。だが、この香り。そして胸に伝わってくる熱が、彼女が夢や幻ではなく事実その人であることを教えてくれる。胸に押し当てられた柔らかくあたたかな温もりがそっと動き、それにつられて長い黒髪がサラリと艶めかしく首元に纏わりつく。
——コクリ。
思わず鳴らしてしまった喉に背から汗が噴き出る。高鳴る胸の音が彼女に聞こえはしないかと懸命に身を離そうとするが、彼女はその両腕を自分の背まで回して離れてくれようとしない。もしかして何かに怯えているのだろうか?努めて冷静に言葉を紡ぐ。
「馬で遠駆けでもしていて迷われたのか?お送りしましょう。早く戻らねば」
だが、その言葉は途中で遮られた。塞がれた口。塞いでいたのは彼女の唇だった。そうと気付いたのは、目の前にあった彼女の長い睫毛が離れていって、その口が次の言葉を紡いだ時。
「抱いて」
紅を差していない、でも撫子色のふっくらとした唇がそう発した音。信じられない思いで目の前の女人を見つめる。聞き間違えだと思おうとした耳元で更に言われる。
「お願いだから、夢だと思って私を貴方の妻にしてください。今だけ、今夜一晩だけの妻に。貴方に会いたくて馬で駆けて来たの。お願い。一生のお願いだから、どうか今だけ、一夜だけの夢を見させて。私がまだ私である内に」
震える声。背に回された腕にこもる力。愛おしく想ってきた女に懇願され、抗う心の余裕は残されてなかった。彼女を抱え上げ、奥の部屋へと向かう。一枚だけ敷かれた畳の上に横たえて腕を押さえつける。だが目の端に彼女から滑り落ちた淡い色の薄手の袿が映った。その色は主人が好んで身につけていた直垂の色に似ていた。
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